5th Lap.始まるは本物の真剣勝負
『モートポリス』。
大分県にあるサーキットで、アップダウンが激しく、コーナも多いテクニカルなコース。――私が知っていた、このサーキットの知識はその程度。
「このサーキットは運営が何度か変わっていて、今は川滝重工がオーナ。つまり、スラッグレースに参加する、カワタキのホームサーキットということね。実際、カワタキと彼らが支援する学生達はこのコースで何度もテスト走行を繰り返しているらしくて、今回のレースに限って言えば、カワタキが本命と目されているわ」
奏さんが新たにそんなことを教えてくれた。
――今日は、五月第三週の土曜日。
この週末、このサーキットから、スラッグレース初めてのシーズンが、いよいよ始まる。
私達は金曜夜の内に前乗りし、そこそこ立派なホテルでしっかり休んで、万全の体調で今日この場に訪れることが出来た。
「中間テストは置いてきた。ハッキリいって(それを気にしていたら私が)この闘いにはついていけない……」
「えぇ……」
響の呆れたような声が、耳に痛い。
「……初戦が終わったらちゃんと切り替えて勉強頑張るから、今は忘れさせて。これは現実逃避じゃないの。勝つために必要なことなの」
「……レースが終わったら、テストまでの三日間、三人で一緒に勉強しましょう」
「うん、それは良いね。私も心強いし……、未玖も逃げられないし」
樹里の提案に賛成を示した響は、最後こそ少し冗談めかして見せたが、二人とも厚意や善意からそんな風に言ってくれているのだと分かる。
「……はい、よろしくお願いします……」
だから私も、表面はしょんぼりした風を装いながらも、二人に素直に感謝しつつ提案を受け入れたのだった。
――と、まあ、そのホテルでそんなやり取りがあった事はさておき。
身体はおかげさまで万全だが、試合当日となって、心の方は不安や期待がごちゃ混ぜになった、ほどよい、と言うにはやや強すぎる緊張感に包まれている。
だけど、大きいサーキットこそデュアルリンク以来となるが、あれ以降、週に二、三度ほどは都内のテストコースでの走行練習を積み重ねてきた。勝負服に身を包めば、この緊張感も戦うための闘志に変わってくれるはず――、私はそんな気持ちでピットへと向かうのだった。
本日、土曜日は予選のタイムアタックが行われ、初戦のポールポジションを争うことになる。
予選では、エースランナ、セカンドランナ共にアタックを行えるが、それぞれウォームアップラン二周、本番一周のみと、与えられるチャンスは少ない。
より良いタイムをチームの記録として比較し、初戦のグリッド順がチーム毎に決められる。つまり、本番は一つのグリッドから二人が並んでスタートする形になるということだ。
その二人が競い合って前を目指すか、またはセカンドがエースのサポートに徹するか、そういった部分はルールで決められていることはなく、チーム毎の作戦、或いは他チームとの駆け引きで決まる部分になりそうだとのこと。
ただ、最終戦だけは例外で、各ランナの予選でのタイムがそのままグリッド順に反映される予定だという。同シーズンで違うレギュレーションを適用するのは、来年以降に向けてのテスト的な意味合いもあるのかも知れない。
どちらにしても、本戦では、順位は各チームの先着ランナのみが採用され、全七チームが一から七の順位に収まることになる。要は、同チームでワンツーフィニッシュをしても、その次にゴールしたチームが二位になるということだ。
予選を行う順番は、学生が午前、プロが午後のスケジュールで、明日の本戦のレース順と同じく、女子学生、男子学生、プロの順。プロは、予選ではオープンウェイト、ライトウェイトの順番で、別々に行われる。本戦が行われる順番は、レース毎にローテーションして変わる予定だ。
話を戻して、今日のタイムアタックだが、アタック順はくじ引きで決定した。
順に、浜松中央高校(静岡)、平皇学園渋谷高校(東京)、白清女子大附属高校(神奈川)、煌華女子高校(東京)、浜海高校(静岡)、豊加高校(愛知)、新港湾高校(兵庫)。
それぞれ、ヤマナ、スピカ、ミッサン、ホンド、スズイ、トヨカ、カワタキがサポート企業になっている。
この中で、ウチと白清女子が女子校なので企業が支援する男子チームは別の学校になっている。他は企業が支援する学校は一つだが、豊加と浜中はスラッグ部が男子と女子に分かれている体制だそうだ。
そして、シーズンを通しての本命と見られているのが豊加で、企業体力的な側面だけでなく、その名の通り学校運営にトヨカが大きく関わっているため、プロとの関係が緊密であろう事がその根拠の一つになっているらしい。
