2nd Lap.知るは過去最高の疾走感
スラッグって、何かね?
そんな私の疑問を余所に、奏さんの説明は続く。
「響には説明不要だけど、片山さんと中嶋さんには説明が要るかしら。……そうね、まずは見てもらった方が早いわね」
奏さんはそう言って、遠藤さんが台車で運んできた箱から何かを取り出す。――って。
「あ! それは!」
「そう、今朝片山さんが興味を持ってくれたこの装備が、スラッグです。正式名称は他にあるけど、それを英訳した後ろの部分、スピード・ランニング・ギアの頭文字を切り取って、S、RU、Gでスラッグと呼んでるわ」
そう、私が興味を持ったもの。それは、朝、奏さんが身につけていたもの。
ヘルメットにゴーグル、胴体や肘、膝を覆うプロテクタ、そういったものもスポーティで格好いいが、私が惹かれたのは何よりもその足元。
靴の底、それと前後に飛び出すような形でタイヤが六つ付いている。パッと見はローラスケートがマッシヴになったような見た目だが、奏さんが身体を少し傾けただけでスムーズに動き出した様子から、重心か何かを感知して動く、モータ駆動の装備なのだろう。
私のすぐ脇を風のように駆け抜けた、そんなスピードを実現していたその装備に、私は一目惚れしたんだ。
「これは普及モデルだから、レースで使用するものよりも性能は劣ります。それでも、理論上は時速四十キロメートル前後で安定走行が出来るのだけれどね。……もちろん、まだ法整備がされていないので、公道での使用は出来ないわ」
これがあれば通学が楽になる! と思った瞬間に釘を刺された。偶然? ……それとも、そんなに私は分かりやすいのだろうか?
「そして、競技モデルのスラッグを使うレースに出場する、それが私達スラッグ部の主な活動内容になります」
「へー、スラッグって知らなかったけど、レースまでやってるんですね」
「知らないのも無理はないわね。スラッグはまだ市販されていないし、レースも今年が初開催だから。スラッグ協会の正式な立ち上げも去年の秋の出来事よ。……じゃあ茉奈、これのチェックお願い。真智は悪いけどこの辺りの掃除をお願い」
「ふぅん、まだ新しいものなんですね……」
「市民権を得ていないスラッグがいきなりレースなんて不思議でしょう? でもね、自動車の自動運転化や電気動力化が進んだことで、趣味としてのクルマやバイクの市場というのは昔に比べるとかなり縮小しているの。ガソリンエンジン車なんて、国産でも億に届くような、昔の高級車市場よりも敷居の高い金持ちの道楽で、手を出せる人間は限られてる状況だし。だから、どのメーカもこの新しい分野に光明を見出したいのよ。レースは、試験的な場であると同時に、コマーシャルの場でもあるわけね」
奏さんからそんな話を聞いている間に、真智さんは部室等の方から箒を持ってきて、歩道の掃除を始めていた。奏さんからスラッグを受け取った土屋さんは、それをPCと接続して何やら打ち込むと、タイヤがギュルギュルと回転したりしている。
そんな様子をボケっと見ていたら、ふと気になったことが。
「あれ? でも市販されてないなら、何でここに?」
「そうね、元々はいわゆる広義でのワークス、つまり企業自前のチームだけでレースを開催する予定だったのだけれど、最初だから安全性を優先してレギュレーションを決めたところ、一レースでの走行距離が短めに抑えられたの。そうすると、レースそのものに掛かる時間も、二輪や四輪と比べるとかなり短くなる。でも、サーキットを利用するのもタダじゃないし、より多くのデータを集める目的も兼ねてメーカが関係者にスラッグ等を提供、他にも色々サポートする形で、学生選手権も同時に行われることになったというわけなの」
「へぇ……。あ、じゃあ、誰がメーカの関係者なんですか?」
「あら? 気付いてもらえないなんて、ウチもまだまだなのかしらね?」
「ウチって、奏さんの? 本戸……あっ、えっ? もしかして、車とかバイクのホンド!?」
「ご名答。つまりはそういうことね」
おおぅ……、つまり本戸姉妹はマジのお嬢様ってことかぁ……。
「まあ、私達は一応は血縁だけど、親はどちらも技術者で、経営陣とは無縁の一般社員だから、多分貴女が考えているような素敵なものじゃないわよ?」
また心を読まれた!
