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小説ビザンティン帝国  作者: 寝室長官
1/2

緋色の皇女の二重生活

どうも、こんにちは。小説をネットに出したくて登録しました。

当作品は10世紀後半の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を舞台にした小説です。

意図的に歴史上の出来事の年代などを改変している箇所があるので、ご注意願います。また、当時の価値観に則って書かれている箇所も多いので、気を付けてください。

実際はどうだったのか気になりましたら、是非図書館等で歴史書を手に取ってみてください。

それでは、ごゆっくりどうぞ。

 我らが主たるキリストがこの世界を作ってから6487年目(西暦979年)、第7インディクティオ年の秋の麗らかなある日、俺の住むアンキラの町に我らがローマ皇帝がやって来るという知らせが舞い込んだ。

 普通、自分の住む町に皇帝陛下がお越しになるといったら、それはそれはめでたいことである。町中の教会の鐘を鳴らして盛大にお出迎えし、お祭り騒ぎに身を投じて然るべきである。しかし、俺はその教会の鐘を全て引っこ抜いて、滔々と赤い流れを横たえるハリス川に投げ捨てたい気分だった。

 ……いや、だってそうだろ? 我らが皇帝ヴァシリオス2世陛下は、近年稀に見る道楽主義者で、政務をほっぽり出して遊興に耽る皇帝失格のダメ人間だと専らの噂だぜ。宮廷は宦官が牛耳っているとか何とか。そんなヤツのご入来を手放しで喜べるかってんだ。わいわい騒いでいる町の連中はどうかしている。こんな皇帝は、むしろ抗議活動の対象になっていなくちゃならないんだ。

 宿泊反対! 俺たちの町から出て行け! 泊まりたければちゃんと仕事しろ! ってな感じでな。

 今回の来訪も、シリアにライオン狩りに出かけた帰りなのだという。けっ、遊び人め。下々の苦しい暮らしも少しくらい慮れっつーの!

 おっと、俺がこんなこと考えていたなんて、皇帝やその取り巻きには内緒だぞ?

 とまあ、そんなことを真昼の青空の下でぼんやり思う、この俺ミハイル16歳(独身)であった。

「まったく、何で俺があんなヤツの食事の準備をしなくちゃならないんだ」

「兄ちゃん、何か言った?」

 俺の横で、きょとんとした丸い目で俺の顔を見上げる弟コンスタンディノス。どうやら、心の声がまろび出ていたらしい。いかんいかん。

「いいや、何でもないさ。さ、行こうか」

 コンスタンディノスの頼みで、俺たち兄弟は二人で町の中央通に向かっていた。

そこを、今日皇帝が巡幸し、セマ長官(アンキラはローマ帝国の地方行政単位「セマ」の首都なのだそうだ)の邸宅にお邪魔になる予定だという。彼は皇帝の姿を一目見たいと俺に頼み、連れて行ってくれとせがんだのだった。

 弟はまだ6歳。弟の願いとあらば、断れないのが兄の情。俺はあまり乗り気ではなかったが、彼の願いを聞き届けることにした。

「お、皆集まってるな」

 中央通の両脇には、皇帝の姿を目に焼き付けんとアンキラの住民たちが鈴なりになっていた。熱気が凄い。人酔いしそうだ、うっぷ。

 人ごみを掻き分けて目の前が開けた、その時だった。町中の教会の鐘が一斉に鳴り出した。

 ゴーン、ゴーン、ゴーン。

 言葉にならない歓声が、遠くから、やがてこちらに向かってゆっくりと近づいてくるのを感じる。地鳴りのようだ。巨大な象が歩いてきたような感じ、象見たことないけど。

 町の住民たちの熱狂を物語るものであるが……うーむ。

「主に愛されしローマ人の皇帝万歳!」

 辛うじてそんなことを唱和しているようには聞こえる。遊んでるだけで民草から祝福されるなんて、皇帝は素晴らしい職業ですねー。実に羨ましい。多分、皇帝政府から言うようにお達しが出ているんだろうな。

 過去のセマ長官や将軍たちのように皇帝に反乱を起こしてその地位を乗っ取るという、神が定めし秩序を冒涜せしめんとする破廉恥な考えが俺の心を掠めたところで、コンスタンディノスが俺の服の裾を引っ張ってきた。

「よく見えない、肩車して」

 おお、危なかった。弟がいなかったら、俺は反逆者になっていたところだったぜ……。んしょ、と弟を背負ったところで、歓声は最高潮に達した。

さあて、皇帝のお出ましだ。

「ようこそ、ヴァシリオス! あなたは勝利者!」

 よくもおめおめと現れたな、ヴァシリオス! お前は酩酊者! 俺ならこういう風に言い換えるね。俺は、町の人々があらかじめ言うよう定められていたであろう皇帝を称える文句に、苦笑いを噛み潰す。

 皇帝は、毛づやの良い美しい白馬に跨って、悠然と中央通を闊歩する。

 それを見たアンキラの住民たちは、涙を流したり、手を振ったり、十字を切ったりしていた。

 俺の皇帝についての最初の印象はというと……丸顔、という素朴なものだった。いやだって仕方ないだろ、丸顔なんだもの。

 丸い輪郭を縁取って、24歳という若さを示す薄い顎鬚が整えられて生えている。大きな青い瞳は遊び人に相応しい豪華な宝石のよう。短く切りそろえられた黒髪の上に、これまた豪奢な冠が載っている。

「お金の絵とそっくり!」

 コンスタンディノスは、俺の頭の上から鈍く光るフォリス青銅貨を俺の目の前に差し出した。そこには、今目の前を馬で進む人物と瓜二つの肖像画が彫られている。

「本当だな」

 まあ、今回の皇帝のアンキラ巡幸による俺にとっての利益は、貨幣の肖像画が美化して描かれたものではないということを確認できたことくらいかな。

 そして、皇帝は群青色のチュニックの上に金メッキした胴鎧を見に纏っている。その下にある身体は、ぶよぶよに弛んでいるかと思ったら存外に引き締まっており、不本意ながら強そうと思ってしまった。肩から緋色のマントをかけている。

 派手に着飾っていなければ、町の気の良い兄ちゃんといった印象かもしれない。

 俺の中で渦巻く濁った感情を知らないで、皇帝は遊び人らしからぬ凛とした風情で駒を進めている。俺も馬には乗ったことがあるが、こうも整った雰囲気を出せようもない。高貴な血筋の人間は馬の乗り方まで洗練されているらしい。

 むう……思っていただらしのない皇帝像とは、一見全く違うのが悔しい。

 以上、皇帝観察終了っと。

「兄ちゃん! 見て見て、かっこいいね!」

 皇帝の後に続くのは、揃いの白い軍服を着た近衛兵の一団だった。槍と丸い盾を携え、一糸乱れぬ隊列で主君に付き従う。お前ら、ダメダメ皇帝に仕えて苦労しているんだろうな……と同情してしまう。

