霧の中
居室へと戻るため、無言でリンの後について歩く。
気まずい空気のなか、リンの後頭部を見つめながら、なんとか隙を作れないものかと思考をめぐらせた。
(────手刀とかで気絶させられないかな)
よく漫画でもあるあの手法。素人だが思いっきりやれば可能なのではないだろうか、と思いついた。
みぞおちなら経験済みなので確実な気もするが、リンに前から攻撃をくらわすのは無理だろう。
(ていうか、みぞおち殴られて気絶経験ある女子高生って……)
しかし、暴力なんて……。それに失敗したらまた酷い目にあわされる。今すぐ殺されることはないにしても、怖い……。
恐怖心と道徳心がブレーキをかけるが、背に腹はかえられない。
(私は生き延びる。そして家に帰るんだ!)
歩く速度を少しあげて、じわりじわりと距離を詰める。
腹を括ると、リンから受けた理不尽な暴力への怒りがわいてきた。
この恨み、この一発にこめてやろうと、片手を高く掲げた。
────が、それは未遂に終わってしまった。
振りかざすより先にリンが振り向いたのだ。
「────あっ……」
(────やばっ!!)
高く上げたままの手を見られてしまい、たらりと、冷や汗が流れた。
(き、キレる……!?)
しかし、リンは何も言わずにまた歩き出した。
葵はしばらく固まっていたが、慌てて追いかける。
(────ば、ばれてないの? たまたまだったのかな……?)
ならばもう一度やってみようと、今度はためることなく思いっきり振りかざした。
(────くらえ、悪霊退散!!)
────が、それも手応えなく終わる。
リンは身をかわすと、逃げられないよう葵の手を掴んだ。空いた手で拳を構える。
その目掛ける先は、葵のみぞおちだ。
「────うそうそうそごめんごめん!! 冗談です!! すみませんでした!!」
全力で許しを乞う。
蟻は象のような強大な相手には平伏すしかないのだ。
「ド素人が……」
そう吐き捨てると、葵の手を離し、また何事も無かったように歩き出した。
どうらやら、お咎めなしですんだらしい。
(────あ、あぶなっ……!! 今気絶したら明日になっちゃうところだったよ……)
葵はほっと胸を撫で下ろすと、また別の方法を模索しながら歩を進めるのだった。
***
(もういっそ、楽になるのも悪くないかも……)
居室に着いた頃には、そんな投げやりな考えも頭をよぎっていた。すぐに頭を振ってそれを追いやる。
これをもう何度繰り返しただろうか。
リンの監視を逃れるのは至難の業だ。
(────いやいや、弱気になっちゃダメだ!! 絶対生き延びるぞ!!)
一度は逃げ出せたのだから、と自分を励ます。
まあ、それも最初からばれていたのだが……。
「おかえりなさいませ」
居室の障子を開けると、菊乃がうやうやしく両手をついて頭を下げた。
リンは葵の襟首を掴んで居室へ押し込めると、ぶっきらぼうに言った。
「儀式は明日。こいつが逃げないよう、目を離すな」
「かしこまりましてございます」
菊乃の返事を聞くと、ピシャリと音を立てて戸を閉めた。
なんて奴だ、と障子に向かって威嚇していると、菊乃に優しく声をかけられた。
「葵様、お食事の用意が整ってごさいます」
「き、菊乃さあん……!!」
そんなに時間が経っていないのに、実家に帰ってきたような安心感がわいて、葵は泣きついた。
一日で色々なことがありすぎた。
妖獣に襲われ、人が死ぬのを嫌というほど見せられたあげくオカッパに殴られ、ギスギスした会議で死刑宣告を受けた後、またオカッパから暴行を受けた。
もはやトラウマのオンパレードである。
「ど、どうされたのですか? 葵様、わたくしに触れるのは……」
「いいのそんなの!! もうなにもかもうんざり!! 全部クソくらえだよ!!」
「そ、そのような品のない言葉を口にされては……!!」
「だってヒドイんだよ!? 全部勝手に決められてさあ!! まだ十代なのに死ぬの私!? あんまりだよ!!」
おんおんと泣きじゃくると、菊乃は戸惑いながらも背中を叩いてあやしてくれた。
「葵様、わたくしは心から感謝しております」
「……え?」
菊乃は綺麗に微笑んだ。
「下界のどこかにいる親や兄弟をお救いくださること。今日この日まで健やかに生きてこられたことを。わたくし達は水巫女様によって生かされているのです」
困惑のあまり言葉が出てこない。
菊乃は何を言っているのだろう、とひたすら考えた。
「水巫女様のお役目は、とても尊きものにございます」
愕然とした。それと同じくらい落胆もした。
別に神のように崇めて欲しいわけじゃない。
死ぬのが嫌だ、と言っているのに、なぜ犠牲になるのが良い行いのように言うのだろうか。
結局、優しい菊乃もあちら側だということだ。
(なんだ……なにもわかってくれないんじゃん)
菊乃は朱色の漆器を乗せた膳を、ぼんやりしている葵の前に置いた。
着々と食事の準備がなされていく。
鯛を丸々一匹焼いたものと汁物、根菜の煮物に、お新香が添えられた定食スタイルで、白米は山盛りに盛られている。
(鯛かよ……なんもめでたくないわ!!)
