Mutare vitae cotidianae
あれから数日、私達はお互い徐々に打ち解けて今では当初のぎこちなさは全く見当たらない同居生活を送っていた。一度だけ生い立ちの話をしようとしたが、アルメイシアの名を口にした途端に彼女は無言で席を立ち、そのまま部屋へ戻ってしまったのだ。その背中で追うなと言いながら。ただ、それ以外は何も問題が無かった。
そうして何事もなくいくつかの季節を過ごして、この地に冬が近付き始めた頃のある日曜日、少年はどうしても気になっていた事を今日こそは少女に訊こうと、起床した時に決めていた。
休日は私が起きて下に降りて食卓に姿を見せないでいると少女が朝9時に起こしに来る。今日はしっかり起きられた。
…はずだったのだが、ぼやけた視界の中にはエプロン姿の少女が困ったような顔をして私の顔を覗き込んでいるのが映っていた。
「ん、おはよう。」
「おはようございます。」
ぶっきらぼうに言い放って少女はそそくさと寝室を出て行った。
「一体どうしたんだろう。」
少女に聞こえるようにやや大きめの声で言ったが何の反応もない。仕方なく怠さの残る身体を起こしてベッド横の机の上を見るとメモが置いてあった。
『今日は起きるのが遅れましたから、今からお買い物へ行ってきます。11時20分には帰って来ますので、白い大きいお皿2つとサラダ用のお皿2つ、小皿を1つ用意して待っていてください。よろしくお願いします。』
なんて律儀なんだろう。メモまで丁寧な言葉だ。って待てよ、11時20分だって?
私は時計を見た。短針は頂上を僅かに越え、長針は真右を指していた。つまり12時20分だ。少女は帰って来てから私が起きるまで一体何度「おはようございます」と言った事だろうか。なるほどそれであの表情にあの態度なのかと私は理解した。
「ご飯ですよー!お寝ぼうさん!」
笑いながら怒っているような、つまり半分冗談で怒る少女の声がする。
「はいはい、今行くよ!」
叫び返して目を覚まし、寝室を出て階段を降りる。
「おはよう。」
食卓に並べられた昼食と座っている少女を横目に洗面所へ行って顔を洗う。それから黙って食卓に付くと少女は無言で食事を始める。この際だから訊きたい事を訊いてしまおう。
「どうしてお前はずっとそんな態度なんだ?」
「突然どうしたのですか。そんな態度とは?あなたが起きるのが遅いからですよ。一体何十分声をかけ続けたと思っているのですか。」
「そうじゃなくて、言葉遣いとか。」
「言葉遣い……ですか?」
「ほら、そういうの。何か距離があるっていうか、もうちょっと親しみある感じでも良いんじゃないかなーって思うんだけど。」
「十分親しみがあるじゃないですか。例えば文字で書けば伝わりにくいかもしれません。けれど私はこうして話している。あなたは私の表情と声のトーンからそれを察さなければなりませんよ。」
そう話す少女は微かに笑っているようで、声は跳ねるようだった。
「ああ、そうか。」
納得したようなそうでもないような、中途半端な心持ちで昼食を終えて食器を台所へ片付けて水を張る。
「そういえば、どうですか?」
突然少女が話しかけてくる。
「どうって…何が。」
「ここでの生活は。もうすっかり慣れたように見えますけど。」
「ああ、慣れてきたな。と言っても家が違うだけで基本的には変わらないしな。」
「そう言われればそうでした。東洋の小さな…"イポーミヤ"でしたっけ?あそこみたいにお風呂を入れ替えないで全員入るだとか、2本の木の枝で食事を掴むという事もありませんしね。」
「"ヤポーニヤ"の事か?まあ確かに変わっているとは思うが、外国なんてどこへ行っても訳が分からないものだろう。」
「行った事はありませんがね。」
「ああ、それは俺もだ。空の食器貰うぞ。」
今ではすっかり手慣れたもので、前にはした事もなかった家事もそれなりに出来るようになった。洗濯と料理は彼女が、食器洗いは私が。掃除は特に分担はせず、気になるところがあったら小まめに掃除するといった具合に規則を定めて上手くやっている。
そうこうしている内に彼女も食事を終えた。
「どうします?散歩でも行きましょうか?」
「いや、ここら辺は歩き尽くしたしなぁ。家でゆっくりしてようかと思っているのだが。」
「今日は雪ですよ。」
くすっと笑って窓の方をちらと見る少女。カーテンが閉まっているので外は見えないが確かに言われてみればそんな気がして、ふと窓辺へと歩いて向かう。
と、背後から飛び付かれる。
「おいおい、何するんだよ?」
「予想外に驚きませんでした。その事に驚きです。なんて。」
「何言ってるんだ、お前は……。」
えへへと笑う少女。その顔が私の肩の上にある。少女が呼吸をするたび、暖かい吐息が耳をくすぐる。細かな息遣いまで、手に取るように分かるようだ。
心臓が早鐘を打ち始める。呼吸が乱れる。この間と同じだ。私は何を感じているのだろうか。危険か、単なる身体の不調か、はたまた……
「どうしました?」
背中に乗っかったまま彼女は心配そうに私の顔を見る。
「あ、ああ。だいじょ……」
"大丈夫"と言おうと不意に彼女の方へ顔を向けると、文字通り目と鼻の先に彼女の顔があった。
お互いその距離で視線を合わせたまま息を飲んだ。彼女も息を吸い込んだままだ。驚きに見開かれたその瞳はやはり美しく、吸い込まれてしまいそうな、澄んだ深い碧色だった。
少女がゆっくりと息を吐くのに合わせるように、私もゆっくりと息を吐く。そうして彼女は瞼を閉じた。
私の頭は混乱していた。少女が真っ白な肌であるが故、その頬がうっすら紅潮しているのが安易に分かる。