 きっと、近衛兵たちの辛酸極まる日常を題材に、お涙頂戴劇ができる。うんうん、それなりに売れそう。

 我ながらおかしな感想である。

 すると、お次に聞こえてきたのは、ガラガラと車輪が道の石を踏みしだく音だった。赤や青など様々な色を使った豪華な装飾の馬車が、これまた洗練された白馬に牽引されて中央通を進んでくる。一目で高貴な人の為に誂えられた馬車だと分かる作りだ。乗り心地もかなり良さそうである。

 しかし、誰だろうか。俺が事前に仕入れていた情報の中に、この馬車の持ち主の名前がない。誰であれ高貴な人物とあらば、知らせが伝わってきて然るべきのはずだがな。これはどうしたことか。

「兄ちゃん、知らないの? 皇帝陛下の妹のアンナ姫だよ」

「え、そうなのか?」

「うん、ウチのお店の常連のコンスタンス爺ちゃんが言ってた。一緒に来るって」

 俺がポカンとしているのを察したのか、弟は言った。どうも、俺が耳聡いという認識は改めなければならないようだ。

 姫ってことは、可愛いのだろうか? 美人なのだろうか? ふむ……俄然やる気が出てきたぞ!

 下心に燃えた俺の目は馬車を注視する。

 が、しかし。

「あ……」

 馬車の窓が拒絶が如く閉められていた。

 主よ、俺を憐れみ給え! かような悲劇が起きようとは! 邪悪な地獄の住人の仕業に違いない! 

 周りの人々も俺と同じことを考えていたのか、残念そうに表情が曇る。あちこちで、空ろなため息が漏れた。

 アンナ姫は一体何の為に兄の遊びに付き合っているのか……?

 ふとそんな疑問が頭を過ぎったが、それは直ぐに霧散したのだった。どうでもいい瑣末事であるな。全くだ。

 その後、軍馬も乗り手も鉄の鎧で身を固めた騎兵や、様々な美しい服装や肌の色の召使が目の前を通り過ぎていった。いずれも首都の煌びやかな空気を感じさせるもので、小アジアの田舎育ちの俺たちにはもの珍しく、それだけで心を躍らせ楽しませるものだった。一瞬、皇帝を訝しく思う気持ちを忘れそうになるほどだった。

 ま、まあ、こんな見事な行列を見せてくれたんだから、少しくらい泊まってもいいかなーなんて。ふ、不品行を許したわけじゃないんだからねっ、勘違いしないでよっ!

 単純過ぎるな、俺。

 皇帝の行列の最後尾はセマ長官の邸宅へとぞろぞろ入って行ってしまうと、後には人々の興奮の余韻が残った。

「帰るか」

「うん」

 俺は弟の手を引いて、他の住民たちと同じように帰路へとついた。



 ――――



 皇帝がやって来てからというもの、アンキラの町はまさにお祭り騒ぎだった。

 町に並ぶ商店は全て普段より三割引の値段で商品を売り出し、それを人々はこぞって買い求める。付近の村々の住人たちも祝祭の空気を感じ取り、商魂逞しく余剰農産物や家内工芸品を売りに来ている。勿論それらも大安売りだ。「生活大丈夫?」と俺がそんな村人の一人に問いかけたら、「いいのいいの、薄利多売だから」とあっけらかんと答えてくれた。強かである。

 様々な地域から旅芸人の一座も訪れて、町に音楽と歓声が満ち溢れている。俺も見に行きたいが、これは俺自身の店の仕事があるので時間が取れなかった。残念。

 そんな狂乱とすら言える状況が、皇帝が記念とか言って一家族に10枚銀貨をばら撒いてくれたから、更に加速される。どう考えても人気取りだが、くれるというものはありがたく受け取っておくのが俺の流儀である。現金なヤツだぁ? 言わせておけ。

 そして、俺が家族で経営している大衆食堂〈飲兵衛どもの憩い〉も、絶賛割引大売出し中である。


 俺は、調理台から、窓から差し込む昼光に照らされた店の広間を見渡した。

 割引のお陰で中央に並んだ三つの長方形の卓は満席御礼である。

常連客のコンスタンス爺が禿頭に玉の汗を浮かべながら、子供たちに軍隊で経験した武勇伝を語っているのはいつもの風景。我が弟も目を輝かせて聞き入っている。我が兄セオドロスが筋肉質な巨体を蛇のようにくねらせながらお客の間をぬって給仕をし、兄の妻マリアは町のお喋りおばさんたちと調理台を挟んで談笑している。

 さいころ賭博をする者、すごろく遊びをする者、料理に舌鼓を打つ者、酒をちびりとすすっている者、お客さんたちは皆思い思いに〈飲兵衛どもの憩い〉での時間を楽しんで過ごしているようだ。

うむ、平和な時間だ。このような穏やかな一時を提供するのが、我々のような商売の使命である。

「ミハイルゥー、白ワインお代わりー」

 だが、その空気をぶっ壊してくれるヤツもいるのもまた事実。

「お代わりちょーだーい」

 広間の隅に置かれた席で空になった杯を揺らしている、黒褐色の髪をした俺と同い年の男。福音書記者に因んで、名前はヨアニス。一応だが、俺の親友。悪く言えば腐れ縁の仲と言っていい存在である。

既に顔は紅潮しており、大量に飲酒しているのは明らか。締りのない顔で、こちらにへらへら笑いかけている。

 やだなぁー、今のこいつに酒をあげるの。

 しかし、職務柄断ることもできず、俺は白ワインがなみなみと入った壺を持ってヨアニスの下に赴いた。まあ、こういう時の言うべきことは言っておかねばなるまい。あいつの親友なんだからな。

「お前、酒飲み過ぎ。身体壊すぞ。一体今日は今までに何杯飲んだ?」

「ええと……一、二、三、四……忘れた」

 えへへー、と悪びれる様子もなくにやけるヨアニス。

「四杯でも相当飲んでる範疇に入りますけど? つうわけで、今日はこのくらいでもう飲酒は我慢ということには出来ませんかね。ヨアニスさん?」

「俺は飲みたいんだよー、ここは〈飲兵衛どもの憩い〉という店でしょ? 看板に偽りありはいけないでしょー」

 うっ、そのツッコミをされると痛い。

「あー、はいはい。分かったよ」

 誰だよ、こんな店名にしたヤツは。

 ほれ、お金だよ、とヨアニスがワインの代金を俺の手に握らせてくると、もう仕方ないのである。

 俺が杯に注いだ白ワインを、ヨアニスは非常に満足そうに飲み始めた。ごく、ごくごく、ぷはー! 

