緋色の皇女に二重生活 第2話
小説ビザンティン帝国第2話です。やはり史実を元に作ったフィクションなので、史実とは意図的に改変している箇所が多々あります。ご了承ください
セオファノがやって来た次の日の朝、俺が目覚めると、セオファノは既に起きていて兄の妻マリアの着せ替え人形遊びのおもちゃになっていた。
「何だか妹が出来たみたーい!」
そうマリアは嬉々として歓声を上げ、自分の手持ちの服を次々とセオファノに薦める。髪型も色々と捏ね繰り回されては解かれ、折角の滑らかな髪質がダメになるのではないかと俺に危惧させるほどであった。
ねぇ、どうにかしてくれない? これ?
店の奥の俺たち家族の居住区域から出てきた俺に、そんな風に訴えかけるような視線を送るセオファノである。そうは申されども、為すがままにされるしかないんだよな、こればっかりは。義姉さん楽しそうだし、邪魔すると怖い。
ようやくお気に召す髪型と衣装が決まったのか、マリアは「来てみて頂戴」とセオファノを彼女の部屋に送り出した。
「どんな感じになるか楽しみじゃない? ミハイル」
とマリアは俺に尋ねる。
「ん、まあな」
まあ、姉貴の持ってる服だから、大きさとか本人の雰囲気に合わなくて不恰好になる可能性もあるけどな。
しばらくして、セオファノはマリアから渡された服に着替えて、二階から降りてきた。
ふうむ、悪くない。
長い艶やかな黒髪は後頭部で桃色の紐で束ねられ、馬の尻尾のように垂らされている。セオファノの眼の色に近い空色の明るい配色の長衣は、彼女自身の私物であるベルトで、広がり過ぎないように押さえられている。
「うーん、やっぱりこうなったわね……」
マリアはそう言うとセオファノの足元に目をやる。
セオファノはマリアよりも幾分か背が高いので、長衣の裾から足首が見えてしまっている。見た目的にあまりお行儀の良いものではない。マリアは考え込むように頭を捻るが、答えは見つからないようだ。
「どう、かしら?」
と俺に訊いてくるセオファノ。
「良いと思うぞ」
俺的には何でも良いです素晴らしいですハイ。
お行儀の良くない服装も、かえって若さを示す無邪気な雰囲気を醸し出す良い塩梅の隠し味になりそう。子供っぽいのも、良いと思う。
俺の目が濾過した情報なので信憑性に乏しそうだが、敢えて言おう、可愛い。
隈なく衣装を見せつけるように、セオファノはくるりとその場で一回転する。長衣が花弁のように広がってふくらはぎまで見えたが、礼儀正しい俺は何事もなかったような表情を貼り付ける。うん、紳士だ。
「仕方ない、これでいいかな。さあ、ミハイル、開店準備よ」
マリアはぽんと手を叩き、〈営業中〉の文字が書かれた看板を俺の手に乗せ、そうして、セオファノに「はいこれ、仕事中は前掛けをつけてね」と腰に巻きつけるための紐の付いた乳白色の大きな布を手渡す。
セオファノはぽかんとしてその布を眺めていたが、俺が付け方を教えると、たどたどしいながらもそれを身体に巻きつけた。
コンスタンディノスも兄貴も起きてきて、本格的に開店間近だ。
朝食食べて、片付けたら〈営業中〉の看板を扉にかけよう。
そして、お客さんの到来を待つだけだ。
「いらっしゃーい!」
セオファノの働きぶりといえば……。
お盆に飲み物や料理を載せて運ぼうとすると、一歩足を踏み出すたびに手が震えてガタガタ揺れてこぼしてしまったり。酷いときにはずっこけて床に陶器を落として割ったついでに、中身を盛大にぶちまけてダメにしてしまったり(料理を待っていたお客さんに謝らなくてはならなかった、ごめんなさい)。
包丁を剣か何かと勘違いしたかのように振りかぶったり。容器の中身を混ぜてと言ったら周囲に中身を飛び散らせて調理場を派手に汚したり。客が食べ終わった後の皿洗いは手が汚れるのを渋って嫌がったり。
自分で働きたいと言ったのだからやる気自体は感じられるものの、この先やっていけるのか至極不安である。
ここまでどんくさくて、料理の仕方を知らないヤツもなかなか珍しいと思う。今までどんな生活をしてきたのだろう?
マリアは、
「あたしもここに嫁いで来たときはこんな感じだったわ」
と楽天的だった。
あの義姉さんが……。今の彼女の手際良さからは想像出来ない。彼女がセオドロスと結婚したのは七年前なので、俺はよく覚えていないのだろうが。
昼の最も客が入る時間帯が過ぎて多忙さが一段落ついた頃には、セオファノは困憊した様子でボロ雑巾のように広間の卓に突っ伏していた。あうー、とか、うおー、とか唸り声を上げている。
「……こんなに大変な仕事だとは思わなかったわ……」
そう言って、凝っているのかセオファノは自分の腰をトントン叩く。見た目に似合わぬ老人くさい仕草だ。
「まあ、じきに慣れると思うよ。まだ仕事を始めたばかりだから、上手くないのは当然さ」
「自らを追い詰めることはないさ」と俺は彼女に言う。マリア義姉さんもああ言ってることだしね。
「ええ、そうよね……」
セオファノは深い憂いを込めたため息をつく。
よっぽど午前中から昼にかけての店の仕事が身に堪えたらしい。この調子で、夕暮れ時の二回目の繁忙期に働けるか心配である。
「わざわざこんな風に声をかけてくれるなんて、ありがとう。ミハイルさんは優しい人なのね」
「お、おう」
昨日、無理矢理接吻してきた人物から、感謝の言葉を聞けるとは……。これは思いもよらぬ奇怪な事案だ。
そんな俺の戸惑いを察したのか、彼女は更に言った。
「あ、変な意図はないわ。ただ、他人から慰められるのに慣れていなくて」
そうして、セオファノは卓から顔を持ち上げ、仄かな笑顔を俺に向けた。初めて見た彼女の表情だった。
「さて、仕事しなくちゃ」
彼女は椅子から立ち上がり、盆を手にいざ気持ちを切り替えん!