「だから、私もこの部活ではハード側のエンジニア、メカニックとして働くし、響も基本はランナだけど、私の手伝いもしてもらう予定よ」
「そういえば、さっきからちょいちょい出てくる、先輩達の、役職? みたいなのは、どういうのなんです?」
「そうね、今のレギュレーションでは運営に申請する必要のあるのは、チームの代表のディレクタ、スラッグそのものの整備を担当するハードエンジニア、制御プログラムなどを担当するソフトエンジニア、あとは実際にコースを走るファーストランナとセカンドランナ、そのランナ達に何かあった時のためのサブランナ。これが最低限。サブランナに関しては他の役職との兼任が認められているわ。ちなみに、ファーストランナはチームで一番速い人が担当で、エースランナとも言うわ。……後は学生選手権では大人の同伴も義務づけられているけど、これは顧問の星野先生に頼むことになるでしょうね」
「星野先生って?」
「物理教師の、星野聡美先生。去年は一年生の担当だったから、あなた達とも接点があるかも知れないわね」
「へぇ~」
「片山さん、あのね、星野先生って、私達のクラスの副担任だから、良かったら覚えておいてね……」
暢気な私に、響さんがそこはかとなく虚ろな笑顔で教えてくれる。……なんと言うか、申し訳ないです。
「まあ、細かいレギュレーションは正式に入部が決まった後に覚えてもらうとして。茉奈、どう?」
「もうちょっと」
「オッケ。そうね……、じゃあ先に意思確認をしましょうか。片山さん、中嶋さん、ここまでの話を聞いて、どう? 入部してくれる気持ちはあるかしら?」
「もちろん! むしろ話を聞いて、ますます興味が湧いてきましたよ!」
「そう言ってもらえると嬉しいわね。……中嶋さんは?」
「……はい、元々片山さんが入部するなら、私も、と思っていましたし……。あと、……もしかしたら、土屋さんのお手伝いも、出来るかも知れません」
「それは凄く助かる! 奏も真智もソフトは私に投げっぱなしなんだもの」
土屋さんがPCに向かったまま嬉しそうな声を上げる。
「ごめんってば。……でも、部員が増える上にそっちが出来る子がいるとは、重畳だわ。でもそうなると、もう今年度は勧誘する必要はないかしらね? 説明会はどうしよっか? ――――」
そんな風に暫く会話をしながら土屋さんの作業を見ていた奏さんだったが、会話が途切れると、こちらに向き直る。
「そういえば、片山さんはどうしてスラッグに興味を持ってくれたのかしら?」
「それはですね……、私、走るのが遅いんですよ。だから、今朝のあのスピード感に、ビビッと来たんです」
「走るのが、ねぇ……。良かったらちょっと走ってみてくれない?」
「うーん、良いですけど、笑わないで下さいよ?」
「貴女が笑わそうとしない限り、笑ったりしないわ」
うーん、笑わそうとするようなキャラだと思われつつあるのだろうか……?
そんなことを考えながら、まずはちゃんと身体をほぐす。少し年の離れた兄貴が「急に走って大丈夫なのは若い内だけだぞ!」と、肉離れした足を引きずりながら力説していたので、そんな兄貴に一応の敬意を表して油断はしない。
「じゃあ、行きますね……」
そう宣言して、走り出す。
速く、もっと、前へ。そんな気持ちとは裏腹に、イメージするようには走れない自分がもどかしくなる。
五十メートルも走らなかったけど、フォームを見てもらうだけならこんなものだろうか。
歩いて戻ると、奏さんだけでなく他のみんなもこっちを見ていた。
「なるほどね」
そう言ったのは、土屋さんだった。
「片山さん、上半身がぶれないように、って、強く意識してる?」
「あ、はい。速い人はみんなそうらしいので……」
「なら多分、意識しすぎね」
「えぇっ?」
「と言うか、貴女は気持ちが前に行きすぎ。踏み込む足が必要以上に前に着地して膝も伸びてるから、地面にしっかり力が伝わってない。その上、足の回転を速くしようとしてるせいで地面からの反力もしっかり活かせてない」
……やっぱり眼鏡キャラは知的だった!