「アンナ姫といやあ、皇帝陛下も誠に無粋なことをなさる。馬車の窓をぴっちり閉めさせておくなんてよおー、ひっく。下々の望むことが全く分かっておられませんなあー。けしからぬでありまする」

 嗚呼、また始まった! 酔っ払いヨアニス恒例の愚痴の時間が。だから酒を飲ますのが嫌だったんだ。

 俺は「確かにな」とだけ相槌を打っておく。まともに話に乗ったら、延々と付き合わされてしんどいことになるのは経験上分かっているのだ。

「始まったよ……ごにょごにょ」

「また煩いんだろうな……ごにょごにょ」

 他の客たちも、早々にヨアニスの愚痴に備えて心の壁を作り始めている。客の一人が俺の肩をポンと叩いて、「毎度大変だな」と労を労う言葉をかけてくれた。

 ええ、とても。ヤツが来ることによって労力二倍だ。

「ああ、くそぉ!」

 ヨアニスの怒声とともに杯を卓に打ち付ける音が響く。

 その中に入ったワインが少しこぼれて卓に染みを作った。おい、飲食物を粗末にするな、それに声がでかいぞ。

「アンナ姫のご尊顔を拝見したかったなあ! きっと美人なんだろうなー! 下々の目に触れたら穢れるというとでもぉ! 有り難さに主に感謝するに決まってるでしょーが! 滝の涙を流して! 土下座するでしょーが! きちゃない地面だって飴のようにペロペロ舐めますよぉー! ひぃっく!」

「皆も分かるだろ?」と周囲に無茶な同意を求める我が親友よ、ほら、お前の芝居がかった叫びに他のお客さんが失笑しているじゃないか……。

「分かってくれるはずだよねー? せっかくいらして下さったのだから、お顔くらい見せてくれても良かったじゃんかよー。皇帝陛下の意地悪ぅー! 嗜虐趣味者! いたいけな民を飢えさせて楽しいのかー!」

 これには同意したい……が、皇帝には聞き捨てならないであろう発言がちらほら窺える。怖いよこの人。

 ヨアニスが酔って愚痴を言い始めると、無関係な周囲の人々まで巻き込んで、あらぬ方向に話を進めるから迷惑なんだよなあ。しかも、高確率で場の空気を無視して独走する。

 だからといって、この程度で店から追い出すわけにもいかないのが大衆食堂ルールだ。色んな客が来るものだからな。

 ヨアニスは、ブツクサ「美人は公共物」だの「可愛いは正義」だの訳の分からないみょうちきりんなことを呟くと、やがて、俺に座り切った視線を向けてきた。

「ミハイル、親友のお前なら分かってくれるよな?」

「え」

「信じてる」

 うわ、こっちに直接振ってきた。確かに、俺も当初はこいつと同じ考えを持っていたが……今となってはどうでもいい。。

 俺はあちゃーと額を手で覆った。自分も変なヤツだと思われるのは嫌だ。

「……うーん、どうだかな」

「なんだ、煮え切らないヤツだなー! こんなに浪漫を理解しない男だったとは、つゆ思わなかったぞー?」

 ほっとけ。

 アンナ姫が美人だなんて、単なる妄想じゃないか。実際は大した美人じゃないかもしれないんだぜ? 期待が大きければ大きいほど落胆が激しいのさ。

 しかし、俺の心の声は知りようもないヨアニスは、悪い意味で予想を裏切らないでくれるのである。

「俺は決めた、明日セマ長官の家に行って、アンナ姫に会いに行く! ミハイルも一緒に来いよな!」

「あ、ちょっ」

 おいおい勘弁してくれ……。

 やっぱり斜め上の方向に話を進めやがったよこいつ。この悪癖どうにかならないの? そんなことをすれば、非常にめんどいことになるのは明白だろうに。

「他にも行きたいヤツいるー?」

 ヨアニスは学校の先生のように右手を上げて、店の客に賛同を促がす。だが、当たり前だが誰も手を上げない。誰もが聞いていないフリをする。そりゃそうだ、自らお縄に付きに行くようなものだ。

 行きたいなら独りで行けよ、んもう。他人を巻き添えにするな。

「皆、いけずだなー。いいもんいいもん、ミハイルと行くからいいもん。どんな人だったか尋ねてきても教えてあげないからねー! 後で悔やんでも俺は知らないからねー!」

 勝手に決めんな。

「い、いや、俺は行かんぞ」

 ここは説得せねばなるまい。

「不敬罪でとっ捕まりたいのか? 皇族に行列以外で会いに行こうとするなんてバカのやることだ。普通に考えて、まともに会いに行ったって皇女に面通りかなう訳なんてないぞ。門前払いがオチだって」

 俺は声音を抑えて、話し始めた。

「下々の者の素朴な感情を不敬と申すか」

 とかいう戯言は無視する。

「門前払いなら忍び込むまで」

 戯言その二。

「……それに、お前が他の女に関心を持ったとしたら、エウドクシアがどう思うか思案したことあるか。お前は彼女に悪いと思わないのか? ちょっと真剣に考えたら、簡単に分かることだろ?」

「……へ?」

「エウドクシアさ」

 それが効いたようだった。

 今まで弛緩しきっていたヨアニスの表情が、一瞬で帆布のように張り詰める。紅潮していた顔も、血の気が引いたかのように急に色褪せた。

「あの、それは、その」

 一気に彼は口篭り始める。あ、効果覿面? うっかり話に乗ってしまったけどこれで終わりかな?

 エウドクシアというのは、ヨアニスの結婚したばかりの妻である。皇帝がアンキラに来るまでは、彼は毎日新妻との惚気話を周囲に振り撒いて、独身非モテ男子たちの嫉妬を買っていたものである。

 そりゃあ、新妻からしたら夫の移り気は許せることではないよな。だって、天の玉座にまします救い主たるイエス・キリストは、「神が結びつけたものを、離してはならない」と仰ったのだから。