今日一日、何も口にしていなかった葵は、空腹が限界に達していた。だが、残念な気持ちが胃をもやもやさせているせいで、かき込むほどの気力はない。
鯛の白くなった目が、地面に転がる自分の生首のそれと重なる。
こんな感じで白目をむいて、ひどい顔をして死ぬのだろう。
(美しくもなんともないな……)
ふてくされながら箸を持つ。
改めて見れば、まるで祝言のような豪勢な料理だ。
きっと、最後の晩餐というやつだろう。
(お肉が食べたかったな……リクエストくらい聞いてくれればいいのに……)
身の内で文句をたれ流しながら鯛に手をつけようとすると、誰かが手をつけた痕跡があるのに気が付いた。
「菊乃さん……」
「はい」
「つまみ食いした?」
菊乃はきょとんとしてから、料理に視線を移した。
それからすぐに、くすくすと笑った。
「まさか! これは毒見のあとにございますゆえ、安心してお召しあがりくださいませ」
「ど、毒見!?」
そんなことまでするのかと驚く。
どうせ死ぬのだからそんなのいらないだろう、とも思ったが、水波盛家にとっては、儀式の前に巫女に死なれては困るのだろう。
どこまでも徹底している。
(毒殺も嫌だなー……)
ぼんやり思いながら、白米を口に運んでいると、使っている箸に目がいった。
よからぬ考えがよぎる。
(────これ、凶器にならないか?)
目や喉を狙えば……、と心の中で悪魔がささやいた。
リンが相手では無理だが、女なら────菊乃ならば、力ずくでなんとかならないだろうか。
葵が袴姿なのに対し、菊乃は着物をきている。
着物は動きずらいだけでなく、歩幅を制限されるのだ。
(────いける!!)
葵は菊乃に近づいた。
「……葵様?」
「菊乃さん、ちょっと……」
菊乃の背後にまわりこむと、菊乃は首を傾げた。
そのまま抱きつくようにして、取り押さえた。
「さ、騒がないでください!!」
「あ、葵様────!?」
喉もとに箸を突きつけると、菊乃は驚愕の声をもらした。
「ごめんなさい……でもこうするしか────」
「────お、おやめくださいませ!!」
視界が反転し、背中を強打した。
自分の身に起こったことが信じられなかった。
しとやかで、見るからに無害そうな菊乃に投げ飛ばされたのである。
(────き、聞いてないよ……)
とんだ隠し球ではないか。
大人しそうな顔をして、実は武芸をたしなんでいるだなんて思いもよらない。
思惑が失敗して、葵はすっかり絶望した。
これでは全く逃げられる気がしない。
そんな葵に、菊乃は一歩下がり、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!! お怪我は……大事ございませんか!?」
葵はそれを無視した。
腹が立っていたから、菊乃がもっと慌てふためけばいいと思っていた。
「────あ、葵様……?」
菊乃の声がおそるおそるになった。
それでも葵は無反応を続ける。
畳を摺る音がして、菊乃が近寄ってくる気配を感じる。
「あ、あの……だいじょう────」
顔を覗き込まれた瞬間、葵は菊乃の頭をがっしりと掴み、思いっきり起き上がった。
「────いっ!!」
「────くっ!!」
目の前を無数の星が散った。
葵は揺れる頭をおさえながらも、なんとか居室から這い出て、全速力で駆け出した。
「────ご、ごめんなさい!!」
顔を覗き込まれる寸前で、咄嗟に思いついた作戦は、自分にもダメージがあるとはいえ成功したわけである。
「リン様!! リン様あああああ!!!!!!!!」
後ろから菊乃の叫ぶ声が追ってきた。
(────やばい!!)
リンに見つかったら逃げ切れる気がしない。
あいつが駆けつける前に姿をくらます必要がある。
だが、ここから先は無計画だった。
(────どどどどどうしよう!?)
昼間に歩いたとおりに廻廊を走っていると、その時の記憶がよみがえった。
(途中で、霧が濃くなる所があったんだ! 今も霧が出ていれば目くらましにはなるかも……!!)
しばらく走ると、その岐路が見えてきた。
鎖で遮られ、昼間よりいっそう、おどろおどろしく見える。
葵は鎖を越えるのを躊躇した。
『こっち』
「────え?」
霧の向こうから呼ばれた気がした。幼い女の子の声だ。
「巫女様ー!!」
「葵様ー!!」
あちこちで葵を呼ぶ声がする。社が徐々に騒がしくなってきた。
ドタバタと複数の足音が近づいてきた為、葵は慌てて鎖をくぐり抜けた。
辺りが白い霧に包まれる。
意外にも通路はほんの二、三メートルで途絶えていた。
「────そんな……ここで終わりなんて冗談じゃない!!」
四つん這いになってその下を覗くと、少し離れたところに木製の小舟が一つ浮かんでいる。
(────この先にも何かあるんだ!!)
葵は小舟をつなぐ縄を手繰り寄せ、滑り落ちないよう、気を張りながら小舟に乗り移った。
手漕ぎは慣れている。
祠に行く為に、何年もほぼ毎日漕いできたのだから。
しばらく進むと、霧の中に黒い影が見えてきた。
近づくにつれて、建物だとわかったが、かなり古い。社というよりは、木造の簡素な日本家屋といった方がしっくりくる。
壁や屋根には所々隙間があり、まるでお化け屋敷のような佇まいに、葵は身震いした。
「……入るしか、ないんだよね……?」
本殿は崖や塀に囲まれているし、戻るわけにもいかない。
気味が悪いが、一旦身を隠すには良いかもしれない。
葵は家の前に小舟をつけると、縄を適当な柱に繋いだ。
改めて見ると、やはりただらなぬ雰囲気がある。
葵はゴクリと唾を飲み込むと、家の入口に足を踏み入れるのだった。