その対抗と目されているのが、私達、煌女だ。支援するホンドの二輪、四輪両方でのレース経験やデータの蓄積が評価されている形だ。
そういう理由なら、スズイなども同じように評価されるのではないかと、未だモータースポーツに詳しいわけではない私などは思うのだが、今期に関しては、そんなことはないらしい。その根拠は、単純にまだスラッグ開発に力を入れている企業ではないから、ということになるそうだ。
その点で、ホンドやトヨカに次ぐ存在と見られているのが、ヤマナなのだそうだ。ヤマナはスラッグに、というよりは、むしろ学生への支援という点に力を入れているそうで、ヤマナが楽器メーカとしても有名なことを考えれば、浜中が高校吹奏楽の有名校であることも無関係ではないのかも知れない。……私の勝手な憶測だが。
まあ、下馬評がレースをするわけじゃないから、結局は自分達次第だ。豊加や、このレースに力を入れているという新港湾の走りを見てからアタック出来ないのは残念だが、これまでの積み重ねを駆使して、ベストを尽くすしかない。
モートポリスの全長は約四千七百メートル弱と、モテギよりも少し短い程度で、本戦はここを六周して決着を付ける。アベレージスピードはモテギよりもやや速い数値で、そこから算出された一周の想定ラップはおおよそ3’55.300程度。
だが、浜中のエースがいきなり3’53.976という、想定よりも一秒以上速いタイムを叩き出して見せた。
それにプレッシャを受けたというわけでもないだろうが、平学も白清もタイムは三分五十五秒台前半に収まった。
浜中が速いのか、平学や白清が遅いのか。その試金石と見られているような、なんとなく嫌な注目を受けつつ、私達の番になる。
《単純比較は出来ないけど、デュアルリンクのダウンヒルを経験している私達にとって、ここは決して相性の悪いサーキットじゃないはずだ。実際はシミュレータ通りとはいかないだろうけど、それに近い走りが出来れば五十四秒台を切ることも不可能じゃない。響、未玖、大丈夫、君たちなら出来る。落ち着いていこう》
《はい!》
「はい!」
真智さんの言葉は、いかにも監督という感じで心強いのだが、同時に、いよいよ本番なのだとより強く意識してしまい、緊張も感じてしまう。
だけど……、それは、嫌な緊張感じゃない。
緊張している自分を意識すると、不思議と昂揚感というか、闘志のようなものが湧き上がってきて、だけど、身体を包む熱に対して頭の中が冷たくクリアになるような気がする。
今にも走り出したい気持ちも生まれるが、私の出番は響の次だ。大丈夫、真智さんの言ったとおり、落ち着いていこう――。
響が最終コーナを立ち上がり、加速する。セクタ・ツーまでのタイムは、ほんの僅かな差ではあったが、この時点でのベストラップだった。期待は高まる。
そして、ゴール。結果は――3’54.080。決して悪いタイムではない。しかし、浜中には僅かに及ばなかった。
《…………ごめん》
「ドンマイ響。響が良い走りをしてくれたおかげで、良いイメージで走れそう。後は任せて」
《……うん、頑張ってね、未玖》
響に掛けた言葉は決してただの慰めじゃない。浜中の走りが参考にならないわけではないが、何度も一緒に走った響がどう走ってこのタイムを出したか、という方が、自分の中でイメージがハッキリしやすいのだ。
その響のイメージを追いかけるようにウォームアップに入る。足元からの感触や、カーブ時の感覚なども感じるままにインプットして、アタックで自分が走るべき姿も二周の間にイメージを固めていく。
事前に聞いていたとおり、アップダウンが激しい。というか、ホームストレート以外ではいつでも坂道を走っているような印象だ。
そして、身体を横に傾けている時間も長いように感じる。そうなると、肉体的な負荷も思っていたよりも大きいのかも知れない。
ただ、その点に関しては私達はそれなりに自信も持っている。何故ならば、あの初めてのサーキット走行の日、私達はパワーアシスト無しで走っていたからだ。
おかげさまで翌日、翌々日と地獄のような苦しみを味わう羽目になり、その後初めてパワーアシスト付きで走った時の快適さを味わった時は、奏さんに対して怨嗟の念をぶつけてしまいそうにもなったわけだが。
同時に、それだけ厳しい負荷のトレーニングをその後も週に一度行ってきた、という事実は結果として身体に表れているだろうし、私達にはそういった積み重ねがある、ということが精神的な自信や余裕に繋がっているのもまた事実なので、今は響さんには感謝しかない。――ホントウデスヨ?