……としたが、その盆を手から滑らせて落としてしまった。そうして、サンダルを履いてはいるが剥き出しになっている足の甲に、痛々しい音とともにぶつけてしまった。
「い……ッ」
あーあー、眼の端に涙溜めてるよ。どんくさいなあ、もう。つい先ほどまでの穏やかな空気が台無しである。
「緊張しすぎだ、落ち着いて」
俺がそう言うと、セオファノは真っ赤な顔で眼を擦った。それは情けない失態だったもんな……。
「痛い……」
頑張れセオファノ、まだまだ仕事は始まったばかりだ。
痛みを堪えながら彼女が盆を拾い上げるのと同時に、店の扉がバム!と開かれた。
「ミハイル来たぞー」
またヨアニスか。
俺の腐れ縁たるヨアニス氏は、店の玄関を額縁に、やたらと気分良さそうな笑顔をこれ見よがしに見せている。
また面倒なことになるのか、と俺は敵の急襲を受けた兵士のように身構える。ヤツと酒の組み合わせは要注意案件だ。
「お、新しい子を雇ったんだねぇ」
彼はセオファノを見て言った。
「まあな。訳ありの子でね、しばらくウチにおいてやってる」
「可愛いじゃない」
「手を出したら……どうなるか分かってるな?」
ヤツの下心が見えたような気がし、俺はクサリヘビのような鋭い目線で彼の双眸を突き刺す。しゃーっ!
「そんなことする訳ないじゃないー。怖い顔はやめなよー」
と、ヨアニスは自らの犯意を否定するが、笑顔を崩さないあたり俺の話を真面目に聴いているのかどうか……。「ミハイル、お前の気持ちは分かってるぞ」とうんうん頷いてくれたりもしやがるから、変な誤解まで生んでいそうだ。
セオファノはヨアニスの関心が自分の方に向いたことにきょとんとしていたので、俺は彼女に一応説明することにする。
「こいつ、俺の親友のヨアニスっていうの。こんなチャらい感じだけど、悪いヤツじゃないから許してやってくれ」
「……あ、そうなのね」
と言ってセオファノはヨアニスの方に向き直り、
「私は……セオファノといいます。昨日より、ミハイルさんの家に住み込みで働かせてもらうことになりました」
「セオファノさんか! よろしくー!」
するとヨアニスのヤツ、絹のようなセオファノの手を両手で握りしめ始めやがった。
「あの」
それで上下にぶんぶん振るものだから、セオファノの顔に滲む戸惑いの色を俺は見逃さなかった。
「そのくらいにしてもらえないか?」
俺はヨアニスの握手行為を止めるべく、体裁だけの笑顔を作って言う。
「お、おおー、そうだねー」
ヨアニスはぱっと手を離した。先ほどまで握られていた手を、セオファノはじっと見る。うっすらと赤みを帯びていて、結構強い力で握られていたらしいことが分かる。
まあ、取り敢えず、ヤツがここに来た用件を訊こう。
「今日も飲みに来たのか?」
「いいや、違うよ。ほら、俺、昨日アンナ姫に会いにセマ長官の家に行くって言ってただろ? だから、お前も一緒に行くかなって誘いに来たんだけど」
あれ、やっぱり本気で言っていたのか……。
酔った勢いの発言だから一晩寝たら忘れるだろうと思っていたが。
「だから捕まるって言っただろ」
「大丈夫、上手くやるって」
この自信はどこから来るのか?
「エウドクシアはどう言っているんだ? きっと悲しむぞ」
「私が、どうか、しましたか?」
ヨアニスの妻エウドクシアが彼の後ろからひょっこり顔を出した。見たところ、怒ったり落ち込んでいたりしているようには見えない。
「ああ、エウドクシアもアンナ姫がどんな人か興味あってさ、昨日話したら自分もついてくるって」
とヨアニス。
嗚呼、似たもの夫婦であったか! それは誠に仲の良いのも当然のことだ!
これはもう、万事休すである。
「仕方ない、俺も行くよ」
こいつを見張らなくてはならない。
「流石ミハイル、浪漫が分かる男だなぁ!」
「嬉しいなぁ!」とヨアニスとエウドクシアは、顔を見合わせて喜ぶ。二人の様子があまりにも屈託なさ過ぎて、会えると良いな、という僅かな期待さえどこからか湧いて出てきた。おお、主よ、奇蹟を起こしたまえ!
「……え、行くの?」
とセオファノがポツリ。まるで俺たちがセマ長官の邸宅に出かけるのを、全くの心外だと言わんばかりに。
「ん、どうした?」
「あ、いや、ええと、無視して……」
やっぱり変なヤツだ。
「どこか行くのか、ミハイル? まあ、行くんだったら、ここ数日休みなしで働いていたから出かけても構わんぞ」
俺たちの話を聞いていたのか、セオドロスの声が調理台の方から響いてくる。店主の了解も得たことだ。
「じゃ、行くとするか」
俺は、ヨアニスとエウドクシアに続いて、店を後にした。
――――
セマ長官の邸宅は、アンキラの市街地を見下ろす高台の上にある。
以前述べたように、アンキラはローマ帝国の地方行政区画セマの首都である。確かセマ・ヴケラリオンと呼ばれていたっけな……。ま、俺たちのような下々の人間にはあまり関係のないことであるが。
長官は中央から任命されてやってくることが多いので、当セマ・ヴケラリオンの長官も地元の人間ではない。多分、皇帝は首都を長く不在にしていた長官と久方ぶりの対面を満喫しているのだろう。
セマ長官の邸宅は石の防壁に囲まれており、ちょっとした砦のようになっている。いつもならば地元の民兵が門番を務めているが、今は皇帝がいるということもあって皇帝直属の部隊の兵士が代わりを務めていた。
彼らは門の前で石像のように立ち、油断なく周囲に眼を配っている。寸分の隙もなく武装した彼らは、鎖で出来た面頬を被っていることもあって、ことさらに恐ろしげに見えた。
「ミハイル、お前が中に入れてくれるよう頼んでくれよ」
今回の企ての首謀者ヨアニスは、兵士たちの威容に恐れ戦いたらしく、俺に面倒な役割を押し付けてきようとする。
「え、やだよ。お前が行こうって言い出したんだから、お前が話しかけろ」
俺は断固拒否する。
「あなた、責任、とりましょう?」
ほら、エウドクシアもこう言ってることだしな。
「分かったよ……」
親友と妻に背中を押され、ヨアニスは最後の審判に臨むような面持ちで、無言で立つ兵士たちに恐る恐る近づいて話しかけた。
「や、や、やあ。こんにちは」
「何だ?」
兵士たちは答えた。
「ちょっと、中に入れて欲しいんだけど……」
「用事は?」
「アンナ姫に会えるかなーなんて、思いまして……あはは」
「会いたい、ねぇ」
兵士たちは、俺たちの容姿をじろじろ検分して、信頼に足る人物かどうか判定し始めた。十代半ばの男二人と素朴な格好の女が一人、身分を名乗るまでもなく怪しさ満点である。こりゃ門前払い必至だな。
「だめだだめだ、お前たちみたいな不審者を皇帝陛下と皇女殿下に近づけるわけにはいかん。さっさと帰れ」
やっぱり。
「あはは、すみません……」
ヨアニスはばつが悪そうに頭をかく。
「ほら、言った通りだったろ? 早く帰ろうぜ」
俺が肩を落とすヨアニスの腕を引っ張ってその場を離れようとすると、おもむろに兵士の一人が呟いた。
「……そもそも、皇女殿下は行方不明だというのに、会えるわけがない」
「え?」
その兵士は、しまった! とばかりに面頬の口の真上に当たる場所に手を当てた。
おいおい、それを言っては不味いんじゃないの?