 俺は親友の顔を覗き込んだ。

 妻がいる男には相応しくない情けない面構えである。未来のためにも、もっとしっかりして欲しいものだ。

「でも、見たいんだもん……」

「ああ、もういいや。好きにしろ」

 と口では言ったものの、こいつがアホなことをやらかさないか、監視する必要がありそうだ。責任までは取れないけれど。

 俺がそんな決意をしたところで、店の入り口の扉がバム!と勢いよく開かれた。

「あのー、壊れるんでもっと優しく扱って下さいませ」と兄セオドロスが思わず口にしてしまうほど派手な音を立てたので、入ってきた人物に客たち全員の視線が注がれる。

「う、うちの亭主は、い、いませんかっ?」

 彼女の声はヒステリックに裏返っていた。

 彼女、と俺が述べたのも何のことはない。ヴェールを被って、足先まで届く長衣を着ていたのでそう判断したまでのことだ。

「エウドクシア……」

 と、ヨアニスは言った。ほう、噂をすれば何とやら、だな。

 エウドクシアはつかつかとヨアニスの下に詰め寄ると、被っていたヴェールを下ろして夫を鷹の眼光で睨みつけた。波打つ亜麻色の髪が揺れる。

 突然の妻の来訪に、ヨアニスは明らかに焦っていた。

「あなた! 家の仕事を放り出して、酒飲みですか! 蹄鉄を買いたいと言われる方が来ていて、困っているのです」

「ご、ごめんよー。これを飲んだら帰るからさー」

 あらら、仕事をサボって飲みに来ていたの。あいつらしいと言えば、あいつらしい行動だな。

「はぁ? ただでさえ酔っているのに、これ以上手元が狂うようなまねをして、どうするの? 飲み食いした分のお金を払って、早く帰るのです。いい? ですか?」

 あー、二人の世界に入ってしまわれたようなので、俺みたいな無粋な邪魔者はさっさと退散しますねー。

 エウドクシアがヨアニスを烈火の如くまくし立て始めたので、その隙を突いて俺はここぞとばかりにその場を離脱する。さて、仕事だ仕事だ。先ほどヨアニスに注いだワイン壺を抱えて、食材が無造作に置かれた調理台に戻る。

 エウドクシアがあまりにも責め立てるので、ヨアニスの応答はしどろもどろになっていた。滑稽ですらある。

 だが、彼らの話は、ヨアニスのサボりから家業の鍛冶屋の経営問題、そして結婚生活の不満にまで飛び火し、ヨアニスはもう泣き出しそうだった。

 おいおい、ここぞとばかりに不満をぶちまけているな! それはもう、ヨアニスは子供時代に戻って親にこっぴどく叱られているみたいだ。

 流石に可哀相に思えてきたので、俺は助け舟を出すことにする。

「今日はその辺にしといてやってくれ。ヨアニスもしょげ返ってしまっているじゃないか。俺に免じてさ」

「む……ミハイルさんが、そこまで仰るなら」

 と彼女の声のトーンが下がる。

「うちの亭主が、ご迷惑おかけしました。失礼しました」とエウドクシアはぺこりと頭を下げる。それから、飲み食いした代金を置いて、半ベソをかくヨアニスの手を引っ張って店を出て行った。

「ミハイルゥー、すまんねー」

 という夫の鼻声を残して。

「ありがとうございました! またのお越しをお待ちしております!」

 ――ほっ。

 声にならないため息で、店の広間が満たされた。

 が、まあ、ヤツは確かに騒がしいが、最後は哀れだったからそれほど責めるほどのものでもないかな? 帰ってからも妻にこってり絞られすぎないことを神に祈るとするか、アーメン。

 俺は、ヨアニスの残した食器類を片付けることにする。段々と、広間の中は、元の穏やかな喧騒に戻っていった。

「ちょっといいか、ミハイル?」

 と兄セオドロス。

「あまりにも売れ過ぎてスープ用のキャベツが無くなってしまったんだ。至急市場に行ってキャベツを買ってきてくれ」

 おお、いつの間にかそんなにキャベツのスープがバカ売れしていたのか。これは嬉しい悲鳴だな。

「どれくらい買ってくればいい?」

「いつも使ってる袋に入るだけ、だ。今お金と一緒に渡すから」

「了解だ」

 兄は、店の奥から買い物用の大きな麻袋とお金が入った小袋を持ってきて、俺の手にポンと乗せる。

「急いで頼むよ」

「行ってくる」

 俺は店を出て、足早に町の市場に向かった」



――――



「毎度ありー!」

「ああ、ありがとう」

 野菜を売る露店の店主の快活な声を背に、俺は市場の通りを再び歩き出す。

 右腕には袋に入るだけのキャベツ8個、重さで紐が腕の肉に食い込み、まるでハムのよう。上半身を地面へと引っ張りつける。

 皇帝来訪から3日目、未だに町の熱気は冷める気配が窺えない。多分、予定された滞在日数の5日目までこのままだろう。

「おお」

 市場は、露天商や店舗を構えた商人の明朗な呼び込みの声がこだまし、人々は数歩歩くたびに物欲を刺激されて立ち止まる。通りのあちこちで、芸人たちが己の磨き続けてきた芸を披露し、見物人たちは歓声を上げた。

 市民たちの話題は皇帝の行列の壮麗さ、降って湧いたかのような好景気で持ちきり。小さい子供たちも、大人に混じって騒いでいた。縦笛や竪琴の芳しき音色も爽やかな風に乗って踊る。

 ああ、あらゆるものが俺を悦楽へと誘惑する。〈飲兵衛どもの憩い〉開店以来の大きな稼ぎ時だというのに!

 その中でも、最も俺の心を惹いたのは、旅の劇団が上演していた聖エオルイオス(聖ゲオルギウス/聖ジョージ)の生涯を描いた劇だった。

 聖エオルイオスの生涯なんて誰でも知ってて、今更見るべきものでもないって? いやいや、面白いものは何度見ても面白いものなのだよ。分かるだろ?

 集まった観衆の向こうに設えられた特設の舞台の上で、はりぼての竜が口から煙を噴出して、相対した軍人の格好をした聖エオルイオスを威嚇している。お、リビアの王女を助ける場面だったか。はりぼての中の人が、煙でむせ返らないかちょっと心配である。竜が聖エオルイオスに向かって挑みかかると、観衆が一気にどよめいた。

 ――っと、見惚れている場合ではない、早く店に戻らなくては。

 重い荷物を背中に回した俺は、後ろ髪を引かれながらも、町の市場を出た。


 大きな通りを離れ、店への近道の裏路地に入る。左右に住宅のレンガの壁が迫り、圧し掛かるような圧迫感を覚える場所だ。夜中には歩きたくないと思う。ねずみやゴキブリといった、あまり綺麗ではない生き物もちょくちょく見かける。大切なキャベツを食べられないようにしないと。

 路地に入ってしばらく進むと、右に分岐路が見えてくる。行きはそちらから来た。

「あれ……?」

 だが、ふと、違和感を感じて俺は立ち止まった。

 こんな陰気な裏路地、好んで通るのは近道だと知ってる俺くらいのもの。他の誰かがいるなんてことはまずないと言っていい。

 なのに、分岐路の先から人の気配がする。はて、これはどういうことか。

 耳を澄ませば、先ほどまで俺が全身に浴びていた町の喧騒を背景に、たったったっ、とむき出しの乾いた地面を靴底が蹴る音も届いてくる。それはだんだんとこちらに近づいてくるように感じた。

 軽やかな足音だ、おそらく件の人物は走っていて、体重もさほど重くないとみえる。俺はそう瞬時に推理した。

 ならば、推理結果を答え合わせするとしますか。

 俺は軽い気持ちで分岐路を覗いたのだが、ここからあんなことやこんなことになるとは全く予想もしなかった。

ごっ!