「あまりピンと来ない? それとも余計なこと考えてる?」
「……どっちもです」
「そうね……。うん、ケンケンしてみて。それで、前の方に足を着地させてみて」
片足で、前の方に着地……。
「……って、それじゃ後ろに倒れちゃいません?」
「そう、大げさに言えば、さっきの貴女はそれだけ不安定な体勢で無理矢理走ってたというわけ」
「……なるほど」
「じゃあ、できるだけ早く足を動かしてケンケンしてみて? その次に、早く動かすことは考えないで、足の裏でしっかり地面を踏み込むことを意識してケンケンしみて」
言われたとおりにやってみる。……あっ、手応え、と言うよりも足応えか。それが全然違う!
「分かった? 貴女は足を速く動かそうとしてたせいで、ほとんどつま先だけで走ってた。それじゃ地面にちゃんと力を伝えられないし、速く走るのなんて無理よ。上げた足は真下に下ろすくらいの気持ちでも良いし、その足全体でしっかり地面を蹴ることを意識したら全然変わるはずよ」
一蹴り一蹴り、しっかり地面を蹴って走る。そう意識して実際にやってみたら、それだけで、私はちゃんと“走る”事が出来た。
道理でしっくりこなかったはずだ。今と比べれば、さっきまで私がやっていたのは“走る”とは別の行為だったのではないかとさえ思える。
流れる景色も、風を切る感覚も、全然違って気持ち良く思える。もしかしたら、百メートルを走るタイムを計ったところで、一秒ほども速くなってはいないのかも知れない。それでも、感覚では今までよりもずっと早く走れているように感じるのだ。
だから――。これなら私は、もっと速く、もっと先へ、いくらでも走って行ける気がする――。
「ぜはーっ! ぜはーっ!」
……いくらでも走って行ける気がしたが、ただそんな気がしただけだった。
流石にこれだけ広い校舎の周りを全力で一周したら、そりゃバテるわ……。
「……片山さん、大丈夫? これ、水だけど、良かったら……」
響さんが水の入ったボトルを手渡してくれる。
「ッハァ…………。うん、ありがとう。……響ちゃん、マジ天使。いや、マジ女神……」
「あはは……」
そんな苦笑いさえ輝いて見えるよ、マイゴッデス……。嬉しくって変なテンションでごめんね。
他の人達も、驚いているのか呆れているのか、それでも私が落ち着くのを嫌な顔もせずに待ってくれている。……入学初日からいい人達に出会えたなぁ……。
「……落ち着いたみたいね。ところで、貴女はだいぶ速く走れるようになったみたいだけれど、まだこの部に興味はあるのかしら?」
「え? もちろん!」
力強く即答して見せた私に、奏さんは驚いたような表情を見せたけれど。
「……どうして? って、聞いてもいいかしら?」
「だって……、それ履いた方がずっと速いじゃないですか!」
「……それは、道理ね」
私の答えに、奏さんは深く納得してくれたようで、素敵な笑顔を見せてくれた。
「それじゃあ、実際にスラッグを試してもらおうと思うんだけど――」
「はいはいはいはーい!!」
遠藤さんの言葉に、食い気味で主張する。
「……うん、片山さん、そんなに主張しなくても、ちゃんとやらせてあげるから」
「はい!」
「でも、中嶋さんが先ね」
「ズコーッ! って、マンガとかなら私、ひっくり返ってますよ!」
「あははは。未玖ちゃんは面白いなぁ」
「真智先輩に楽しんでもらえて何よりです」
そんな小粋なトークを繰り広げる私達を尻目に、中嶋さんが装備一式を身に着け終えていた。
「走り方は簡単。重心を傾けるだけ。身体が倒れないように自動的に動いてくれるはずよ」
そう奏さんから説明を受けた中嶋さんは、ゆっくりと動き出した。スムースな動き出しだ。
真っ直ぐ進んで、左右の旋回を試して、スピードを上げて、スピードを落として、こちらに向き直って、またスピードを上げたり下げたりしながら戻ってくる。
「どうかしら?」