そう兵士たちが無言でやりとりしているのがありありと分かる。
きまりが悪くなった失言兵士は、俺たちに近づいてきた。なんだなんだと思っていると、「これをやるから、このことは他言無用だぞ? いいな?」とミリアリシオン銀貨を懐から出して差し出した。一人三枚ずつ。
ああ、袖の下ですか。くれるというものは受け取っておく。
「俺が言ったってことも全部内緒だ、分かったな?」
そう念を押すと、兵士たちはそそくさと元の配置に戻っていった。
汝の失態が上官に咎められ、何らかの罰を与えられないことを、聖セヴァスティアノスに祈っておこう。俺は心の中で十字を切った。
俺たちは、ひとまずその場を離れることにする。
「くそぅ……やっぱり正面突破は無理だったか……。どこかに裏口はないものか」
ヨアニスは諦めていないようだ。
「私、ちょっと見てくる。隠れてて」
エウドクシアまで……。本当に変なところで似た者夫婦なんだな。
セマ長官邸偵察のためにどこかへ駆け出そうとした彼女を、俺は「待って」とすぐさま呼び止める。
「落ちつけ、状況を総合しよう」
「へ?」
「あの兵士が『皇女殿下が行方不明』と言っていたのは聞こえたよな?」
うん、とヨアニスとエウドクシアは頷く。
「俺たちを引き返させるための嘘としてはあまりにもお粗末だ。しかも、自分がこう言ったことを黙っておくよう口止め料の金を握らせてきた。銀貨三枚といったら、子供の小遣いで渡すようなものではない大した額だ。つまり、あの行方不明ということは漏らしてはならない秘密、真実なんだよ。だから、いま忍び込んだって、アンナ姫に会えやしないという訳だ」
俺はそう判断した。少なくとも、突拍子もない推理ではないと思う。
「うーん、そう聞くと真実っぽく聞こえるなー」
とヨアニス。エウドクシアも、俺の話に聞き入っているようだ。酔いが醒めていると聞き分けが良くて感心である。
「な? わざわざ危ない橋を渡る必要はないんだよ」
もう潮時である。
「ミハイルさんの、言う通りかもです」
とエウドクシアが言ったので、俺たち一行の方針は決まりだ。帰ろう帰ろう、お腹も空いてきた。
しかし、皇女が行方不明とは一体どのような状況なのだろう? まさか誘拐? だが、あんな厳重に警戒された砦から重要人物を浚い出せるなんて、まずない。俺の安い作りの頭では把握しきれない。
しかし、ふとセオファノが思い浮かんだ。アンナ姫がこの町にやってきてから、あいつがひょっこり現れた。
まさかあいつが……?
と思ったところで、ぶんぶんと頭を振ってその考えを打ち消す。あんなドジなヤツがこの国の皇女殿下であってたまるものか。皇女殿下が、自分で言うのも悲しいけど、場末の大衆食堂に身を寄せていてたまるものか。
あ、いや、やっぱり場末は撤回したい……。
「ん、どうした、ミハイルー?」
俺のしぐさが気になったのであろう、そうヨアニスは俺に尋ねる。
「気にするな、どうでもいいことだ」
俺はそう答えるしかない。だって言える訳がない。
「ふーん、そうかー。あー、お腹空いたなぁー。家に帰ってご飯食べよ」
「じゃ、ミハイル、そゆことでー」と言い残して、ヨアニスはエウドクシアと一緒に先に帰路に着いた。
俺も家への道を急いだ。
「どう? アンナ姫には会えたかしら?」
俺が家に帰ってくるなり、セオファノがこう訊いてきた。
「いや、会えなかったよ」
しかし、アンナ姫が行方不明だったことは言わない。あの兵士に袖の下、貰ったし。俺は一応義理堅い。
「やっぱりね」
「セオファノも会える訳ないと思っていたか」
「だって、おにい……じゃなかった皇帝陛下の兵士はそんじょそこらの雑兵より優秀よ……多分。よそ者を入れてくれるはずないわ」
「おに?」
「そ、そんなこと言ったかしら?」
「聞こえたけど」
「気のせいよ気のせい」
「ふむ」
重ね重ね言うが、全く以って変なヤツだ。
――――
セマ長官の邸宅には料理人が足りていなかったので、アンキラの町にいくつかある大衆食堂が一日交代で皇帝の食事の準備をすることになっていた。皇帝の滞在最終日の今日、5日目の朝食を、俺たち〈飲兵衛どもの憩い〉が担当することになっている。俺とセオドロスが出向く約束である。
店の営業はいつも通りに行なうつもりなので、店番はマリア義姉さんとセオファノに任せることになる。彼女たちは先に起きて、店の営業を始めている。
店裏で俺と兄貴が一張羅のチュニックに着替えてセマ長官の邸宅に出向く準備をしている最
中、広間で男の怒声がしたのが聞こえた。
「おい、この店の店員は客の足を踏むよう教育されているのか!?」
厄介事の臭い!
