囚人
後書きにネタバレアリ
湿気はないのに陰湿な空気が充満していて、異様なほどに足音と話し声が響きわたる。
俺はこの場所がこの世の中で一番嫌いだ。陰気臭いし女っ気はないし、周りにいるのは眼が逝っちまった連中ばかり。
刑務所。それがこの場所の名前であり、この場所において俺の本名は意味を持たない。代わりに使われるのは入所順に付けられる四桁の数字。まさに人の道を外れた輩には打ってつけの戒めだ。
変な薬品でも飲めばたちまち怪物にでもなるんじゃないかってくらい、やたらガタイのいい看守に拘束され、俺は一つの監房へと連れて来られた。
そこには聞いていたとおり先客がいた。白髪交じりの貧相な顔立ちの男だ。
「囚人番号二五七二番。今日からこの三一四六番と一緒だ。わかっていると思うが諍いを起こすなよ。起こした場合自分の首を絞めることになることを忘れるな」
看守がそう言うと。
「へへっ、わかってますって。いったい何年ここにいると思ってるんですか」
「ふん、それもそうだな」
卑しい笑みを浮かべる男に看守は努めてつまらなそうに返した。。
気味の悪い男だ。
最初こそそう思ったものの、実際に同じ監房で過ごしてみると、そこまで狂った男ではないようだった。
腹の中が何色なのかはわからないが、とりあえず表面上はちゃんと規律を守る模範囚だ。
知り合いを一人殺した罪で服役しているらしく、俺が強盗傷害で捕まったことを告白すると、なかなかやるねえ、と半ば褒め称えるかのように自嘲的な笑みを浮かべていた。
だがそこで怖れる俺じゃない。褒められたものじゃあないが、俺ももう刑務所に入れられるのも四回目だ。
「あんたに言われたかねえよ」と返すと、二五七二番は決まったようにあの下卑た笑みを浮かべるのだった。
二五七二番との同房生活も一月を迎えた頃だ。
あいかわらず俺たちは看守の評価を下げないように適当に気をつけながら過ごしていたのだが、奴は暇つぶしのつもりだろう、何気なく話を振ってきた。
「こんな噂を知っているかい? この刑務所にはな、囚人にまぎれた看守が囚人共を監視しているらしいぜ」
「囚人にまぎれて? また何でそんなことを?」
眉を顰めて見せると、おもしろそうに二五七二番はまたあの笑みを見せた。。
「見極めてんのさ。本当に真面目にお勤めしてんのか、うわっつらだけで「気をつけ」して、腹ん中は真っ黒なのかどうかってことをよ」
「ほお、そりゃまた面倒なことをするもんだ。しかし本当にいるのか? そんな奴が」
普通に考えたらそんなことはしない。確かにそれで腹の中を探ることはできるかもしれないが、実際のところ刑務所の役人ってのはそこまで真面目じゃない。
内心じゃあこんな糞共ばかりじゃなくて女性刑務所にでも配属されたかったぜ、と思っているような奴ばかりだろいうことを、俺は今までの経験上知っている。
半ば聞き流すように返事をすると、男はにやりと、いつもよりもいっそう気味の悪い笑みをつくっていた。
「さあ? どうだろうねぇ……」
静かに紡がれた言葉が、異様に気味悪く感じられた。
男が静かに寝入っている頃、俺は一人で考え込んでいた。
頭にあるのは男が言っていた噂のことだ。
(囚人にまぎれた看守か……)
その裏で行われている制度よりも、噂自体に効果があるのだろうと思った。
実際に看守がまぎれていようがいまいが、その噂には囚人を大人しくさせる抑止効果がある。
結託して脱獄の計画でも立てようものなら即刻ばれて刑期が上積みされ、同じ暴力沙汰でも囚人同士の殴り合いと、看守に暴力を振るうのでは罪の重さが違ってくる。
囚人の腹黒さが刑期延長という形となって表れるという意味では、看守の囚人への扱いにお似合いの工作なのかもしれない。
