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咬舌

 深夜、林間の闇に溶け込む合宿所の室内。


 妻と娘の寝息に耳を澄ましていると、ミュートした携帯の画面が明々と輝いた。突然の眩しさに目を細めながら、画面を確認する。


 1コールだけの着信。公衆電話だった。敷地内のどこかから掛けたのだろう。



 着信履歴を操作して消去。妻と子供の寝顔を視界に収めながら室内をゆっくりと移動して、引き戸をそっと開く。廊下に人影はないが、扉の外でしばらく佇んでいた。


 胸の内に巣食う想いが緊張を呼び寄せて、頭が極度に冴え渡っている。



 食堂の裏口から建物を出て、未舗装の林道に出た。


 夜露に塗れた雑草が足首を撫で、山間の風が雲を吹き飛ばしていく。頭上に視線を移すと、禍々しい程に美しい朧月。


 夏虫のさえずりに耳を浴しながら、崩れかかった石段を踏みしめる。この林道の先、山頂の少し手前を脇道に逸れると、寂れた祠があった。


 この合宿所が建てられる以前から存在しているらしいが、どういった由縁の物かはわからない。合宿所の従業員に尋ねる様な愚も犯さない。



 やがて、その場所に至った。


 細道を登り切ったオレの視界に、優美に湾曲した銅板葺き屋根の小さな祠が見えてくる。その佇まいは去年のそれと寸分違わず、山中の青い闇の中、ただ静かにそこに在った。



 祠に黙礼してから脇に視線を向けると、二本のクスノキが密接して生えている。


 その木陰から白い腕が伸びて、手招きしていた。



 夏虫の鳴き声が遠ざかり、自分の胸の鼓動と足音だけが耳を打つ。最後はもう小走りだった。二の腕を掴んで乱暴に抱き寄せると、彼女の舌に歯を立てる。


 吐息の合間に低い嗚咽が混ざり、彼女の手がオレの肩胛骨を幾度打ち据えても、離さなかった。



 いつまでそうしていただろう。気が付くとオレはクスノキの根元に腰を下ろして、朧月を見上げていた。


 彼女の湿った身体をすっぽりと包む、オレの両腕。オレの舌を歯間に捕らえて深々と刺さる、彼女の八重歯。



 やがて、雲が切れた。月明かりに目を細めながら、彼女の肩をそっと叩く。二回。



「もう? 全然咬み足りないんだけど」


「だめ。雲が切れたら、君も離れる」


「誰が決めたの、そんなルール」


「さっき君が決めたんだよ。あと、そろそろ痛いよ、舌」


「ねぇ、知ってる? 八重歯ってね、下の歯と擦れ合って削れないから、尖ったままなの」


「え、そうなんだ。痛いと思ったよ」


「私もちょっと痛かったんですけど、さっきの?」


「ゴメン。久し振りで優しく出来なかった。あ、また雲に隠れるよ、お月様」


「ん、舌出して。はやく!」



 子供の様に喜色を表して、せがむ彼女。求められるままに舌を伸ばすと、彼女の八重歯がぷつりと食い込む。


 しばらくはこの痛みを感じるたびに、この時間を思い出すだろう。だが……



「そろそろ戻らないと」


「無理。ホント冷静よね、腹立つくらい」


「別れたくないから、冷静なんだよ」



 いつまでも燻る未練を言葉で断ち切って、さっき昇ってきた山道に向かって歩き始める。


 不意に背後から、柏手を打つ大きな音がこだました。二回。驚いて振り返ると、夜空を仰いで手を合わせる彼女。


 樹幹から降り注ぐ月明かりに、目蓋を下ろした彼女の真剣な相貌が浮かぶ。



「いきなり驚かすなよ。何をお願いしたの」


「言えないわ。いまはまだ」


「お願い事ならお月様じゃなくて、そこの祠にしたら?」


「やだ。何をお祭りしているのかわからないし。それに、今夜の私達が願い事をするなら、やっぱりお月様じゃない?」



 子供みたいに無邪気な表情で主張する彼女。さっきまで、こんな表情は全く見せなかった。


 なんだか不思議な説得力があったから、オレも朧月を仰いで控えめに柏手を打ち、願いを掛けた。



「ねぇ、教えて。貴方の願い事」


「君のは教えてくれないのに。フェアじゃないよ」


「いいの。とにかく教えて」


「きっと君のと同じだよ」


「……本当に?」


「本当だよ」


「嘘だったら咬み切るから、その舌」


「どっちにせよ、咬むくせに」


「だって、舌ならバレないから」




(了)

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