俺は急いで服を着、現場に急行する。
この町では見かけない男が、猛犬のように吼え猛っている。おそらく、外からやって来た人間
だろう。彼は今にも殴りかからんとするような激しい剣幕で、セオファノに対して罵声を浴びせ
かけている。
あー、ヨアニスとは別方向で面倒な客か……。
対するセオファノは、男の威圧的な態度にも怯まず、毅然と相手を睨みつけていた。場慣れし
た戦士のような雰囲気すら感じさせる。
一方のマリアは、男の気迫におろおろする他ないようだった。
さて、現状把握だ。
「あの、お客様、一体何があったのでしょうか?」
男をこれ以上刺激しないように、あくまで営業用の物腰の柔らかな態度で接する。こういうと
きはそうするよう親父から教わった。
「お前も店員か? この女、客の俺の足を踏みやがった!俺はただ席に座ってメシを食ってい
ただけなのによ! どう示しつけてもらおうか!」
男は俺に対しても喚きたてた。その額には青筋がむくむく浮き上がり、彼の憤葱のほどを示し
ている。
「本当なのか、セオファノ?」
俺はセオファノに確かめる。
「足を踏んだのは本当。だけどこの男、私のお尻を触ったのよ! だから、仕返しにこの男の足
を思い切り踏んでやった」
「ふ-む」
彼女の言っていることは嘘とは思えない。理由なくして他人の足を踏む状況なんて思いつかない。だが、真実であると証明する証拠がない。
「お客様、当店の従業員はこう申しておりますが?」
俺は男に尋ねた。
「ふん、そんなのその女の嘘に決まってんだろ。この俺のことが気に食わねえって顔してやがるぜ。とんだ因縁だ!」
と男はがなるが、俺にはそちらが危害を加えてきたようにしか……。
「気に食わない、ね。それには同意するわ」
セオファノも相手を煽るなよ……。
ふと、男の腰に目をやると、鞘に入った短剣をベルトに吊るして携帯しているのが見えた。これは危険だ。このまま彼女が男を煽り続けたら、激昂した男がこれを抜いて彼女を傷つけるかも
しれない。
早々にことを収めねば。俺はセオファノに耳打ちした。
「取り敢えずあいつに謝っとけ。これ以上怒らせるとあいつに短剣で刺されかねないぞ」
しかし、
「嫌よ、私悪くないもの。先に危害を加えてきたのはあいつよ」
と彼女は強情であった。
仕方ない、俺が代わりに謝るしかない。
「申し訳ありません。彼女は昨日ここで働き始めたばかりでまだ慣れていないのです。どうか許してやってくださいませ」
「お前じゃ話にならんわ! 店主だ、店主を呼べ! 話をつけてやる!」
おのれ……。
もう丸く収める手段が思いつかない!
怒り狂う男を止めることは、俺にはもう出来ない。神よ、神よ、何故俺をお見捨てになったのですか!?
おろおろしていたマリアは、セオドロスを呼びに行ったのか、奥にあたふたと引っ込んでいった。
男は言った。
「不愉快だが、今日ここに泊まる。夜になったら俺の部屋にその女を呼べ。それで手を打ってや
る」
「何で私があなたと……!」
夜に男の部屋に女を呼ぶということはつまりそういうことである。
「それが目的だったのね」
男の下卑た視線に、セオファノは身を震わせた。
あいつの手にセオファノを渡してなるものか! だが、穏便に済ませるあてはもう絶たれた。
かくなる上は、強引にセオファノの主張を押し通し、手荒い真似をしなくてはならないかもしれない。
こう見えて俺、小さい頃からケンカは強くて、町の子供たちからガキ大将みたいに扱われていたんだぜ? 腕が鈍っていないといいが。
俺は拳をぎゅっと握る。そうして、それを相手の顔に叩き込む光景を想像する。
「ほう……。しかしお客様、当店ではそのようなもてなしは行なっておりませんが……?」
俺もあからさまな怒気を含んだ態度で、男を威嚇する。
「賠償してもらおうって言ってんだ。そっちの都合なんて知るか」
男はあくまでも悪くないと言い張る。
さて、大立ち回りの始まりだ。血を見ることになるぜ!
足を踏みしめ腕を振りかぶり、握り締めた拳をまっしぐらに男の顔に突き出す! ……はずだった。
その時、
「あ、あ、あの‥‥俺、彼がその女の子のお尻を触ってるところ見たんですけど」
と客の一人が恐る恐る口を開いた。
次いで、
「わしも見たぞ」
「私も確かに見た、その子は嘘を言ってない」
「俺も見た」
と最初の一人を皮切りに、堰を切ったように男の行為の証言が次々と飛び出してくる。第三者の証言があればセオファノの主張が正しいことが証明される。勇気を出して言ってくれた皆さん、ありがとう!
俺は出しかけた手を引っ込めて、
「だそうですが、お客様?」
「ぐっ……!」
これで言い逃れは出来まい。男の今までの勢いに、翳りが見え始める。彼の額に汗が滲んできているのも煮えた。
そこに、マリアに呼ばれて兄セオドロスがやって来た。
「話は聞かせてもらった、俺が店主だ。ウチの従業員に危害を加えたそうだな、んん?」
セオドロスの見上げるような巨体に、男が怯んだのがありありと分かる。先ほどまでの威勢のよさは何だったのだ。
「し、しししりくらい触ったって別にいいだろうが! 減るもんじゃないし!」
という叫びも、単なる虚勢にしか聞こえない。
「そんな理屈が通用すると思っているのか?」
兄貴のその言葉が止めだった。
わあああああああっ!と喚きながら、追い詰められた男は腰の短剣を抜き、兄貴に襲いかかろうとした。
眼をかっぴらいて口に手を当てるセオファノ。広間の客たちも恐るべき出来事に身を疎ませる。だが、俺は極めて落ち着き払った明鏡止水の心でそれを眺めていた。
ごっ!
男の短剣の切っ先がセオドロスの胸を捕らえるより一瞬早く、セオドロスの戦棍のような拳が男の顔面にぶち込まれていた。
相手の顔に吸い込まれるような一撃だった。流石兄貴、10人のチンピラを1人でいなした経験者なだけある。
男はふっとびながら短剣を放り出して、床に倒れこむ。彼が立ち上がろうと上体を起こすと、俺と兄貴はそれぞれ彼の両脇を抱え、「せ-の!」と彼の身体を店の外に投げ出した。ずさ-っ!
そして、砂まみれになってみすぼらしく横たわる男に、俺は決め台詞を一言。
「飲み食いした分、23フォリス、ちゃんと払っていってくださいませ?」
男は23フォリスどころか、財布を丸ごと俺に手渡した。そして足をもつれさせながら、脱兎の如くその場を逃げ去っていった。店内の客たちのあははははは! という嘲笑を背に浴びて。
そのときの表情といったら、涙と鼻水を垂れ流す歴史に残る情けなさだったぜ。俺に画才があれば、描き残して広間にでも飾っておくのに。
「二度と来るな!」
遠くへ消えていく男の背中に、セオドロスはぴしゃりと放った。あ-、すっきりした!