そしてもう一つ気になるのは囚人番号二五七二番。
あのいかにも犯罪者という風体が嫌でも人を疑心暗鬼にさせる。
あんな男にあんな話をさせられたら誰だってこう思ってしまうだろう。
『もしかしたらこいつが看守かもしれない』
(あまり気を許さないほうがいいな……)
そう思っていると、いつの間にか思考は緩やかに眠りの中に溶けていった。
看守の怒声が響きわたったのはだだっ広い食堂で昼食に入っていた時だった。
騒ぎの原因はどうやら囚人番号二五七二番が飯の乗ったトレイを、躓いた拍子に他の囚人の足に零してしまったことらしい。
別に火傷するほど熱くはなく、かかった量も少しだったのだが、相手は札付きだ。
当然のように激昂し二五七二番の胸倉を掴むや否や、思い切り殴り飛ばしたのだ。
一時騒然となったものの、看守が取り押さえたことで騒動は集束した。
だが俺は見ていた。殴り飛ばされた二五七二番が、にやりと口元を歪ませていたのを。
確信した俺は監房に戻ってから二五七二番に問いただした。。
「なあ、あんたさっきのわざとやっただろう? なぜそんなことをするんだ?」
すると男はいつものにやけた笑みとは違う、くくっと小さく声を漏らしたと思ったら、今までの男とは別人かと思うほど鋭利な視線をこちらに向けてきた。ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
「違う、違うだろう? あんたの聞きたいことは。あんたが聞きたいことはこれだろう」
その狂った眼が俺を射殺すように見つめる。
「お前は看守なんじゃないか。ええ? そうだろう? そう聞きたいんだろ?」
一瞬、心臓が高鳴るのを感じた。
確かにあの噂をこの男から聞いた後なら普通はそう思うだろう。わざと飯をぶっかけて相手が激昂しないか見ているのだろう、と。
しかし。
「……ああ、そうだな。それを聞きたかった。だが俺の推測が正しければ……あんたは看守じゃない」
「ほお……どうしてそう思う?」
「あんたの目は異常だ。この囚人どもがわんさかいる中でもとびきりな。あんたは普通の犯罪者には理解できないことで欲求を満たしている異常者だ。だからあんたは看守なんかじゃない」
そう言うと男は心底楽しそうに声を抑えながらひとしきり笑うと、しばらくしてから答えを返した。
「ああ、そうだよ。俺は看守じゃあない。俺はな、他の馬鹿どもが勝手に自爆しているのを見るのが愉快でたまらないんだよ。ちょっと挑発したくらいで暴力沙汰を起こし自滅する。あいつがお前の悪口を言っていたぞと嘘を吹き込めばすぐに信じて乱闘騒ぎ。最高だと思わないかい? 自分の手で人の人生を叩き落してやるってのは」
「……わからねえな、俺には。面倒ごとを起こせばその分出所が遅くなるだろうが」
「はっ、わかってねえなあ。そこを上手くやるんだよ。考えてもろよ。俺に対する看守の評価を」
「……」
考えて、なるほどと思った。
この男の頭が狂っていることは間違いないが、看守からすればこいつは騒ぎの発端にはなっても非はなく、普段は大人しくしているためどちらかと言えば模範囚に近いはずだ。
このまま過ごしていれば刑期短縮もあり得る。
全てを理解した上でこの男を評価すれば、まさに狡猾と言えた。
「ああ、早くシャバに出たいなぁ。早くシャバに出て、今度はもっと大勢の奴らの人生を狂わせてやりてえなぁ」
その完全に狂った眼は目に見えない何かを見つめているかのように中空を彷徨う。
そこで唐突に俺ははっとした。
「もしかして俺にあの噂を話したのは、俺があんたの本性に気づいても迂闊に他の奴に話させないためか?」
