8th Lap.打ち破るは二人の力で
《また突拍子も無いことを……。うーん、樹里、どうだ?》
「…………やってみます」
それは、私にとって、初めての決断だった。
――私は、言葉を映像として見ることがある。
それは小学校中学年の頃には始まっていただろうか。
何か答えなければならないような時、まるでゲームの選択肢のように、いくつかの言葉が文字として目の前に浮かんでくるのだ。
そして私は、それを選ぶ前に、どうしても、それを選んだ先の展開も想像してしまう。どの言葉を選ぶのがベストなのか。それを考えずにはいられないのだ。そしてそれは、言葉に限らず、行動を決定する時でも同じようなものだった。
そういった逡巡はそれほど長い時間を掛けないが、それでも普通の人の受け答えよりも時間が掛かる。
そのせいで、不審がられたり、気味悪がられたりしたこともある。
だからだろう、自分から積極的に人に関わることは減っていった。
曖昧さを許さないコンピュータ言語、プログラミングに興味を持ったのも、そういった背景があってのことなのだと思う。
そんな私にとって、衝撃的な出会いがあった。
それは、高校生になった初日のこと。
入学式を終えて、一年を過ごすクラスへ踏み入れた私は、一人の少女に目を留めた。
どこか、心ここにあらずといった様子の彼女に、私は自分のことを棚に上げて、変な子だな、なんて思ったのだ。
自己紹介で、彼女は片山未玖と名乗った。
その時も、何か他の事を考えている様子なのに聞かれたことに素早く答えていて、凄いな、とは思った。だが、衝撃的だったのはその直後だ。
衝撃的すぎて、彼女が具体的になんと言ったのかは覚えていない。だけど、恐らく、何か、駄洒落のようなことを言ったのだと思う。
彼女がそのことを考えていたから上の空だったとは思えない。何故なら、それを言う時も、彼女は笑わせてやろうとか、そういった意思があるようには見えなかったからだ。
なのに、彼女は息をするように自然に、それを口にした。
私にとって、言葉というものは、考えて、選んで、それから口に出すものだ。だから、彼女が特に考えるようなことも無く、場を凍りつかせるような言葉をあっさりと口にしたことが、とても、とても衝撃的だったのだ。
だから私は彼女に興味を持った。……いや、憧れたといっても良い。
彼女と話してみたいと思った。自分から他人に関わろうとしたことなんて、随分久しぶりで、自分のその気持ちにも驚いた。
そして、彼女を追いかけた先で、私はスラッグにも出会った。
レースというものは、私にとって縁遠いものだという認識だったが、初めて見るその機械、そしてそれを制御するプログラム、そういった部分には興味があった。だから、入部を打診される時も、私の目の前に、スラッグと関わっていくことになるだろう選択肢は、既にちゃんと見えていた。
だけど。
さっき未玖が、私に、先に行け、と言った時、私の目の前に浮かんだのは疑問や否定の言葉で、それを引き受けるという選択肢は、無かった。
なのに、心が。――心が確かに、それを引き受けてみたい、と感じているのが、分かった。
この前のレースの後、響と二人で話した時に、彼女が言った言葉。
「未玖が私を信じるって言ってくれた時、他の色々な感情が霞むくらい、その言葉に応えたいって思ったんだ。きっと、未玖の言葉に裏が無いって分かるからなんだろうね。でも、今の私じゃまだ力不足だと思った。だから私、もっと頑張るって決めたんだ」
響のその言葉は、私にはなんとなく解る気がした。でも、理解した気になっていただけなのかも知れない。
――《樹里なら大丈夫ですって》
その未玖の言葉は、私の心を揺さぶった。
未玖の信頼に応えたい、というのともちょっと違う。多分、私は――、未玖が信じる私を、試してみたいと思った。
そしてきっと、そうすることで、自分で自分を信じられるようになりたいのではないか、そう思った。
だから私は、自分の目の前に浮かんだ言葉では無く、未玖の言葉を選んだ。――それが、私にとって、初めての決断だった。
六周目に入る。
《樹里? こちら茉奈です。今、シールドモニタに未玖のベストラップのログを表示します。参考にして》
「了解。ありがとうございます」
最初に見えた言葉をそのまま口にした。それで大丈夫だっただろうか、なんて余計なことを考えている心の余裕は無い。
そのやり取りのすぐ後、少し遠くに見える形でグラフなどが現れた。今自分が走っている地点と同期するようにポインタがグラフをスライドしていく。視界の邪魔にはならないし、焦点がコースに向いていてもグラフの形は認識できている。――これなら、大丈夫。
そう思って集中していくと、本当にもう一人の未玖が目の前を走っているように見え始めた。
ほとんど無心で未玖達の背中を追いかける。
スター“M”を全開で加速していくところで、未玖から無線。
《それじゃ、仕掛けるからね。よろしく、樹里》
「了解」
そう答えながら、自分が珍しく、ハッキリとワクワクしているのを感じた。
未玖がコーナリングで早めに加速し、相手を外から追い抜こうとする動きを見せる。
すると、前を塞いでいた二人も、ラインを外に膨らませた。
そのインを、私だけに見えている未玖が駆け抜ける。
私はただ、その背中にぴったりと付いて、走るだけ。
そして、拍子抜けするほどあっさりと、私は二人の前に出た。
《良くやった! 樹里、ポジション・スリー。浜中とのギャップは二秒も無い。いけるぞ!》
無線から、真智さんの弾む声が聞こえてくる。私の心も、高揚していくのが自覚できる。
バックストレッチでは、加速する未玖のゴーストに置いて行かれそうになる。だけど、私も春までとは比べものにならないほど体力が付いた。まだまだ簡単には離されたりしない。
――そうは思っても、コーナの立ち上がりの加速で未玖は私を引き離す。
考えてみれば当然だ。私が追いかける未玖は、疲れることなくベストラップを刻み続けるのだから。それに、ゴーストの後ろについても、スリップストリームの効果はない。
それでも、ゴーストを再配置して、その背中にただただ必死に食らいつく。
そうして走って、気が付けばもう七周目に入っていた。
浜松中央の背中も見えていた。バックストレッチで、ヘアピンで、ダブルヘアピンで、確実に差が詰まっているのが分かる。そしてメインストレッチで、もう射程圏内と言える差になった。
だけど。――どう抜けば良い?
