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C.D.V-M.R|O  作者: フーデリッヒ・シュタイナー
CAPUT I : Initium dilectionis
7/12

Novum vitae

 失われていた身体の感覚が徐々に戻ってくる。

 全身に染み渡るような暖かさを感じながらもゆっくりと目を開けると、低い空に薄墨色の暮色が漂っているのが視界一面に広がっている。

 私は少ししてからそれが空であることに気付いて、僅かに上体を起こしてみると正面には重厚感のある鉄製の扉。


「ここは…」


 他でもない、学校の屋上だ。しかし何故私はこんなところに寝転がっているのだろうか。

 と、不気味に軋む鉄製の扉の音が重く苦しかった静寂を破壊する。闇の中から人が姿を現す。


「あっ…」


 あの少女だ。

 少女は私を見るなり鷹に睨まれた雀のように硬直して小さな悲鳴のような声を漏らして動かなくなった。

 まるで世界の時間が止まったかのような錯覚が私を襲う。

 だが、そんな錯覚を打ち消すかのように少女の瞳から頬を伝って一筋の光が滴った。

 少女の肌を離れた水滴は淡い夕陽の紅色の光を散乱させながら重力に引かれて冷たいコンクリート製の床に衝突して弾けた。

 その一滴を皮切りにして少女の瞳からは止めどなく涙が零れては落ち、いつしか少女は堰を切ったように泣き咽んでいた。

 身を震わせて慟哭するその姿を見て、私は何もしてやれない自分の無力さにただただ唇を噛むだけだった。

 風が吹けば波に打ち消される砂浜の文字のように消えそうな、弱々しく、脆く、儚い。

 そんな少女の泣く様を前にして、私は何もしてやれない。手を差し伸べる事すら出来ない。

 私はひたすらに自問する。私は何故、何も出来ないか。

 だが、気付けば少女も泣き止み、僅かに腫れた目でこちらを見詰めていた。私は何だか胸が苦しくなって目を逸らす。


「どうして。」

 絞り出された声。私は聞き覚えのあるその言葉に、記憶の通りの返答をしていた。


「ん?」


 いけない、これでは、ダメだ。


「どうして貴方は、分かってくれないの。」


 再び泣きそうになりながら少女は必死で訴えかけている。私はそれを視界の端に留めながらもかける言葉を探していたが、続けて少女は振り返りながら私に向けて言葉を吐き捨てた。


「何で…どうして、ねえ、どうして貴方は!」


 そうして私が伸ばした手もついには届かず、少女は鋼鉄の扉を開けた先、闇の中へと消えていった。

 またあの時と一緒だ。だが、私は目覚めない。まさかこれが現実なのか。

 少女が私から離れてゆく。私は彼女と知り合ってまだ数週間だ。それまで彼女がいなくても、彼女を知らずとも生きてこれた。何の問題も無く、現に生きている。

 そんな事を考えていると突如夕景が天頂から崩壊を始める。

 地へ墜ちる赤黄色の破片が降り注ぐ中、徐々に姿を表すのは夜闇ではなく、完全な闇だった。

 私は自分の姿すら確認出来なくなり、恐怖で身体は硬直し、身動きが取れないままでいた。

 冷えゆく身体。私の生命の灯は風に吹かれ、今にも消えようとしていた。私はこのまま死ぬのだろうか、だが、それも悪くないかもしれない。

 そう思って私は目を閉じた。

 しかし、私は死ななかった。再び目を開ければそこには木の板、天井があった。

 そうだ、きっとここは病院だ。あの時にした車の音は幻聴などではなくて、凍えていた私に誰かが気付いてくれたんだ。

 そう思ってから周囲を確認しようと上体を起こして部屋を見回してからはじめてここが病院でない事を知った。


「何だ…これ…。」


 落ち着いた雰囲気の部屋ではあったが、これは本当に部屋だ。病室などではなく、誰かの家の部屋だ。

 生活感溢れる空間に自分がいる事に一瞬驚いてしまったが、まずは自分の頬をつねってみる。


「痛い。」


 これは夢ではない。まずそれを確認する事が第一であった。となるとここは恐らく車を止めてくれた人の家であろう。もしもそうであるならば長居は無用だ。礼を告げて早く家に帰らないといけない。