「お、頭が働くねぇ。正解さ。一緒の牢屋に入ってる奴には嫌でも探られちまうからねぇ。俺を看守だと思い込ませれば下手には手を出せないだろ? それにちっとでも頭が働く奴なら俺が看守だと思い込んでも、それを他の奴には言わないはずだ。犯罪者なんて奴ぁ誰だって抜け駆けしたいはずだからなぁ」
飛んだ食わせ者だと思った。
この男、狂っているようでよく考えている。こういうのを悪知恵が働くというのか。
それにしても一つ気になった。
「でもなんて俺にバラしたんだ? 他人に話しちまったらまずいだろう?」
「いや、頃合いってやつよ。お前さんには話してなかったんだが、模範囚として認めれて晴れて仮釈放さ」
「なに? 本当なのか?」
「ああ、まあお前さんには早く感じるだろうが、俺はもうここにずいぶんと長くいるんだぜ? 長年の功績ってやつさ」
男はひひっと小さく笑う。
「……でもいいのかよ。俺がそのことをバラしたら……」
「模範囚の長年の態度と、新参の言葉、看守さまたちはどっちを信じるだろうねえ?」
「……なるほどな」
確かに男の言うとおりだ。俺がこいつの本性を話したところで、単なる妬みだと一笑に付されるのがオチだろう。
危険な野獣を野に放つとも知らずに刑務所の役人たちは仮釈放の判子を押したのか。馬鹿な奴らだ。
「ま、そういうわけだ。短い間だったが世話になったな。お前さんもせいぜいうまくやれよ」
「ああ、まあ……今のところうまくいってるさ。驚く程にな」
「ひひっ、そりゃお互い幸運なことで」
そうして話は終わり、男はご機嫌そうに横になると、やがて静かに寝息を立て始めていた。
囚人二五七二番の仮釈放の日がやってきた。
機嫌よさそうに、しかしあくまで謙虚な態度で看守と接する男。
手続きをするからと男が連れ出されてしばらくした後、一人の看守が一人監房の中で暇をもてあましている俺の元へやってきた。
「どうしたんだい看守さん? 俺に何か用かい?」
「……来い。お前は別の奴と共同生活を送ってもらう」
「ちぇっ、せっかく一人でのびのび過ごせると思ったのによお」
「ぐだぐだ言わずに早く来い!」
「へいへい」
そう言われて連れて来られたのは看守たちの待機室だった。
囚人たちを監視するためのモニターやら警備システムやらを管理している部屋だ。
「着替えはこれだ」
渡されたものに着替えて、俺は再び連れ出された。
向かう先は囚人二五七二番の元。今は手錠で繋がれながらも嬉々とした表情で看守と諸々の注意事項を聞いているに違いない。
ドアについている小さなガラス窓から覗くと、謙虚な態度で静かに話を聞いている男がいた。内心は真っ黒のくせにと思わず笑みをこぼしてしまう。
「入らないのか?」
看守に言われて一度手で制した。
「まあ待ってくれ。この場面が一番の醍醐味なんだ」
一度服に皺が寄っていないか、崩れていないかチェックする。よし、決まっているなと納得したところでドアノブを開き、中へと入る。
入った瞬間、男と目が合いその顔がフリーズするのが見えた。
これだこの瞬間がなんとも言えない快感なのだ。
「え、あ……な、なんで……」
唖然としている囚人二五七二番に俺は満面の笑みを浮かべて言ってやった。
「おめでとう、囚人二五七二番。君は晴れて仮釈放取り消しだ!」
俺がそう言っても、囚人二五七二番は固まったままだった。
それはそうだろう。今まで一緒に囚人生活を送っていた奴が、看守の服を着ているのだから。
二つ目の作品ですがまたもや叙述トリックです。別に叙述トリック専門に書いているわけではないので誤解なきよう。
一応矛盾はないはずです。おかしなところなどありましたら遠慮なくご指摘ください。
またどんな感想でも歓迎です。一言だけでもよろしくお願いします。