ともあれ、このコースを実際に走ってみて、感触としてはそんなに悪くない。私が比較的苦手にしているシケインのようなセクションが無いのも好感触の一因かも知れないけど。
――そんな手応えを胸に、いよいよアタックに入る。
意識すると、身体に少し力が入ってしまうのが自覚できた。だが、もう引き返せない。やるだけだ。
ラインを越えて、第一コーナへ向かう。Rは40と、結構厳しいコーナなので、しっかり減速して、右へ。
次のコーナは240Rと緩いので、そのまま加速してパスしていく。この辺りは下りなこともあってスピードの乗りが良いような気がする。
下ったところで、右50R、左50R、左60Rとコーナが続き、その先に更に第一ヘアピンと、コーナが続く。この辺りは私よりは響の方が得意にしているレイアウトだが、――大丈夫。響に負けないくらいスムースなライン取りでクリアできたのではないだろうか。
第一ヘアピンの先は、右100R、左100R、右250Rといったコーナを上っていって、頂上の第二ヘアピンに続く。Rが緩めでも、上りのコーナは見通しが悪いことが多いので、油断は出来ない。タイムアタックの今は理想的なラインを走れるように気をつければ良いが、本番では走るのは一人じゃない。目の前の状況を見ながらベストな判断が出来るように、頭の中のコースレイアウトと今見えている景色をしっかりすりあわせないといけない。
でも今はただ速く走ることに集中だ。
しっかり減速してヘアピンを曲がる。出口へ向いた時には既に下り勾配に変化している感じ。
その先は、通称『ジェットコースタ・ストレート』。比較的急な下りを駆け下りる。
下りきったところには60R、90Rと右コーナが続き、更にその先の上り勾配でもコーナが連続している。
その辺りを越えたところで、それなりの手応えは感じていた。
――だけど、それが油断になったのか、或いは、もう少しだ、という気持ちが焦りに繋がったのか。
最終手前の85Rで、クリッピングポイントをやや手前に取ってしまい、立ち上がりが鈍った。それでも最終コーナからホームストレートへ出来るだけ直線的に加速していく。
タイムは――、3’53.923。ギリギリ浜中を上回ることは出来たが、後ろへプレッシャを与えるには弱いか。
結局、豊加も新港湾も五十三秒台半ばを切るには少し及ばない程度のタイムでタイムアタックを終え、本戦グリッドは新港湾、豊加、煌女、浜中、白清、平学、浜海という、おおよそ前評判通りの順番に決まった。
その夜のミーティング。
「未玖も響も、セクタ・スリーでの細かいミスでタイムを損しただけで、修正できれば前と充分に互角かそれ以上の戦いは出来るはずだ。っていうのが、私達の見解。今までの積み重ねを信じて、二人ともベストを出し切って前に挑んでくれ」
真智さんからの指示はシンプルで、私も響も、その時点では大きな不安は感じていなかった。
――そう、その時点では。
翌朝。
「……これは……、参ったわね……」
奏さんが思わずといった感じでそう呟いた。
その視線の先には――。
――ザアァァァァァ――。
大分県山中のモートポリスには、早朝から、大粒の雨が降り注いでいた……。