「……面白いですね。……曲がろうとした時の挙動なども違和感なくて。……そういうのもプログラミングで調整を?」
「そう――」
「そうなの! 違和感を感じさせないようなセンサの感度設定や内輪差を考慮した挙動、そういうのは地味だけど私達の腕の見せ所なの! そうして積み重ねたデータが、将来販売される時に搭載される制御AIのベースになるそうだし! それに、レース用だと普及用よりも手がける項目がもっと多くて、しかもランナ個人個人に合わせたセッティングが必要だから、大変だけど本当にやりがいのある仕事よ。そう言うところに目を付けてくれる子が来てくれて、本当に嬉しい!」
中嶋さんに答えようとした奏さんに割り込む形で、土屋さんが早口で捲し立て、中嶋さんの手を両手で握っている。最初の印象からは想像しづらいようなハイテンションだけど、同志を見つけた嬉しさ故だろうか。それとも、これが素なのだろうか。
「茉奈、嬉しいのは分かったから、そろそろ放してあげて。片山さんも待ってるから」
「あ、ごめんね」
我に返った土屋さんは遠藤さんと一緒に中嶋さんの装備を外すのを手伝う。
そして、その装備を持って、いよいよ私の元へ。
胴体、脛、膝、肘、首、そしてゴーグルにヘルメットと、プロテクタを着けていく。
首に関してはしっかり固定されているけど、その他はあまり動くのに支障がないように感じる。重さも想像していたよりもずっと軽いけど、耐衝撃性はかなり高いらしい。むしろ、そういった素材や技術の進歩によって安全性が確保されたからこそ、スラッグレースも実施される運びになったのだそうだ。
そして、いよいよスラッグを装着。タイヤに充分な厚みが有るので、視点がかなり高くなったように感じる。
「じゃあ、モードを切り替えるわね。さっき見たとおり、前に重心を傾ければ走り出すから」
「はい! 行きます!」
そう言うやいなや、思いっきり前に身体を倒す。
ッ――グイッ!
一瞬つんのめる感じになりそうな感覚があったが、すぐに加速した足元から押し上げられるようにして身体が安定する。
――速い!!
向かい風も強く感じるけど、さっき走ったよりずっと速くて、気持ちいい。景色の流れる速さだって、さっきとは段違いだ!
――だからほら、あっという間に目の前は曲がり角が、ってえええええええー--ーっ!
目の前に迫る植木に向かって、咄嗟にジャンプ!! って、何で飛ぶの!? 曲がれよ、自分!
結局、植木に足先が引っかかって転び、その先の芝生を横向きにコロコロと転がり、転がり、転がり――、気が付けば芝生の上で仰向けに大の字で寝転ぶ格好になっていた。
起き上がり、周りを見回すと、壁まではまだ距離がある。広い学校で本当に良かった。
改めて自分の身体に意識を向ける。しかし、身体に痛みはない。本当に優秀なプロテクタなんだなぁ……。
――って、感心してる場合じゃない! スラッグは!?
立ち上がり、今度は流石に慎重に、ゆっくりと前に重心を傾けると、芝の上でもちゃんと走り出してくれた。旋回も試してみるが、問題は無さそうだ。――それを確認して、心底ホッとした。……走る前に聞いておくべきだったかな、……値段。
芝生の上をのろのろと道の方へ戻ると、向こうからみんなが駆けてくる。
「大丈夫?!」
怒鳴るようにそう言った奏さんの表情は、険しい。
「……はい、この通りちゃんと動いてるので、スラッグは多分壊れてないと思います」
「そうじゃないでしょ!!」
……怒られた。
うん、本当は分かってる。みんな、私のことを心配してくれてるんだって。
「この通り、全っ然、大丈夫です!」
私が元気にそう言うと、呆れたような表情を見せてる人もいるけど、みんなホッとしてくれたのが分かった。
そんな雰囲気が、照れくさいけど、嬉しくて。
この人達と一緒に頑張っていきたい、と、私はこの時、心からそう思ったのだった。