あの男が落していった短剣は、後で売って俺のお小遣いに換えようっと。
それでは一件落着としますか。
店内の騒ぎが収まると、兄貴はマリアとセオファノに言った。
「では、セマ長官の邸宅に行ってくる。留守を頼んだぞ」
「分かりました、頑張ります」
「分かったわ、任せて。行ってらっしゃい」
「あ、待って。襟元が乱れてる」とマリアは夫を呼び止めると、彼の襟元を正し始めた。その光景が眩しくて、俺は鼓動が一際大きく鳴ったのを感じた。
こんな風に仲の良い夫婦生活を俺も送ることが出来るのだろうか……?
だが、ハハツ、まさかな、と否定してしまう俺の痛ましい心よ。本当にどうにかしないと嫁に来てくれる人なんていないぞ?
いや、今はそんなことを気にしている時ではない。俺は兄貴の後に続いて店を出、昨日門前払いを食らったセマ長官の邸宅に向かった。今度は入城許可証を持って。
――――
「遅刻だぞ、一体何をやってたんだ!?」
セマ長官の邸宅の調理場に入るなり、料理人頭に怒鳴られる俺と兄貴。
「店で揉め事が起きまして……その始末に追われていたらこんな時間に。いや、本当に申し訳ないです」
兄貴はぺこぺこ頭を下げる。俺も頭を下げる。
だが、皇帝の朝食の準備に追われる料理人頭は、俺たちの下らない遅刻への叱責にかかずらっていられるわけもなく、「……まあいい、早く仕事を始めろ」と早々に持ち場に着くよう促がした。
セマ長官の邸宅の厨房は、鍋から立ち上る湯気と、炭火から上がる香ばしい煙と、料理人たちの熱気の渦巻く柑鳩と化していた。
皇帝一人の食事を準備するだけならば、さほどの難事ではない。彼の随行員の貴人たちや召使、それに何百といる兵士たちに合わせた食事を提供しなければならないので、料理人たちの作業はちょっとした狂乱状態を御とさせた。あちこちから、料理人たちの怒号にも似た声が響いてくる。
勿論、俺もてんてこ舞いだ。割り当てられた羊肉の炭畑り焼きを焼く作業も、次から次へと串に刺さった羊肉がやって来て、終わりが見えない。〈飲兵衛どもの憩い〉でもこんなに忙しかったことはない。
火花が散る炭火の上に串に刺さった羊肉を並べて、魚醤を刷毛で塗りたくり、胡椒、ナツメグなどの香辛料と香草を混ぜた粉末を振りかけ、満遍なく焼けるよう串を回して引っくり返し、肉汁がポタポタと炭火の中に落ちてジューと音を立てるのを眺める‥……それの繰り返し。おお、意識が遠のきそうだ。
あの道楽皇帝の食事を作らされていると思うと痛に障るが、たっぷり給与が出るとされて聞かされていたので何とか気を強く持つ。
ふと兄貴の方を見ると、彼は和え物用のほうれん草を延々と切り続けていた。あっちも凄く大変そうだな。
何よりもまして大変そうだったのは、他でもない、料理人頭である。自ら調理しながら厨房内を行きかう料理人たちに指示を出し、的確な作業へと導いていく。その顔は月並みな表現で悪いが鬼のようであり、触れたら噛み付かれそうな雰囲気があった。戦場の最前線で指拝を取る軍人はこんな感じなのかもしれない。
その料理人頭が、不意に俺に声をかけた。
「しばらく焼く作業を中断して、出来上がった料理を食堂に持って行ってくれ」
「分かった」と俺は返事をした。
俺は、自ら焼き上げた羊肉の炭畑り焼きが山盛りになった皿と、はうれん草の塩和えがこれまた山盛りになった皿を両手に持ち、厨房を出た。
厨房の隣に作ればいいものの、何故か食堂はいくつかの部屋を通ってしばらく歩いた先にある。どう考えても設計上の失敗である。
俺が重たい皿を巧く均衡を取りながら運んでいると、よく通る声が俺を呼び止めた。
「そこの君、ちょっと止まりたまえ」
お、俺、何か不味いことでもしたかな……?
そんな風に戸惑う俺を呼び止めたのは、見たところ男と認識できる人物だった。年の頃は60歳くらいか。しかし、その年の男性ならばあって然るべき髭が、剃った跡に至るまで見受けられなかった。声は男にしては高い。つまりは官官である。
さらさらの小麦色の髪は短く切りそろえられ、容貌は年経てもなお美形といっても良い。官官でなければ世の女性が捨て置かぬであろう。まるで天使みたい。金の刺繍が施されたゆったりとした白い外套を身に纏い、身分の高い人物であると窺わせる。
「私は、皇帝陛下より、プロエドロスかつパラキモミノス職の任を仰せつかるヴァシリオス・レカピノスである」
官官はそう名乗った。
「ぷろえ……何?」
彼が名乗った肩書きが分からない。ので、当然俺は尋ねてしまう。
するとレカピノスは、眉根を寄せて明らかに不快そうな表情をした。へいへい、すみませんね、無知な田舎者で。
「……プロエドロスというのは、帝国の元老院の第一人者に与えられる爵位である」
だが、親切にも彼は教えてくれた。実はいいヤツ?