 そんな鈍い音が俺の脳みそを震わせた次の瞬間、俺は建物の壁に長方形に縁取られた青空を仰いでいた。

 あー良い天気ですねー……じゃない。

 俺、何かにぶつかって倒れたんだな。これを認識するまで約5秒。

「痛てて……」

 額がずきずき痛む。こりゃ、たんこぶが出来たかもな。

俺にぶつかったヤツの正体を拝んでやろうと、まだ重い痛みが圧し掛かる上半身を持ち上げ、分岐路の方を睨みつける。ここまで約15秒。

 女だった。彼女も地面に尻餅を突いて、額を摩っている。年の頃は俺と同じくらいか。足音の主とぶつかってきたのは彼女と見て良さそうだ。

「――――」

 抗議の一つでもしようと思った。が、しかし俺は声を出せなかった。

 彼女は美しかった。

 森を連想させる深緑色の外套のフードから流れる黒髪は、薄暗い路地に入ってくる僅かな光でもなお艶やかに輝く。淡い草色の長衣に包まれた肢体はほっそりとしているが、優美な曲線を描き、且つ胸元で豊かな双丘が布地を押し上げているのが見て取れる。目は濁りなき青、海をそのまま凝固させたかのよう。すっと通った鼻筋は、以前見た古代の大理石の神像を思わせた。

 俺とぶつかった衝撃で倒れたお陰で、服装や髪型は乱れ、ぞっとするくらい色っぽく感じさせた。

所謂、金髪ではないので御伽噺や巷で言われるような「美女」の範疇には当てはまらない。だが、俺の好みのど真ん中だった。

 なのに、彼女の花弁を想起させる薄い桃色の唇から紡ぎ出された言葉は、

「ちょっと! どこ見て歩いているのよ!」

 というものだった。

「……ま、待てよ! それはこっちの台詞だ!」

 こいつ、自分の不始末を他人の所為にしやがった。

 実は性格悪いのか?

 女は、俺の抗議を聞いているのかいないのか、服の乱れを直し始める。ちらちらこちらに目をやってはくるものの、俺とは視線を合わそうとしない。

「おい、聞いているのか? ちゃんと周りを……」

「しっ、静かにして」

 そう言って、女は俺の言葉を遮った。

 ほんのしばらく、沈黙が訪れる。しかしその向こうに、数人の男が何やら話しているのが感じ取れた。


「そっちは見つかったか?」

「いや、全く」

「お前は?」

「そういえば、さっきこっちの路地に入っていくのを見た」

「よし、いいぞ」


 女は怯えていた。少なくとも俺にはそう見えた。

 察するに、この女はあの男たちに追われている。追われる理由は分からないが、このままでは彼女は捕まってしまうのだろう。うーむ、困っている女を見捨てるのも、なかなかに酷い話だろうな。

 首を突っ込んだら危ない。そう俺の直感も告げていたが、俺はそれを黙殺し、彼女に事情を訊こうとした。

「どういうことなんだ? ちょっと俺には事情が分からないんだが」

 けれども、女は何かを決心したかのような真顔になり、人の話を聞いていない発言をまた繰り出してくれた。

「ちょっと、目を閉じていてくれると嬉しいかな」

 ……はい? 

どういう意味なんです?

「お、おい、俺の話を聞けよ!」

 そう俺が言っても彼女は聞かなかった。そうしていながら、俺の顔に自分の顔をゆっくりと寄せてきた。

な、何だよ……。

「目を閉じて」

 彼女のその言葉の気迫に押されてしまい、俺が思わず瞼を下ろしてしまった瞬間だった。

「むぐ……」

 俺の唇に、柔らかいものが触れて塞いだ。

 何これ?

 そう思って瞼を持ち上げると、なんと、驚くべきことに、女の整った容貌が俺の面前にあったのである!

 せ、接吻ですとぉ!?

 い、いや、まあ、接吻は初体験じゃないからそれ自体は別に驚くべきことではないけれどこの訳の分からん状況を更に訳分かんなくしてくれたのは明らかで俺の取るに足らない頭では処理の限界をとっくに超えている訳でありましてというか初対面の相手に接吻するなんてどうかと思うし彼女の意図がさっぱり分からない。

 頭の中で思考が空回りして壊れそう。あああああ、物理的な衝撃によるものとは別の頭痛が……。

 とりあえず離れよう、そう考えたが彼女の両手が俺の頭部をガッチリ掴んで離さない。もがいても離さない。俺の身体に覆い被さるようにして押さえつけ、女はひたすら俺のぷりっぷりの唇をむさぼり続ける。

 ごめんなさい神様、俺は負けてしまいそうです。

 情けなくも泣きたくなってきた。訳の分からない女に訳も分からず押し倒されて訳も分からず唇を奪われて……はぁん。

 すると、先ほどの男たちの会話が、女の意図をそこはかとなく教えてくれた。


「おい、いたぞ! ……ん?」

「何だ、別人か。あいつがこんな状況で男といちゃついている訳ないよな」

「人違いか?」

「真昼間からいちゃつきやがって……炎上しろ!」

「もっとよく探せ!」


 男たちは裏路地に入ってきていたようだが、俺に熱い接吻をする女に一瞥をくれると、そのまま去っていった。まずは彼女の危機は去ったらしい。

「ぷはっ」

 女は自分の唇を俺の唇から離した。

 舌まで入れてこなかったのがせめてもの救いだった。ぐすん。男ミハイル、一生のトラウマになりそう。

 女は俺の身体からも離れ、腕を組んで顔を赤らめてぷいっとそっぽを向いた。

「私の初めてなんだからねっ、ありがたく受け取っておきなさいよっ」

 いや、全くありがたくなかったんですけど。

 初対面の人間の初接吻を貰ったところで、誰が諸手を挙げて喜ぶというのか。可愛かったがな!

 おほん、気を取り直そう。

「えー……あの男たちに追われているのは分かったけど、追っ手の目を誤魔化すのにはもっと良い方法はなかったのか?」

「だって、これくらいしか思いつかなかったから」

 仕方ないでしょ、と彼女。

 人間誰しも危機的状況になれば取り乱してしまうもの。逆に考えれば、こんなに可愛い子と接吻できたのだから棚からパンということにしておこう、は、はは。はあ。

 まあそれはいいや。

 で、俺は訊いてみた。

「ところで、何で彼らに追われていたんだ?」

 彼女は答えた。

「――ええと、あの、その、私、生まれ育った家が貧しくて、お金に困ったから両親にこの町に奴隷として売り払われてきて、でも私奴隷として働かされるなんて嫌で、私を買った奴隷商人のところから逃げてきた」

「さっきの男たちはその奴隷商人の手の者ということか?」

「ええ、そうよ。その通り」

 彼女の語り口には抑揚が無かった。だが、逆にそれが彼女の切羽詰った状況を示しているように感じた。

法を守る「善良な民」ならば、この奴隷として売られてきた女を所有者、つまり奴隷商人の下に送り返すのが筋だろう。けれども、「善良なキリスト教徒」として、同じキリスト教徒を奴隷の身分に貶めるのは地獄直行便を約束される悪徳に思えた。