どうしよう
どうしよう
頭では分かっているのだろうが、その肝心の頭が状況を理解出来ていなかった。
「あは……あははは……。」
私は遂に情けなく笑い出した。
「何がおかしいんですか!」
少女は慌てて目を開けて急に背中から飛び降りた後で私の正面に回ってぷくっと少しだけ頬を膨らませて見せた。
膨らまされたその頬は先ほどに増して紅く染まっていて、よくよく見れば耳まで真っ赤だった。
「いや、どうしていいか分からなくて。お前が急に黙るから。」
「それは……とにかく!いいんです!」
少女はそう言って後ろを向いて部屋へ戻って行った。
結局雪など降っていなかった。ただの勘違いか、からかっただけか、そんな事を考えている内に日は既に傾こうとしていた。
「ちょっと散歩行ってくるぞー!」
部屋まで聞こえるように大声で叫ぶ。
「待って!待ってください!」
少女の部屋のドアが勢いよく開き、ドアが壁に叩きつけられて大きな音を出す。
「何かあるのか?」
「私もご一緒します。」
「ああ、構わないが。出るなら早く準備しろよ。」
「はーい。着替えますからちょっとお待ちを。」
そう言って再び部屋に飛び込み勢いよくドアを閉める。普段からこれだったら恐らくあのドアの寿命はそう長くないだろう。
「はい、はいはい!行きましょう!」
「お前、驚くほど上機嫌だな。」
「そうですかね?」
そう言いつつ鼻歌を歌い始める少女。これは明らかに機嫌が良いが、何があったのだろうか。
「とにかく行きましょうか。」
「ああ、どうしようか。俺はその辺を適当に歩いて終わろうと思っていたんだが。」
「それで構いませんよ。あ、やっぱり晩ご飯のお買い物しましょう!一緒に!」
「分かった、分かったからその手を離すんだ!こら、くすぐるなーっ!お前は子供か!」
「あなただって子供です。大人になったら出来ない事が山ほどあるんですからね。」
急に真剣な面持ちになって説教される。どうして彼女はこうも気分屋というか、マイペースというか。
「早く来ないと置いて行きますよ!」
「はいはい。待ってくれよ。」
そう言って彼女は駆け出し、結局私は彼女の買い物に付き合う事になった。良い散歩にはなったが、私が引っ張られているのは何故だろうと始終考えていた。もともと私が連れてゆくという話だったのに、これは間逆だ。
散歩という名の買い物を終えて家に帰る。
「ただいま。」
「おかえりなさい、ただいまー。」
「おかえり。」
いつもの挨拶をする。一緒に帰って来た時はいつもこうだ。学校から帰るのは何故かいつも彼女の方が遅いから私はおかえり専門となりつつあるのだが、こうして彼女におかえりなさいと出迎えてもらえると何だか心に暖かいものを感じる。
「晩御飯、すぐに作りましょうか?」
「そうだな、今日はそれでもう寝ようか。」
何となく過ごす休日。それでも何故だか実家にいた頃よりも居心地が良いし、満足感がある。何が私に満足感を与えているかは何となく見当がつくが、まだ断定しない事にした。きっと私の彼女に対する想いはそれなりにある。彼女を意識すると身体が言う事を聞かないし、呼吸だってまともに出来ない。大げさかもしれないが、大げさじゃない。その言葉の通り、呼吸もまともに出来なくなる。
もしかしたらただ緊張しているだけかもしれない。家主である彼女に気を遣って、肩身の狭い思いをしているだけなのかもしれない。
「ご飯、出来ましたよー。」
エプロン姿の彼女がキッチンから振り返ってこちらを向く光景もこれまで毎日見ているがどうしても慣れない。彼女ばかりが異様に輝いて見える。それだから、私は必要以上に彼女を意識してしまう。
「分かった、ありがとう。」
「食器を運んでくれませんか?」
「ああ、悪い悪い。」
いつも通りに準備をして、いつも通りに食事をして、いつも通りに片付ける。そうしてきっといつも通りに風呂に入って、いつも通りに寝るんだろう。そう思っていた矢先だった。
「あの、お風呂……。」
「先に入ればいい。どうした?」
「その、もしあなたが嫌でなければ、あの……その……。」
明らかにまごついている。何かやはり私がいては困る理由があるのだろうか。だが、“あなたが嫌でなければ”?何か噛み合っていない。私の思考は彼女と噛み合わないのだろうか。
と、いくら考えてもわからないものはわからない。
「何だ?」
「いえ、いえ、やっぱり何でもありません!先入っちゃいますね!」
「あ、ああ。」
少女は風呂場へと飛び込んで行った。どうも様子がおかしい。何かあったのだろうか。
それから少しして、風呂場から呼ばれた気がして私は風呂場へ向かった。
「どうしたー?」
「ああ、聞こえましたか。よかったぁ、シャンプーを取ってください。」
「あ、これか。じゃあこの辺に置いておくぞー。」
「ええ、ありがとうございます。」
扉の前にシャンプーを置いてからふとその横の髪飾りに目が行く。流れ星を模した鉄製の髪飾り。そういえば私は彼女がこれを着けているのを最近は見ていない。
それどころか最初に彼女と出会ったあの日ですらも、彼女がこの髪飾りを着けているのを見ていないのだ。これはお守りか何かだろうか。
そうして私が髪飾りを見ていると、何かが擦れながら滑るような音とともに背景の色が急に変わる。先ほどまで摺りガラスだったのが急に明確になって、真っ白いタイルの上に肌色の――
そこまで考えられれば十分だった。何が起こったかは容易に想像がつく。
少女が声にならない声を上げたと思った次の瞬間、私は頭に何かとても重いものがぶつけられたような感覚とともに意識を失った。