「それって偉いの?」
「まあ、そういうことになる」
「“ぱらきもみのす”は?」
「皇帝陛下の寝室を警護する重要な役職である。今は政務も担当しているが」
「なるほど……」
ということは、彼が皇帝の代わりに政治を牛耳る宦官か……おそらく。噂の人物ということになるな。
「手が塞がっていて礼も出来ずすみません。それで、何の御用でしょうか?」
「気にする必要はない。私は、皇帝陛下に供される食事の毒見をする役目を仰せつかっているだけだ」
そうか、毒見か。俺の戸惑いの糸が解かれる。帝位を狙う反乱者や敵国の君主など、皇帝を暗殺したいと思う人間はいくらでもいる。食事に毒を盛るのは古典的な手段なんだろう。
俺が信用されていないみたいで不快にもなるが、こればかりは仕方ない。
「それでは失礼するぞ」
レカピノスは、俺の運ぶ料理から徐に摘み始めた。
……が、ちょっと待ってくれ、いくらなんでもそれは食い過ぎである。
彼は、毒見ならば一口食べればそれで良いところを、ニロ、三口と次々と啄ばんでいく。皿の上から、肉と野菜がどんどん口の中へ消えていく。そして「ふむ、これは美味い」との感想をくださった。
こいつ、毒見を口実に食べたいだけなんだな……? 美味しいという感想は一応嬉しく受け取っておくが。
それぞれの皿の三分の一ほどが彼の胃袋にすっぽり収まったところで、ようやく彼の食事は終わった。
「うむ、問題ない。それに美味かったぞ。この料理は私が皇帝陛下の下へ持っていくから、君は元の持ち場に戻っても構わない。ご苦労であった」
「はっ、はい」
ほっ、良かった。毒なんて入っていないとは作った俺自身が保証するが、万が一ということもあるからな。
レカピノスに言われた通り、俺は彼に料理を盛った皿を渡した。彼は、摘み食いのせいで既に冷めているであろうその料理を持って、食堂の方へと歩いていった。量が少ないとか、冷たいとか、皇帝に文句を言われなければよいのだが……。
いや、レカピノスは良くても、皇帝の口に合わなかったらどうしよう……。不味い! こんなもの食えぬ! 作った料理人を罰しろ! なんて言われたら嫌だな……。道楽者のバカ皇帝だしな、有り得ない話ではない。
微妙な不安を抱えながら、俺は厨房に戻った。
厨房で他の料理人たちにレカピノスのことを話すと、皆一献「だろ-? あいつ食いすぎだよな!」と答えた。
どうも彼は他の料理が運ばれてきたときも、同じように毒見と称して食べ放題やらかしていたらしい。
「あいつは大食の罪の化身だよ!」
そう料理人たちはけたけた笑った。
あいつもダメダメ皇帝に仕えて日頃の鬱憤が溜まっているのだろうか? だから大食の罪なんかを犯してしまったのか……おお、主よ、あの宦官の大いなる罪を清め給え。願わくは食べすぎで腹を壊してしまわぬよう。
そこで仕事が一朗着いたので、自分の朝食を厨房の中で取ることにした。
献立は黒いライ麦パンとチーズ、そして自分で作った羊肉の炭焙り焼きの残りものである。完全に冷め切ってしまっているので、正直味は落ちている。温かいのを食べられる人が羨ましい限りだ。
もっちゃもっちゃと堅いパンを噛み締めながら、俺はぼんやりと周囲を眺めていた。
他の料理人たちも件業を休止し、先程とは打って変わってまったりと寛いだ雰囲気で食事を取っている。鬼の形相だった料理人頭も、柔和な表情で談笑している。俄かには同一人物とは思いにくい。
これが戦場の憩いというヤツだろうか。
兄セオドロスが、俺の座る卓の席の向こう側に座った。
「どうだ、疲れたか? まだ後片付けの仕事が残っているが、もう辛いなら家に帰っていいんだぞ?」
彼はそう訊いてきた。
「いや、大丈夫。まだいける。給料値引きはされたくないからね」
「はっはっは、そうか!」
兄貴は大口開けて笑った。
仕事を早退すれば、給料を値引きされるのは目に見えている。バカ皇帝の食事を作ってやったんだから満足いく金額が欲しい。当然だ。
「給料といえば、ところで兄貴、この仕事で一体どれくらいのお金が貰えるんだ? 俺、知らないんだけど」
「一人4ミリアリシオンだったかな。途中で抜けたら半額かな」
あの兵士の賄賂より一枚多いくらいか。
「ならば早退は出来ないな。最後まで頑張るよ」
「その意気だ。何か、買いたいものでもあるのか?」
「ここで働いて貰ったお金で、セオファノの生活のための道具を揃えるつもりなんだ」
あっ……つい言っちゃった。
「ほう、お前が他人のためにお金を使うなんて初めてじゃないか? ……はは-ん、さてはまさか」
得心したとばかりに、兄貴の日が輝く。
「ちちちげーし! 俺は彼女のことそんな風に思っていねーし! 俺が連れてきたから俺が責任取って面倒見なきゃって思ったからだけだし! 第一、一時的に滞在するだけの人なんだからそういう関係になるのは無理だろうが!」
おいおい、ここでも誤解が生まれたようだ・・‥‥。
俺のそんな反対の抗議も空しく、兄貴は「いいよいいよ-、お前の小遣いだけでは必要なものを買い揃えられないだろうから、俺からも少し出してやろう」と資金援助の申し出まで提示してきた。
「うん……それはありがたく受け取っておく」
それを断れない辺り、所帯を持っていない雇われの身は辛い。
いやほんと、俺がセオファノに下心を持ってる印象が、徐々に周囲に広まっていってしまってるようだ。何度も言うけど、そんなことはないんだよ?
これを知ったら激怒するであろう人物の顔が心象風景に去来したが、恐ろしいので早急に忘れることにする。
おお、こええ、くわばらくわばら。
「お前がもっとお金を貯めれれば、独立して所帯を持てるんだけどな-。だけど、すぐ遊びに使っちまうからな……」
とセオドロスはこれ見よがしな落胆をしてみせる。
「俺にも友達付き合いというものがあってな」
元ガキ大将の俺には、その頃からのしがらみで今でも飲んだりする仲間が数人いる。だからまあ、働いて貰った給料は恒常的に流出しているので、手元にはほとんど残らない。財布の中はいつも寒い。
俺の家の祖先は北の地方から帝国内に入ってきた人々だそうで、その時略奪した宝物が家に残っていないかな-なんて思ったりもする。あったならば、こっそりと自分のものにするのにな―。
ニキ何とか1世という皇帝が作った法律が生きていなければ、の話だが。
「これを機に将来を見据えたお金の使い方をしてくれるようになると、兄の俺としても嬉しいんだがな」
「うっせえ」
大きなお世話だ。
「ふふ、これ以上言うとお前がへそ曲げそうなので、黙ることにするよ。折角の弟の自発的な意志を削いじゃならんからね」
「頑張れよ」と朋をばちりと瞑るお茶目な仕草にはドン引いてしまう。あのゴツい巨体には似合わない。
「はいはい」
俺は杯に入った水をぐいっと飲んだ。
何だか俺がネタとして消費されてる感ある。
話題を提供するようなことをしてしまった俺自身に原因はあるけれど。しかし、それがセオファノを困らせたら嫌だけどな。
心無い噂話が町を執るかもしれない。実際と違う尾ひれまでつくかもしれない。
いつまでこのように同じ話題で突かれるかと考えると気がゴリゴリ磨耗してくるが、俺自身はともかくとして彼女だけは出来る限り気苦労させないでやりたい。それが、さっきも言ったように助けて引き取った者の負うべき責任だと思うのである。どこまでそれを
果たせるかは分からないが、努力は惜しまないさ。
そんな風に俺が決意を新たにしたところで、厨房に聞き覚えのあるよく通る声が響き渡った。
「この、羊肉の炭焙り焼きを作った者よ、名乗り出よ」
ヴァシリオス・レカピノスであった。
彼が厨房に来たということは、まさか……俺の作った料理が皇帝の口に合わなかったってこと?