 俺の中の彼女に対する悪感情は、いつの間にかどこかへ消え去っていた。

「行くところはあるのか?」

「?」

「ああ、つまり身を隠したり泊まったりする当てはあるのかってこと」

「ないわ、今のところ」

 彼女は困っている。

 ならば、取り得る対処法(女子修道院を紹介するとか)はいくつかあるが、俺が選んだのは次の手段だった。

 俺はごくりと唾を飲んだ。

「じゃ、ウチ来る? 泊まるところあるよ」

「え、いいの!?」

 女は存外に嬉しそうだった。

 俺は、初対面の男の家に来るよう促がすのは不信がられるかもなーとうっすら思っていたが、この反応には拍子抜けした。どういうことか。

 流石に奴隷の境遇の恐怖を思えば、俺の申し出はヘブライ人が砂漠で神から賜ったマナのように思えたのかもしれない。そう信じることにした。

彼女を捕って食おうとか、下衆い欲望の捌け口にしようとか、そんな考えはないからな? 信じろ。

「問題ないさ、俺の家族も皆いいヤツだ」

俺が立ち上がって服に付いた砂を払うと、女もそれに倣って立ち上がり服を正した。

「って、ああああああああああああっ!! キャベツがー!」

 気づいたら、袋に入っていたキャベツはごろごろと地面に転がり出て、不潔な動物たちの関心を買っていた。食べられてしまう!

「ごめんなさい!」

 俺が拾って袋に入れるのを彼女が手伝い、作業はほんの一分で終了した。

 いやー、危なかった。

 再び、気を取り直そう。

「俺の家はすぐ近くだよ、こっち来て」

 女はこくりと頷くと、歩き出した俺の後をついてきた。

 女の子を救う!

 小さい頃親父に聞いた、ならず者から貴婦人を守った勇士の話や、先ほど見ていた聖エオルイオスとはちょっと違うが、俺は図らずも歓喜していた。女の子が見ていなければ、大声で喚きながら小躍りしていそうだ。

 男の子は誰だってヒーローになりたいものである。16歳という年齢になった今でも、その単純明快な気持ちが変わらないことに、俺はくすぐったさを感じていたが、また仄かな心地よさも感じていた。

 同年代の女性と暮らすなんて、未婚で女兄弟もいない俺にはそんな経験はない。それ故か、言い知れぬ緊張を持った高ぶりもまた、俺は覚えていた。


「遅かったじゃないか、ミハイル」

 兄セオドロスは丸太のような腕を組んで俺を迎えた。

「どこほっつき歩いていたんだ、全く……」

「すまん」

 兄は、俺の横に立っている女に目を向けた。

「そちらの方は、お客さんかな?」

「あ、いや、ちょっと違うが。まあ、今はご馳走してやってくれ」

 女の代わりに俺が答えた。

「お邪魔します」と女は言うと、調理台席に向かって歩き出した俺に付いて、調理済みの料理が芳しい湯気を上げる台に開いた穴の前に立った。

食欲を刺激されたのか、彼女の腹がぐーきゅるるるーと鳴ったので、俺は微笑する。彼女は顔を赤らめていた。

「ほれ、キャベツ」

「確かに」

 俺からキャベツのたんまり入った袋を渡されると、兄貴はそれを抱えて店の奥に入っていった。大柄な兄貴の手にかかれば、キャベツが8個も入った袋が玉葱しか入っていないようにすら見える。

「ウチは何でも美味しいから、ゆっくりしていってね」

 兄貴の代わりに、彼の妻のマリアが笑顔で応対しに出てきた。

 背の高い兄貴の横に並べば、まるで子供にしか見えない背丈。波打つ黒髪を後頭部でまとめ、馬の尻尾のように垂らしている。水色の長衣の袖は、調理の時不便にならないように捲り上げられている。

「はい、献立。字は読めるかしら?」

 マリアは一枚の木の板を差し出した。そこには兄貴の蛇ののたくった跡のような下手くそな字で、この店で扱っている料理の名前が書いてある。

「ええ、読めるわ。何とか」

 と、女は言った。それは字が読める能力があるという意味なのか、この下手くそな字が読めるという意味なのか、ふと気になったけど、兄貴にどやされるのは嫌なので黙っておく。

 しばらくの間、女は真顔で木の板とにらめっこしていた。

あ、やはり下手すぎて読めないです? 本当にごめん。

本当、兄貴は何の為に学校に行ったのか分からないよなあ。

すると、女は突然自分の外套の懐を漁り出したり、長衣のベルトを漁ってみたり、何かを探しだしたようだった。俺とマリアが「?」と思っていると、彼女は申し訳なさそうにぽつりと言った。

「私、お金持ってない……」

「何だ、そんなことか。俺のおごりということでいいよ。気にせず食べな」

「悪いわ……」

「俺に良い格好させてくれ」

 元々貧しい家の出で、その貧しさから奴隷に売られそうになった人からお金を取れるわけがなかろう。

 あくまでも下心はない。完全な善意である。もしそのようなものがあれば、俺の天上の王国行きが危うくなってしまう。……ほんとだってば。

 女は再び献立に目を戻し、やがて注文を言った。

「ビスケットと、チーズ。それから若鶏肉の香草焼き。ほうれん草のサラダ。野菜たっぷりスープを貰えますか?」

「飲み物はいかが?」

 とマリアは訊いた。

「じゃあ、蜂蜜牛乳を」

「分かったわ」

 初見でよくここまで読めたよ。天才じゃないか。

 この解読力は俺を感嘆させずにはおられない。軍隊の暗号解読班への配属を薦めるのも、視野に入れておこう。

 暗号扱いしたと兄貴に知られれば、確実に殴られるがな。

「はい、おまちどおさま!」

 俺が女に感心している間に、彼女の前には温かい食事が並べられていた。

 とろっとろに溶けたチーズからは酸味の強い香りが漂い、鼻孔をくすぐる。焼き立てと窺える鶏肉の上では、未だ油が香ばしい香りとともにジュージューと音を立てている。ほうれん草は今朝市場で買ってきたばかりの新鮮第一の逸品だ。豚の骨を出汁に使った野菜スープの中では、キャベツや人参、玉葱、きのこ類がひしめき合って鮮やかな彩を見せている。最後にビスケットが皿に盛られて出てきた。

 流石は我が〈飲兵衛どもの憩い〉の料理、凄く美味そう。見ているこっちまでお腹が鳴ってしまいそうだ。

 だが、女は何故か料理を前にして戸惑っていた。またもや何かを探すような素振りを見せるが、見つからなかったのか落胆の色を浮かべる。

「あ、あの……フォー、フ」

「「フ?」」

 と、俺とマリアはポカンとする。ふぉー? “ふぉー”ってなんだ?

