05.指先
アカデメイアから神殿に戻ると、侍女から姫の御前に上がるよう告げられた。
バルカの部屋は神殿の入口のごく手前にある。
そこから、姫がいる奥の間までは、歩いて20分はかかってしまう。
部屋の位置は、そのまま身分を表している。
それほど、2人の距離は遠かった。
「おやおや。帰って間もなく、お召しとは姫君から寵愛いただいているようで何より」
奥の間へと続く中央の廊下を侍女の後ろを歩いていると、柱の影から久しぶりに聞く声がした。
「イシス…あんた、女子供しかいない神殿をフラフラしていて、よく捕まらないな。」
「はは。誰も告げ口などしないよ。ここの侍女達はみんな可愛い人ばかりだから。」
ねぇ?と問いかけるように、バルカを先導する侍女に目配せをする。
侍女は少し顔を赤らめ、目を伏せた。
(相変わらず、見境がないな。)
元飼い主の節操のなさに苛立つ。
「まぁ。いいや。色々聞きたいと思っていたんだ。」
「なんだい?僕の可愛いバルカくん」
バルカはイシスの軽口にますます目つきを鋭くした。
「俺はあんたの物になった覚えなどない」
「そうだったねぇ。僕が何度迫っても、手ひどいのだもの。他の子はみんな僕に恋してくれたのに」
バルカは盛大な溜息をついた。
イシスは、誰もが魅了される外見の持ち主だと、バルカも認めざるをえない。
すらりと伸びた手足に、長身。亜麻色の髪は、一本一本が繊細で、ほっそりした輪郭によく似合っている。
目は光の当たり方で色彩が変化するブルーグレーの瞳には、男でも思わず見惚れてしまう。
とにかく文句の付けどころがない美男子だ。
年齢は、正直なところ分からないが、内務大臣を務めているくらいだ。下手したら40歳を超えているのかもしれない。それでも、自分が買われてから8年間ほとんど変化がなく、いつまでも20代にすら見える。
そんなイシスなので、性別問わず、奴隷から侍女、良家の姫たちでさえ、嬉々として寝所に侍った。
「それが原因で奴隷同士の殺生沙汰までなったじゃないか。懲りない男だな。…それより、どういう思惑があるんだよ。」
「…思惑?何のことかな?」
気まぐれで、神出鬼没。こちらが会いたい時ほど会えない男である。
この際だから、聞きたいことは聞いておくべきだ。
「…あんたは、10歳前後の奴隷を大量に買い上げては磨き上げる。
容姿が良いものは貴族へ愛妾として、武道に秀でたものは軍人の家に…あらゆる分野の権力者に送っているだろう?どうせ、この国の権力を影から握ろうとしているのだろうけど、今まで神殿へは送り込んだことはなかったはずだ。」
「そうだったかな?」
「とぼけるな!ここに、権力はない。ここは、形骸化された儀式を司るだけだ。俺の見た限りでは、巫女姫は、王の命に神託という理由をつけるためだけに存在する。けど、巫女姫は…ただの飾りだ。彼女に王はコントロールできないぞ。」
「だが、ここそが世界の中心であり、爆心地だ。彼女が本当にか弱い少女だと思っているなら、まだ甘いよ、バルカくん。それから、言葉遣いには気をつけなさい。僕は、確かに君を手放したから主人ではないけれど、それなりに、君の処遇を変えられる立場には未だにいるのだからね。」
「爆心地って?!どういう意味だよ?」
言葉遣いを注意されたことについては、バルカは気にも留めてない。
「はは。バルカくん、君、姫君に呼ばれているのではなかったかな?」
「…逃げるなよ。」
そうは言ったが、確かに先を急ぐ必要がある。
「次こそは逃げるなよ。」
「はは、お手柔らかに。」
口を割る気がなさそうなイシスに、もう一言言ってやりたかったが、諦めて歩き出す。
やはりもう一言、とすぐに振り返ったが、既にいない。
(本当に食えないヤツ…)
「遅かったな。バルカ」
「も、申し訳ありません!」
巫女姫の言葉にバルカより先に侍女が謝る。
「まぁ、良い。アカデメイアはどうだ?」
「ええ。入学試験の結果が出ましたが、上々です。」
変わらないませた振る舞いを愛おしげに見て、巫女姫は言った。
「今日はそなたにこれをやろうと思ってな。」