静まりかえる厨房内。皆も同じことを思ったのだろうか。
俺は知らん顔して黙っていた。言う通りに正直に名乗り出れば、どうなるか分かったものじゃない。
摘眼刑? 腕切断? 拷問? それとも、斬首? 串刺し刑?
俺の心象風景に、ありとあらゆる残虐な仕打ちの光景がぐるぐると回りだす。どれもご勘弁願いたい。
「聞こえなかったか? もう一度言う。この、羊肉の炭焙り焼きを作った者はすぐに名乗り出よ」
とレカピノスは繰り返す。
俺はあくまでも黙秘を続けるつもりだった。だが、料理人頭が俺の肩に手を乗せて「こいつですが……」と言ってくれたので、あえなく俺はレカピノスの前に突き出されることとなった。 その表情からは、この官官が如何なる理由で俺を呼びつけたのかは察することが出来ない。白壁のようだ。それだけに、この先待つ俺の運命に対する不安が一層掻き立てられた。
「君で合っているのだね、この料理を作った者は?」
とレカピノス。
俺は、
「あ、はいい」
と情けない返事をすることしか出来ない。
「皇帝陛下が君をお呼びである。食堂までついてきたまえ」
不安が現実になりそうな俺の背を、厨房の料理人たちは一言も発声することなく神妙な面持ちで見送った。
ああ、嘆きの道を十字架を背負いゴルゴタの丘まで歩いたイエス様ってこんな気持ちだったのかな……?
運命の時を前にした俺は、いつになく敬度な気持ちになっていた。十字を切って、お祈りをしよう。永久に純潔なる神の母マリアよ、罪深き俺の魂を天上の王国に迎え入れるとりなしをお願い致します。
食堂は長方形の広い部屋で、その中央に細長いこれまた長方形の卓が置かれている。
その長方形の長い二辺には、随行員として皇帝のシリアでのライオン狩りに付き合った貴人たち、軍隊の部隊長たち、セマ・ヴケラリオンの長官が列席し、皆卓の上の料理に舌鼓を打っている。そして、卓の上座に座る青年は他でもなく、ローマ帝国皇帝ヴァシリオス2世その人であった。レカピノスはその横に仔んでいる。
高貴な身分の人間が一堂に会して食事する光景は、言い知れない壮麗さがあった。大衆食堂で は決してお目にかかることの出来ない上品さというか。
特に俺を不思議に思わせたのが、列席者が誰も料理を手で摘んでいないことである。先端が二股に分かれた金属の棒で食べ物を突き刺し、口へと運んでいる。初めて見た。高貴な身分の人はこんな食べ方をするのか-、と一層遠い存在のように思わせた。
出入り口の前で俺がそんな感じにぼけ一っとつっ立っていると、レカピノスがばんばんと手を叩いて会食の騒がしさを遮った。
「皆の者、手を休めよ。これより簡易ながら褒章の授与を執り行う」
へ、何? 授与?
やはり俺がぼけ一っとつっ立っていると、レカピノスは言った。
「出入り口に立つそなたよ、皇帝陛下の御前である。床に平伏すべし」
「え、俺ですか?」
「そうだ」
俺はレカピノスの言う通りにするしかない。
道楽者で皇帝としての責務を全く果たしていないヤツに土下座するのは療に障る。だけど、拒否が許される空気じゃない。
人生で初めての土下座をこういう形で迎えて、俺悲しい。しかも、これが人生最後の土下座になるかもしれない。
また、レカピノスの声が聞こえてきた。
「皇帝陛下はそなたの名を尋ねておられる。申し上げよ」
俺は答えた。
「ミハイル……です」
「では、ミハイルよ、面を上げよ」
だが、俺は顔を上げなかった。
そのままより深く頭を下げ、恥を忍んで額を床に擦りつけ、そして意を決した精惇なる顔つきで、言葉を紡いだ。
「申し訳ありません! この度の俺の不行き届きで、皇帝陛下に多大なる迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます! 料理が不味かったのは俺のせいです! 俺が日々の料理の腕の研鑽を怠ったせいです! 俺は罰を受けるに値する不始末を犯しましたが、ですが、どうか命だけは見逃して下さいますよう……!」
こんなことを言ったところで、救われるとは思えない。だけど、俺はまだ命が惜しい。見苦しくとも命乞いせずにはいられなかった。
俺が立ち上がると、周囲はぎわついていた。
俺の行動がそんなに物議を醸すものだったのか‥‥‥それとも作法に反したのか。それは分からない。
ええい、これより死地に赴く人間にとっては些事である。
遠くて皇帝がどのような反応を見せているかは分からなかった。少なくとも、好意的ではないだろうが。
しかし、彼の側近が放った言葉は、意外、それ以外の何物でもなかった。
「……皇帝陛下は仰っている。そなたは何か勘違いをしているのではないか、と」
ふえ?
「勘違い?」
「そうだ。そなたをここに呼んだのは、料理が不味かったからではない。その逆だ。皇帝陛下がそなたの料理を気に入り、それを賞するためである」
うわあ、俺は……とんでもない思い込みをしていたようだ。
まさしく土下座損である。わざわざばっちいのを忍んでやったというのに、全く意味はなかった。それどころか、新しい不必要な恥まで作ってしまった。本当に後々まで歴史に残る傑作ネタである。
町の皆には内緒にしなくては。
こうして俺の黒歴史は増えていくのである。
どろどろした屈辱にまみれた俺が皇帝の方を見やると、皇帝が側近のレカピノスに何やら言葉づけをしていた。
「皇帝陛下が、そなたと直接お話することを望んでおられる。こちらまで罷り来したまえ」
レカピノスは言った。
「え……」
皇帝が俺みたいな一庶民と話したいですとお!?