「いえ、何でもないです……」

 相変わらず変なヤツだなー。

 その場を誤魔化すためか、女は、え、えほん、とわざとらしく咳き込むと、神に食前の祈りを捧げて、食事へとしゃれこんだ。

「…………」

 女の食事振りを一言で言い表すと、汚い。

 とりわけ肉に関して、細かい破片をぽろぽろこぼすわ、手に付いた脂を皿で拭き取ろうとするわ、脂の付いた指をいやっそうに見て顔をしかめるわ、全くもって躾がなってないと思われる挙動が散見される。親は何をやってたんだ! ……ああ、自分の子供を奴隷に売り飛ばすようなヤツか。

 しかしながら、匙を使うスープに関しては問題なく、いやそれどころか非常に凛々しいとすら感じる振る舞いで食べていた。どうも手で食べることのみが苦手のようだ。この差異は一体……?

 俺は怪訝に思ったが、他人の食べているところに水を差すような言動は、大衆食堂的に不躾なのである。

「どお、美味しいでしょ?」

 兄嫁マリアは、自信満々に女に尋ねた。

「ええ、美味しいわ」

 女は答える。

「ウチの料理はアンキラ1よ。それは保証する」

 実際は他店との競合で競り合っていて、どれが一番美味いかなんて決められない状況なんだけどな。

でも、俺個人はこの〈飲兵衛どもの憩い〉が一番美味いと思ってる。店員の意見は参考になりませんかそうですか……。

「そういえば、まだあなたの名前を知らなかったわね、訊いてもいいかしら? あたしはマリア、この店の主人の妻よ。そしてこいつはミハイル、主人の弟よ」

 マリアは俺の金髪をポンと叩いた。

 確かに、俺は彼女の名前を訊いていなかった。こりゃ失態。

「ミハイル……」

 彼女は意味ありげに俺の名を呟いた。俺には彼女が何を考えたのかは、察することは出来ないが。

「私はセオファノ、ええと、アモリオンの古物商の娘でした」

「セオファノ、良い名前だね」

 と、俺は言ったが、彼女は特に眉根を動かすなどの反応を示さなかった。聞こえなかったのだろうか?

 無反応なセオファノをよそに、マリアは質問を続けた。

「アモリオン! それは遠くから来たのね。それでセオファノさんは、このアンキラにはどんなご用事で?」

 この手の営業トークは大衆食堂では当たり前の行為である。遠くから来たお客さんには、こういった旅の話題で店員と盛り上がって、短いながらも麗らかな食事の一時を楽しんでもらおうという訳だ。

しかし、ポツリとセオファノは言った。

「……両親に奴隷に売られて……逃げてきた」

「あ、ああ、そうなの……それは大変ね」

 相手の突然の告白に、マリアは返事に困っているようだった。先ほどまでの笑顔がさっと引き、代わりに困惑の表情が浮かんだ。こんな重い理由でアンキラにやって来る人間なんて、そうはいやしない。想定外というヤツだ。

 そこに俺が割って入る。

「それについては後で兄貴も交えて話そう」

「今は詮索はしないように」と俺が付け加えると、マリアは理解したのか大きく頷き、表情が緩和された。こういうところは流石、接客業を生業とする人間である。様々な客を捌いてきただけある。

 俺もなかなか賢い対応だと思わんかね? そんなことはない?

 セオファノの一言でいきなり暗くなった俺たちの雰囲気を明るく改善しようと、俺は彼女に提案した。

「そうだ、お代わりはどうだ?」

 彼女は、俺とマリアが短いやりとりをしている間に、頼んだ食事をすっかり食べ終えていた。それならば、お客さんにもっと美味しく食べてもらいたいというのが筋金入りの料理人の情である。

「そうね、もうお腹が膨れてきたから、蜂蜜牛乳のお代わりを貰える?」

「あいよ」

 蜂蜜牛乳とは、単純に名前の通り牛乳に蜂蜜を混ぜた飲み物である。〈飲兵衛どもの憩い〉では、小さな子供たちに人気の献立である。マリアは壺に入った蜂蜜牛乳を、空になったセオファノの杯に注いだ。

 甘い香りが立ち上る琥珀色がかった乳白色の飲み物が並々注がれた杯を、セオファノはゆっくりと飲み始めた。液体が喉を通るたびに、細い首が脈打つ。その様子すら、ピグマリオンが作った彫刻が神の恩寵で生命の息吹を得たかのようであり、俺は図らずもうっとりしてしまう。

「美味しい……」

「だろ? 混ぜている蜂蜜は、ウチと直接契約を結んだ養蜂業者から買い入れているから、鮮度が違うんだ」

「アンキラの周りでは豊かな草花が生えているのね」

「だから蜂も美味い蜜を作ってくれる訳よ」

 えっへん、と俺は胸をそらす。

まあ、俺たち大衆食堂みたいな店は、農家や生き物が作った作物を買って、調理して出しているだけだけどな。

「あら、あなた、遅かったじゃない」

 セオファノが蜂蜜牛乳を再び飲み干した頃には、兄セオドロスが店の奥から広間に戻ってきていた。

「実は兄貴……」

 俺は背伸びして、兄貴の耳元で周囲に聞こえないようにセオファノの事情を話す。

すると、兄貴は、

「分かった、今日の晩家族会議をする」

 と言った。



 ――――



 兄貴の言った通り、その日の夜は閉店後の広間で家族会議が開かれた。

 議題はセオファノの境遇とこれからの生活について。

 兄貴セオドロス、兄嫁マリア、弟コンスタンディノス、そして俺ミハイルの前で、セオファノは自らが奴隷としてこの町にやって来て、自らを売り物にしようとした奴隷商人の下から逃げ出した過程について語った。

「……で、ミハイルさんに連れられてこの店にやって来ました。ミハイルさんは家に泊まっていいと言いましたし、私もその言葉に甘えたいです。帝都コンスタンディヌポリスに親戚が居るので、彼らの下に行く準備が出来るまでで良いです。それに、旅費を稼ぐ為にこの店で働きたいと思います。どうかお願いします」

 セオファノは言い終えると、頭を下げた。

 彼女の両親の家の経済状況を聞くに、子供を奴隷に売り払ってしまうのも当然のように思えた。だからといって、同じキリスト教徒を奴隷にするような振る舞いは、到底容認出来たり同情したりするものではないが。セオファノのような若い娘ならば、慰み者にする目的で購入しようとする者も確実に出てくるだろう。