ゴーストは、敵の抜き方を示してはくれない。
そして、もうファイナルラップ。私は、どうしたら――?
《お待たせ!!》
私の迷いを断ち切るように、第一コーナの立ち上がりでそんな無線が入った。
慌てて、目の前の光景とシールドモニタに映るデータに集中していた意識をバックモニタへやると、そこにあったのは、未玖の姿。
それを見た瞬間、未玖を抑えていた二人の気持ちが分かった気がした。
未玖は速い。だから、彼女たちも体力的に消耗している中で、自分の限界か、もしかしたらそれ以上の走りをしていたのだろう。それは、実際に前との差がさほど開いてない事からも判る。
そしてそんな状況で、彼女たちが苦しくなかったはずが無い。自分の仕事をこなせていたからこそ、耐えられたのではないだろうか。
でも、未玖に集中していたせいで、私のパッシングを許した。
――きっと、気持ちを維持するのは難しかっただろう。心が折れてしまっても不思議では無い。
そうなれば、未玖はその隙を見逃さない。未玖がここにいるということは、そういうことなのだろう。
その未玖から更に無線。
《バックストレッチで私を先行させて。浜中に仕掛けるから。そして、私がダメなら、樹里、もう一度お願い》
もう一度。それはつまり。
「……私が、パッシングを狙うのね?」
《私も狙うけどねっ》
――楽しい、と思った。
誰かと競うということに、私はそれほど熱くなれないと思っていたけれど、そんなことは無いみたいだ。
これは、未玖のおかげ? いや、未玖のせい、って言った方がしっくりくる。
でも、そんなのも悪くないと、今は思う。そして、自分がそう思えることが、少し可笑しく思えた。
《こちらピット。未玖、無茶はしてくれるなよ。でも、二ポイント余分に取れるに越したことはない。二人ともしんどいだろうけど、最後、集中だ》
《あいさ》
「了解」
そして、ヘアピンで、未玖が動く。ブレーキング勝負を仕掛けたのだ。
一瞬遅いブレーキングで、外から交わしに掛かる。だが、立ち上がるところで前を塞がれる。
でも、私はクロスラインを取って、そのインを狙う。
浜松中央は多分、迷った。だけど、次の左に曲がるリヴォルヴァコーナへアウトから侵入するためだろう、ヘアピンのイン、つまり私の前を押さえる判断をした。
そして未玖は、その相手に並び掛け、ほぼサイド・バイ・サイドの状態から、イン側にもかかわらず、リヴォルヴァコーナへの侵入のブレーキングで勝利し、前に出た。
浜松中央は食い下がるが、ヴァイパー・コーナ立ち上がりで未玖が突き放した。
私はダブルヘアピン二つ目で浜松中央のインから入り込み、立ち上がりでアウトを確保、続くマークライト・コーナへの侵入で前に出て、そのまま未玖に続いて三着でフィニッシュした。
ゴールした後、佇んでいる未玖に近付き、無線を開く。
「未玖、皆さん、……お疲れ様でした」
《二人とも、良くやった。お疲れ様》
《……お疲れ様です……》
未玖は、前のように泣いてこそいなかったが、その声からは押し殺せない悔しさがありありと滲み出ていた。
《あぁーーーーっ!! また勝てなかったぁっ!!》
そしてすぐに、その悔しさを押し殺すことを諦めたらしい。
私からしたら、今日の結果は上出来だったと思う。だけど、未玖は満足していない。
私はそれを、凄いと思った。同時に、その感じ方に以前と変化があることに気付いた。
以前は、誰かを凄いと思っても、それは他人事でしかなかった。でも今は、自分もそこに近付きたいと感じている。
――響が、もっと頑張ると言った気持ちが、今度こそ解ったように思う。
《次こそは、勝ぁつ!!》
未玖の決意表明を聞きながら、私は、響に宣戦布告してみようかな? なんて考えていて。
そして、そんな新しい自分を、前の自分よりも好きになれる気がした。