こりゃまたどういう風の吹き回しだ? 明日千年王国が来るとでもいうのであろうか? 俺には全く以って不可解である。
いくら怠惰が緋色の長靴を履いたような人物が相手であっても、皇帝は皇帝である。直接会話するとあっては、滝のような汗が溢れ出るのは避けられない。
あ、勿論緊張の汗ではなく悪寒の汗だからな? 勘違いするなよ?
「は……はい」
沼にはまったかのように、一歩を進める足が重く、皇帝のところに行くのを嫌がっている。
「どうしたのだ、早く来給え」
とレカピノスは催促するが、俺は、あはは……とお茶を濁してしまう。ああ、今すぐここから逃げたいよお……。
人々の視線が俺に集中し、俺の冷静さがジリジリと焼き切れそう。
それでも、ここは沼ではなく食堂なので、結局、俺は皇帝の前へと立ってしまうのである。
ごくり、と唾を飲む。
目の前に、皇帝が椅子に座っている。
中央通での行進の時とは違い、鎧は身に着けていない。代わりに、金糸で縁取りがされた青いチュニックを着ており、これまた金糸で装飾がなされた緋色のマントを右肩で留めている。被る冠は、やはり眩い光を放つ大きな宝石で豪華に彩られている。
レカピノスが俺に言った。
「皇帝陛下がお言葉を下さる、心して謹聴せよ。奏上したいことがあれば、特別に直接述べることを許す」
それを合図にしたかのように、皇帝は、徐に口を開いた。
「美味かったぞ、焼肉」
その声は丸顔に似合わず、野太い、という感想を俺に与えた。声だけでも存在感を主張する系統の人物だ。
「宮殿の料理人に作り方を教えて欲しいくらいだ」
皇帝という人物は、勿体ぶった回りくどい話し方をするのだと思っていた。数は少ないけれども、俺が今まで会った身分の高い人物は、大体そんな感じの印象だった。だが、目の前にいるヴァシリオス2世は、服装に似合わない俺たちとはとんど変わらない庶民くさい口酢喋っていた。凄く意外である。
そのせいか、強張っていた身体中の筋肉が緩んできた。
……おっといけねぇ、物腰に騙されそう。
「まあ、プロキニシス(跪礼)の時に謝られたのは、流石にこの俺も困惑したがな。新手の演劇かと思ったぞ」
「あは、すいません……」
「さて、料理の礼に記念品を渡さなくてはな」
「レカピノス、例の物を」と皇帝は続け、椅子から立ち上がった。
ヴァシリオス2世は、その醸し出す雰囲気が与える印象とは裏腹に、あまり背は高くなかった。俺と変わらない感じ。彼が馬に乗っていたときは、下から見上げていたので分からなかった。
レカピノスは「御意」と皇帝の言葉に応え、示し合わせたかのようにどこからか紐のついた金ぴかの大きなメダルを取り出した。キリストの敵字ⅩP(キー、ロー)の組み合わせ文字と、イエス・キリストの肖像、それと何やら文字が書かれているのが見える。
皇帝はそれを受け取り、
「天上の神よりこの地上を統治するよう任ぜられたローマ人の専制支配者たるヴァシリオス・ポルフィロエニトスの名において、この者ミハイルの腕を讃える。諸君、この者の技に祝福を」
そう言って、俺の首にメダルを自身の手でかけた。
「盛大な拍手を」
レカピノスの合図で、食堂内にいた全ての人々が、→斉に手を打ち鳴らし始めた。
これだけの身分の高い人々に褒め称えられるなんて、いやがおうにも鼻がにょっきり伸びてしまいそうである。俺みたいな身分の人間が普通に生きていては、絶対に経験できない出来事だ。
この皇帝が遊び人でなければな‥‥‥。
ああ、皆に大声で自慢できるのに!
全く、口惜しい限りだ。勿体ねえ勿体ねえ。千載一遇の幸運が、こんなヤツで消費されるなんて。
「それとウラノス、墨壷をくれ」
皇帝のその言葉に応え、彼より少し年上の細目の人物が、小さな壷を持っていそいそと現れた。彼は、壷を皇帝の横に差し出す。
皇帝は羽根ペンをその壷に突っ込んで、卓上に広げた羊皮紙柵やら書き始めた。割と達筆である。
俺が盛大に疑問符を噸に浮かべているうちに、書面に皇帝の印璽が押され、あれよあれよという間に文章は完成した。
「俺がお前の腕を認めたという簡単な勅書だ。お前の店の客によく見える場所にでも飾っておくといい」
それも、皇帝自らの手で、俺に手渡された。
「再び盛大な拍手を」
またもや食堂の中を人々の感嘆の拍手が埋め尽くした。
俺は思った。
本音では、こんなの貰っても嬉しくない。だって仕事してない皇帝なんだぜ? そんなヤツに褒められたところで、〈飲兵衛どもの憩い〉にハク付けがなされるとはちょっと思えない。一人の皇帝よりも、千人の民衆に褒められたい。
だけど、ここは礼儀として一つ礼を言っておくべきだろう。腐っても胡椒、錆びても銀、怠けてても皇帝だからね。
おおっ、俺って大人だねぇ。
「こ、光栄に存じます。今後も料理人としての腕を一層磨く所存です。本当にありがとうございました」
そうして、俺は壊れた水車のようにぎこちなく頭を下げた。
「陛下の恩寵はきっと、お、俺の生きる便となるでしょう」
「うむ」
と皇帝は頷く。
名も無き庶民を称えることによって、鷹揚な君主であることを周囲の臣下に印鮒けられて満足ですか、皇帝陛下?
保身ごくろ-さまです!きっとそのつもりなんだろうな。
最後に、俺は心の中で皇帝に向かってあっかんベーをせずにはいられなかった。
レカピノスが「これで、授与式を終了する。皆の者、食事に戻られよ」と宣言したことによって、俺はこの高度な差恥地獄から解放された。
―続く-
2話は日常回でした。
本編に登場した人物解説
ヴァシリオス・レカピノス:宦官の最高位パラキモミノスの職を持つ。皇帝ヴァシリオス2世の大叔父。一般的にはバシレイオス・ノソスの方が通りが良い。
ウラノス:ニキフォロス・ウラノス。ヴァシリオス2世のインク壺係。史実では、後に西方方面軍総司令官や、東方辺境の全権大使になる。
3話もお楽しみに