 その恐怖を窺えば、彼女の行動は至極真っ当なものといえる。奴隷身分から逃げ出すのが当たり前だ。

 セオファノが喋った卓の反対側で、兄貴は神妙な顔をしていた。

「彼女が追われていたというのは本当だな、ミハイル?」

「ああ、嘘じゃないさ。俺はちゃんと確かめた。奴隷商人の手の男が三人、セオファノを追いかけていたよ」

 俺は自信たっぷりに答える。

「で、ミハイル、お前は彼女の話を聞いて、どう思う?」

 兄貴の淡々とした問い。それに俺は再び答える。

「彼女はあまりにも可哀想過ぎる。奴隷の苦境から逃げてくるのは当然の帰結だよ。普通なら元々の所有者の奴隷商人の下に返すのが筋だけど、でもそれって相当な罪だと思うんだよね。明日から堂々と教会に顔見せ出来ないよ、そんなことをしたならば。そんなのは絶対嫌だね。困っている人を救うのは敬虔なキリスト教徒の務め。だから、俺は彼女をこの家に置いてあげたいと思う」

 俺の話を、兄貴は頷きながら聴いていた。

これも一応、俺がセオファノを救いたいと思う理由の一つである。だからこそ、俺が彼女を傷つける意図の無いことの明白な証明なのさ。

 次いで、兄貴は妻のマリアに話を振った。

「マリア、お前はどう思う?」

「あたし? あたしはね、置いてあげた方が良いかなって思ってるわ。ミハイルの言う通り、セオファノちゃん困ってるみたいだし。こんな子を見捨てるのはあまりにも無慈悲よ。悪い子じゃなさそうだし。それに、あたしからすれば、一時的だけど、女の働き手が増えるのも嬉しいからね」

 ほっ、良かった。マリアは俺に賛同してくれているようだ。しかも、セオファノの話に涙まで流して。義姉さん涙もろすぎるよ……。

 そして、兄貴はコンスタンディノスにも話を振った。

「では、コニー(コンスタンディノスの愛称)はどうだ?」

 コンスタンディノスはうーんと頭を捻ると、徐に口を開いた。

「僕もマリアお義姉ちゃんと一緒で、セオファノさんをおうちに置いてあげてほしいなあ。お姉ちゃんが増えたみたいで嬉しい!」

「ふむ」

 と兄貴は顎をさする。

「兄貴はどう思ってるんだ?」

「俺? 俺か……」

 俺はごくりと唾を飲む。マリアとコンスタンディノスの熱い視線も、兄貴の無骨な顔に注がれる。セオファノは祈るように俯いていた。

 親父とお袋が既に死んでしまった以上、この家の主は長男のセオドロスとなり、家の方針を決定する権限は彼にある。俺ら家族が賛同していても、セオドロスがダメだと言えば、セオファノは追い出されることにもなり得る。

そんなことになりはしまい……と、心臓が痛いくらい早鐘を打つ。無駄に勿体つけるなよ、兄貴ぃ。

「お前たちの話も聴いて、俺も彼女を置いてやりたいと思った。確かに困っている人を見捨てるのはキリスト教徒のすることじゃない。彼女も悪い人間には見えないのも確かだ。働き手が増えるのも嬉しい。もしその奴隷商人や官憲から追及されたとき、どこまで君を守りきれるか分からないが、セオファノさん、君が望むならウチで暮らしても構わないよ。歓迎する。今日からここが君の家だ。旅費が貯まるまでゆっくりとするがいい」

 流石、兄貴、話分っかるぅ!

 貧しき人を救うなんて、兄貴が聖マルティノスのような聖人みたいに見えてきたぜ……。「アンキラの聖セオドロス」ってな感じで列聖すべきじゃないか?

 俺は「ありがとう、恩に着るよ」と述べた。

「セオ兄ちゃんありがとう!」とコンスタンディノス。

 マリアも「良かったねえ」と義弟の言葉に頷いていた。

「感謝します。このお礼は必ず」

 セオファノは深々と恭しくお辞儀した。その動きに合わせて、縛られていない長い黒檀の髪がさらさら揺れた。

「いやいや、気にしなくていいよ。俺たちは迷惑だと言って君を追い出すことも出来た。だけどそうはしなかった。つまり、俺たちの都合で住んでくれと言った訳だ。気負いせずとも構わないよ」

 セオドロスは、厳つい巨体に似合わない朗らかな笑顔だった。

「住んでもらうとなったら、まずは住む場所だな。マリア、客室は空いているか?」

「ちょっと待ってね……ちょうど全て空室、問題ないわ」

 大体の大衆食堂がそうだが、ウチは旅籠も兼ねている。旅人に食事を楽しんでもらった後、二階の部屋で休んでもらおうという訳だ。ウチの寝台はなかなか寝心地が良いと、様々な地域からやって来た旅人に好評である。小さい頃はそこで遊んだこともあったが。

「なら、セオファノさんは一番奥にある部屋で暮らしてくれるかな? 服などの生活に必要な品々も後で買い揃えよう。ちょっと狭いかもしれないけれど、我慢して欲しい」

「はい、分かりました」

 セオファノの声音は、今までで一番明るいものだった。

「……さて、腹も空いてきたことだし、新しい家族を迎えての初めての晩飯とするか! ミハイル、モロヘイヤと羊肉の腸詰を炒めてくれ」

「はぁーい!」と自分でも明るい声が出たことにびっくりした。

 何度も言うが、俺は決して同年代の女の子と一つ屋根の下で暮らせるから、浮かれている訳ではない。本当だ。そんな御伽噺でもそうそう無い状況で舞い上がるほど、俺はバカじゃないぞ。イエス様の御意志に近づけるから嬉しいのだ。

 腸詰を炒めながらぼーっとしてしまい、急に跳ねた油が手にかかって驚き、そのまま「うひゃあっ」と情けない悲鳴を上げながら後ろにつんのめって刻んだ玉葱の山にぶつかり、涙が止まらなくなってコンスタンディノスに笑われたのも、単に自分が主の御心に適った為である。他の何故でもない。

 誰だ説得力皆無とか言ったのは! 訴訟も辞さないぞ!

 だがしかし、気がついたら卓を布巾で拭いているセオファノを目で追ってしまっているのも事実である。否定したくとも、もう厳然たる事実である。如何様に取り繕うのも無駄といえば無駄なのか……? ぐぬぬ。

「兄ちゃん、焦げるよ」

 そんな俺の思考に突如割り込んだコンスタンディノスの声で、俺は急に現実へと引き戻される。気づけば、熱した鉄板の上でモロヘイヤと羊肉の腸詰が香ばしい匂いをはなっていた。もう完成か。

「うおっ、いっけねえ」

 俺は出来た料理を皿に盛って、家族が待つ卓へと運び出した。














今回はほんの導入部で。

こんな感じの高いテンションの歴史小説です。

作中の舞台のアンキラというのは、現在のトルコ共和国首都アンカラ、ハリス川というのはトルコ中部を流れ黒海へ注ぐクズル・ウルマック川のことです。

そして、皇帝ヴァシリオス2世というのは、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世(在位976-1025)の中世ギリシア語形です。

まだまだ続きますので、お楽しみに。


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