 そう思ってベッドから降りようとした瞬間に部屋の扉が開いた。その奥から出てきた人物を見て私はまだ夢の中にいるのではないかと疑った。


「あれ、起きていたのですか。」

「お前…。」


 あの少女だった。


「怪我などは無いようですが、どこか痛んだりしますか?」


 少女は私を心配しているかのような言葉を放っている割には素っ気なく言い放った。


「痛みはしないが、まだ少し現実味がしない。」

「現実味も何も、これは現実ですよ。」

「そうか…しかし何故私が君の家に?」

「貴方、何の考えもなしに家を飛び出して保護されたのですよ。その後医療機関に運ばれて検査を受け、何も異常が無いと診断された所まではよかったのですが、両親が貴方の受け入れを拒否したのです。それで、その時に少し具合が悪くなって病院へ行っていた私が貴方の両親に許可を取って手続きをしてここまで運んでもらった、という訳です。」


 少女の感情の込められていない説明を聞いて思い出した。そう言えば、私は家を飛び出したんだった。危うく再び同じ事を繰り返す所だった。


「そうか、ありがとう。」

「いいえ、どういたしまして。」


 その後しばらく沈黙が場を制していたが、少女が再び口を開いた。


「それで、いつ頃お帰りになります?」

「ああ、悪かった。すぐに帰る。」

「ですが貴方の親御さん、受け入れてくれますかね。」

「…頼みがある。」

「はい、何でしょう。」

「お前の親、いるか。」

「あら、お話していませんでしたか。」


 少女は持っていたトレーを足元に置いて扉を閉めてゆっくりと私のベッドの側へと歩いて来た。

 そしてそのままベッドの横にある椅子に腰掛け、私の目を真っ直ぐ見て言った。


「私の両親は、とっくの昔に死んでいますよ。」

 私は言葉を失った。


「なので私に話してください。それとも私には話せませんか?」

「いや、悪かった。」

「いいですよ。」


 その言葉を聞いて私は改めて少女の方を向いた。


「それで、頼みなんだが…その、もしも俺が親に追い出されたら、もう少しだけここに泊めてもらっても、いいか…?」

「ええ、構いません。」


 またも素っ気ない返事。私はそれだけ受け取って家へと向かおうとしたが、現在位置が分からない。このままでは再び迷いかねない。


「悪いな。ありがとう。ところでここはどこだ?」

「家を出て左折、直進すれば恐らく覚えのある通りに出るでしょう。記憶でも失っていなければ帰れるはずです。」

「分かった。ありがとう。世話になったな。」

「いえ。どうせすぐ戻って来ることになりますから。」


 少女が何か訳の分からない事を言っていたが、とにかく私は家へと帰らなければならない。

 少女の家を出て左折して直進してみれば確かに覚えのある大通りに出た。ここは私が通学に使っている通りだ。恐らく学校が左側なので、まずは学校へと歩く事にした。

 それから30分程歩いて、ようやく自宅へとたどり着いた。恐る恐る玄関の戸を叩く。


「はい。」

 扉の向こうから父親の声がした。


「えっと…父さん?」

「何だ、お前か。俺はもうお前の親父じゃない。もう二度と帰ってくるな。」

「そんな事言って、俺に野垂れ死ねってのかよ!」

「ああそうだ。お前が生きる努力をしなければお前はその辺で飢えて死ぬだろうな。それか犯罪でも犯して刑務所で養ってもらうか。それも悪くない。」

「何言ってるんだよ、狂っちまったのか?」

「狂ってなどいない。他人を養うほどうちに余裕はないし、そんな義理もない。」

「他人って何だよ、俺は…俺は他人かよ!」

「何度言わせる。お前はもう他人だ。分かったらとっとと立ち退け。さもなくば不法侵入と見做してお前を射殺する。」

「ああいいさ、出来るもんならやってみろよ!」


 私が叫んだ直後、扉の鍵が開いた音と共に家の中へと消えてゆく足音が聞こえた。


「ふふ、流石に実の息子を見殺しにするだなんて出来るはずもないもんな。」


 僅かな安堵感を得た私は扉を開けて家へと入った。

 重い空気を掻き分けるように玄関からリビング・ルームに入った途端、奥の部屋から散弾銃を持った父親が出てきて無言で銃口をこちらへ向けた。


「おい、おい待て、待ってくれ!」

「待つものか。他人の家にずけずけと入り込んで来やがって!」

 そう言うと父親は私の足元に向けてその散弾銃を向け直して引き金を引く。

 それとほぼ同時にバックショットから幾十というペレットが飛び出し私の足元に着弾する。


「親父っ…俺を殺す気か!」

「次は殺す。」


 そう言って私の眉間に銃口を向けている父親の血走った目を見て私は即座に家を飛び出した。