そう言って姫が手を挙げると、1人の侍女が進み出た。両手に白い衣を抱いている。
「アカデメイアの制服だ。遅くなったな。」
「はぁ。」
ずいぶんと間の抜けたタイミングだ。
どうせなら、登校初日に間に合うようにして欲しかった。とりあえず、衣を受け取り広げる。
白い木綿の長袖、丈はくるぶしくらいまである。袖の裾には青い糸で刺繍がされていた。ウエストを縛るための麻紐もあった。
紐の先には刺繍と同じ青いガラス玉。
よくよく刺繍をみると、アホ毛のように所々、糸が飛び出している。
まるで素人が作ったみたいだ。
「…まさか、この刺繍って?」
「ああ。余計なことだと思いもしたのだが、やり始めると意外と面白くてな。止まらなくなった。」
「刺繡は、普段から?」
「いや、初めてだが。」
何か文句でもあるか、と言わんばかりだ。
初めての刺繍までしておいて、いつも通りの態度に、なんだか気に食わない。
「…何事も一足飛びには上手くいきませんよ。練習もなく何かを人並み以上にできる才能が自分にはあるはずだと思うのは、愚かな子供が考えることです。」
つい生意気な口を聞く。
「なっ…!」
バルカの言葉に、巫女姫は、眼を見開く。
次の瞬間には、大きくむくれてそっぽを向いた。
その様子に、もう少し意地悪をしたくなったが、先ほどのバルカの言葉に周囲の侍女がざわついている。
(これ以上調子に乗ると不敬罪で首が飛ぶな…)
「ちなみに、この刺繍のモチーフは?」
「…ジャスミン。」
そっぽを向いたままの巫女姫の答えにバルカは、首をかしげる。
ジャスミンの花ことばは、「素直」や「可憐」。
少女への贈り物なら分かるが、男の自分には相応しいモチーフとは思えなかった。
バルカの疑問に気づいたのか、巫女姫は問う前に言った。
「…そなたが、よく夜風に当たっているあの窓…その扉の木彫りと同じだ。」
なるほど、先日あの場所であったことを気まずく感じているのは自分だけらしい。
巫女姫が、自分との思い出の場所にあの場所を選んだのは、少し複雑な気もするが、風に当たっている自分を思い出しながら、針を通したなら悪くないことに思えた。
バルカは、前に進み出た。
衣を肩にかけ巫女姫の前に跪く。
突然のことに、巫女姫は一歩身を引いた。
「姫、御手にお礼の口づけをお許しください。」
「なっ…!馬鹿を言うな…」
巫女姫は、さっと手を後ろに隠し、さらに身を引く。
「では、御御足に、許していただけませんか?」
「ば、馬鹿!足になんて口をつけさせられるか!!汚いだろう!!」
(本当にこの人は…自分を偽るのが下手だな)
バルカの頬が緩む。出会った日に、自分を毛色の変わった猫呼ばわりしたのはどこの誰だろう。
「では、やはり御手に」
「いや…だが…」
「やはり奴隷ごときに…手を触れられるなど、不快でしょうか?」
まごまごしている巫女姫に追い打ちをかける。
「う・・・」
やっと観念したようだ。バツが悪そうに手を差し出した。
「好きにしろ」
「では、遠慮なく。」
バルカは、大人びた微笑みを浮かべて、巫女姫の手を取り、口づけを落とす。
その手は、傷だらけで、白い包帯が巻かれていない指がない。
出会った日には、恐ろしいとまで感じたのに。
バルカの口づけに、首まで朱に染めて、目を泳がせる彼女にどうしてそんな感情を抱いたのだろう。
「光栄の極みです。あなた様の初めてを賜るなんて」
「こ、この…大馬鹿!変な表現をするな!お前、ほんとうに13歳か!?」
「はは、刺繍のことですよ。何も焦る必要ないでしょう?」
(ああ、崩れた…)
冷静を装ってばかりの彼女の素顔を見ることができ、バルカは相好を崩す。
少女のような年上の姫君。
親子ほど歳が離れて見える王に何度も抱かれているだろうに。
13歳のバルカの戯言に狼狽えるほど、本当の彼女は、今尚真っ白なのだ。
(護りたい。)
衝動的な感情かもしれない。
奴隷の身で何ができるというのか。
ただ、願わくば自分の手で、彼女を取り巻く見えない檻から救いたい。
そして、夢と現を彷徨う彼女をこちらに繋ぎ止め、幸せにしたい。
バルカは、巫女姫の手にもう一度キスをし、密かに誓いを立てた。