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この本〈ハイデガー著「ニーチェⅠ、Ⅱ」細谷貞雄 監訳〉は何度も
読み返しましたが、それでもほとんどチンプンカンプンなんですが、し
かし、いまやグローバル経済の下で「成長の限界」を迎え、行き詰まり
にきているこの現代にこれからどう生きるべきかを教えてくれる貴重な
哲学書だと信じて已みません。以下は私がニーチェ=ハイデガーが残し
た命題を手引きにして、稚拙ではありますが、行き詰まりの近代社会を
転換させるヒントがあるのではないかと信じて、極力分かり易く記して
みたいと思います。
まずニーチェは、世界とは「生成」であると言います。そして「生成」
とは変遷流転する世界であり、そこでは「真らしきもの」は必然として
求められても絶対不変である「真理」そのものは幻想であると言うので
す。つまり、変遷流転する「生成」の世界では堅固に固定化された「真
理」は絶対ではないのです。では、「真理」とは何であるか?われわれ
の理性が創り上げた認識である。たとえば、ここに書かれた文章は恥ず
かしながら私の理性が創作した認識であるが、これらは固定化された文
章と今現在の認識であり、いずれ「生成」変化する社会状況にそぐわな
くなるでしょう。過去に書き残した文章を改めて読み返してみた時に、
現在の自分の感想との違いに思わず恥ずかしくなる。それは、われわれ
の理性が創り出すものは固定化したもので、それらは変遷流転する「生
成」の世界にそぐわなくなるからだ。では、われわれが創作した様々な
もの、それはかつては絶対的な宗教もそうだったが、今や堅固に固定化
された科学製品も劣化の果てに「生成」の世界とそぐわなくなる。いや
、すでに科学物質は、「生成」の循環再生を阻害して、様々な自然環境
に変化をもたらしている。
そもそも形而上学〈Meta-physics〉とは、存在者(事実存在)としての
存在(本質存在)とは何であるかを思惟する学問で、それは古代ギリシャ
のプラトン・アリストテレスから始まった。プラトンは、「生成」とし
ての存在はいずれ消え去る不完全な仮象の存在でしかなく、完全な理想
の存在こそが真の存在であると言い、それを「イデア」と言った。こう
して世界は事実存在としての仮象の世界と、本質存在としての「イデア」
の世界に二分され、「イデア」の世界は後にキリスト教世界観へと引き
継がれ、形而上学による「真理」の追求はやがて科学知識をもたらした
。しかしニーチェが言うように、世界とは変遷流転する「生成」である
とすれば、「真理」もまた固定化したものではなく、「真らしきもの」
としての必然性はあっても真理そのものは「幻想」でしかない。あのー
、今さら改めて言うのも何ですが、「変遷流転する真理」というのはそ
もそも矛盾律ですから、当然「真理は一つで不変」でなければならない
のですが、「生成」の世界にそぐわない固定化した「真理」は科学を生
み、科学知識は固定化した科学物質を創出し、変遷流転する「生成」の
世界で「永劫に回帰する」自然循環を妨げ再生を滞らせ「生成」のしく
みを破壊する。つまり、自然と科学の対立は、簡単に言ってしまえば、
生成変化する自然(生成)に固定化した科学(真理)がそぐわないことから
生じる。ニーチェが言うように世界とは変遷流転する「生成」であると
すれば、固定化した科学技術は「生成」の進化をも妨げる。たとえば、
科学文明社会で暮らすわれわれの視力はすでに科学技術の補助「メガネ」
なしでは生活できないほどにまで退化している。いずれ人類とは「メガ
ネをかけた生物」と定義する日が来るに違いない。こうして、科学技術
の進化は身体的「退化」を加速させる。すでに我々は死だけでなく誕生
でさえも科学技術の介入によって「生成」が人為的に歪められようとし
ている。ところで、科学技術によって人為的に管理された生命とは「家
畜」にほかならない。
「真理とは幻想なり」であるとすれば、われわれの認識は「真理」に
的中せずに世界は意味を失い「ニヒリズム(虚無主義)」へ陥る。真の
世界の頽落は同時に仮象の世界(現実)を無価値化する。「ニヒ
リ ズム」から脱け出すためにわれわれに求められるのは新しい価値の
設定である。かつて、われわれは「神は死んだ」と聞いて、人間中心主
義に価値を見い出し、科学技術をもちいて「生成」の
世界を作り変えてきた。しかし今や科学技術がもたらす環境破壊は「生
成」の 循環再生が妨げられ、グローバリゼーションの下ですでに限界
を越えて 、「生成」としての世界の持続可能性が危ぶまれている。地
球温暖化が もたらす異常気象、自然破壊による環境変化、そして人口
爆発などなど、いずれも限界に達した地球環境の下で、これまでは世界
内存在〈ハイデガー〉として「正義」のお墨付きを与えてきた「ヒュー
マニズム」がその価値を失うのもそう先の話ではないのかもしれない。
いや、もっとはっきり言おう、ヒューマニズムが蔑ろにされる最大の出
来事とは戦争である。「成長の限界」に達した世界経済の下では経済成
長は「ゼロサム」化して、たとえば、中国の利益はアメリカの損失にな
るだけで、全世界の生産量そのものは変わらない。だが、経済成長の奪
い合いは次第に熾烈になってやがて戦争へと至る。そして戦争はヒュー
マニズムを喪失させニヒリズムを生む。
固定化した科学的認識から作られた科学物質はゴミにな っても「生
成」へは回帰せずに世界にとどまる。「生成」は材料として人間中心主
義の下で固定化した人工物質に造り変えられて持続可能性(サステイナブ
ル)を失い再生されなくなる。限界に達した近代社会は、行き過ぎた科学
主義を見直して「生成」としての世界に回帰しなければならない。「生
成 」への回帰はヒューマニズムの放棄にほかならないが、世界内存在と
して「生成」の世界に依存しなければ生きていけないヒューマン(人間)
にとって仕方のないことだと思う。なぜなら、世界が終わっても、それ
でも人間だけが残っていることなど起こり得ないからだ。気持ちは分か
らないでもないが「人命は地球より重い」訳がない。限界に達した近代
社会を見直して、新しい社会的価値を見い出すには大きな価値の転換が
求められる。新しい価値定立は、限界に達した科学主義をまずは「断念」
する「覚悟」が迫られる。何故なら科学主義的視点からいくら新しい価
値の創出を試みてもそれは従来の延長線上の付け足しでしかなく、価値
転換は起こらない。自動車に乗って舗装された道路を走りながら前人未
踏の荒野を探しても見つかるわけがない。価値転換はまず意識転換から
始まる。たとえば、地球温暖化問題への危機感を共有し、いち早く対応
した西欧諸国では官民を挙げて規模の大小を問わずに継続して取り込ん
でいる。ところが地球温暖化問題を疑うアメリカに依存するわが国は、
かつては京都で開催された「COP3」で環境意識が高まったがその時
だけで終わってしまった。西欧諸国は日本の環境技術へ期待を寄せてい
たが、われわれは従米主義から自立することができなかった。つまり、
われわれは未来よりも今を選んだ。
(つづく)