「あいつ…使うとしてもバードボムか最悪ビーンバッグか岩塩弾やXREP弾だろう…よりによって殺傷能力のある弾を使うだなんて…本当に俺を殺す気だったな…。」


 一人文句を言いながら少女の家へと向かう。

 こうして歩いてみると大通りから一本入っただけの場所なのにも関わらず彼女の家の建っている場所はまるで社会から排除された場所のようにひっそりとしていた。

 扉の前に立ち、ノックをするとすぐに扉が開いて少女が姿を現した。


「やっぱりダメでしたか。」

「ああ、悪いな。家賃はいくらか払うから、少しの間泊めてくれ。」

「いえ、結構ですよ。国からそれなりの額の手当を貰っているので、家の補修維持をしつつ不自由なく3人程度なら生活出来るくらいの余裕はありますので。」

「それでも…」

「気にしないで下さい。どうぞ。」

「あ、ああ。」


 そう言って家の中へと入っていく少女に続く。

 廊下を進み、リビングまで入ってみれば家の中は意外と広く、古めかしい装飾の施された家具、壁や床、照明や小物の一つひとつまでもが、まるでこの家だけが時間の流れに取り残されているかのように美しさを保っていた。


「本当にお前一人で住んでいるのか?」

「はい、そうですよ。」


 少女はリビングルームで立ち往生している私を気にも留めずにどこかへ行ってしまったが、声だけは聞こえる。


「良い家だな。このペチカなんてまるで一度も使われた事が無いみたいだ。」

「あ、ペチカ。今火を入れますね。」

「いやいや、少し肌寒いがそれほどじゃない。構わないぞ。」

「そうですか。なら私は晩御飯の用意をしますね。今朝から何も食べていないでしょう。」

「あ、ああ。ありがとう。」


 少女の言葉の一つ一つには思いやりがあるのだが、何しろ言い方には感情も何もあったものじゃない。

 まるで思いやる事をプログラムされた機械と話しているようだ。彼女の姿が見えない今、私は本当に思いやる機械と話しているのではないかと少しだけ不安になった。


「このテーブル、座っても?」

「はい、ご自由にどうぞ。」


 少し奥まった所にあるダイニングの椅子の一つを引き、腰掛ける。

 傾いた陽がダイニングに射し込む。西側の壁一面が窓になっているので照明がいらないと思う程の明るさがある。

 木製のテーブルはグジェリ模様のテーブルクロスが掛けられ、その上にホフロマ塗りのシュガーポッドの影が伸びている。後ろの棚にはベレスタや色とりどりのマトリョーシカ人形が行儀よく並んでいた。恐らく何代にも渡ってこの家に住んでいたのだろう。


「家の中を見て回っても、いいか?」

「階段を上がって突き当たった部屋は寝室、隣が屋根裏部屋という名の物置です。玄関から入って右の最初の扉がお風呂、反対がお手洗い、その先が…」


 ひと通り部屋の説明を聞いて私は一つだけ疑問に思う点があった。


「それは分かった。ところで私はどこで寝るんだ?」

「寝室が2階に。」

「じゃあ、お前は。」

「寝室で。」

「あ、ああ。そうか。」


 私はてっきりベッドが余っているのだと思って2階へと上がって突き当りに入ってみたが、部屋の扉を開けて、倒れていた私が保護され、目が覚めた時の記憶が蘇った。

 この部屋にベッドは一つ、しかもシングルのものしか無い。だが運がいい。ここの絨毯は柔らかい。幸い上着やサバイバル用の道具も一式持ってきたので寝袋で寝るにしてもそれなりに良い環境であろう。

 しばらく家を見学してからダイニングに戻り、椅子に座って少し待つと料理が食卓に並べられた。まるでレストランで料理を振る舞われているのかと思う程の出来栄えに私は目を見張った。


「どうぞ、召し上がってください。」

「ああ…ありがとう。」


 恐る恐る最も手前にあるサラート・スタリーチヌィを口に運んでみる。

 よく咀嚼し、飲み込んで、私が発する事ができる言葉はたった一言だった。


「美味い…」

「それはよかったです。」


 その後私は無言で夢中になって料理を食べた。朝から何も食べていなかった空腹と、あまりの料理の美味しさのせいで気付けばあっという間に完食していた。


「美味かった。」

「それはそれは。」


 少女も私とほぼ一緒に食べ終わり、立ち上がって食器を片付けようとしていた。


「ああ、食器は洗っておくよ。」

「そうですか、すみません。では私は先にお風呂に入っていますね。」


 そう言うと少女は手に持っていた食器を流し台に置き、そそくさと風呂場へと向かった。

 私は少女が完全に風呂場へ入るのを見届けてすぐに食器を洗い、持ってきた寝袋と荷物を物置と言った割に何一つ置かれていない、窓もなく篭った空気が漂う暗黒の屋根裏部屋に持ち込んでそのままの勢いで眠ったのだった。

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