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C.D.V-M.R|O  作者: フーデリッヒ・シュタイナー
CAPUT I : Initium dilectionis
5/12

excepto quod non est exceptio

朝の光が窓から射し込んでいる。重い瞼を手で擦りながら上体を起こしてベッドの横の目覚まし時計に目をやると、短針は6を指していた。朝が来た。私は心底安堵して、その安心感からか危うく再び寝そうになった。


 昨日、結局あの時の光が何だったかは分からない。あの後私は慌てて校舎内に転がり込み、階段を駆け降りてそのままの勢いで家まで帰ったのである。未知の恐怖とはあのことだ。


しかし今、私が考えるべきはあの光の事ではなくて私が学校へ行かなくてはならないという事なのだ。そう自分に言い聞かせて寝巻きを乱雑に脱ぎ捨て、制服に着替えて家を飛び出す。


学校へと向かう途中、ふと昨日少女が去り際に見せた表情が脳裏に浮かぶ。

 その瞳には非難の色と、その他に何か―それが一体何かは見当もつかないが―別の色が隠れていたように思える。穏やかで、優しく、暖かい、何かが。


そんな取り留めもない事ばかりを考えながらいつものように校門から入って校舎へと進んで靴を履き替えてから階段を上がっていると視界の端に見覚えのある顔が現れて消えた。

心拍が警鐘を鳴らすように早まるのが分かる。いや、違う。これは警鐘ではない。ならばこれは一体何だろうか。この胸が高鳴るのは一体何のためだろう。

 私は思索を巡らせてみるも結局何一つとして納得のいく答えは浮かばず、気づけば歩みは段々と早まり、いつしか私は走り出していた。

 教室のあるフロアに着き、角を曲がって廊下を眺める。しかしそこに溢れる見覚えのある顔の中に私の探すものはなかった。

 荒げた呼吸を整えながら廊下の突き当たりまでゆっくりと歩きながら全ての教室を覗いてみるが、いない。


 慌てて折り返してみると、私の隣のクラス、その教室の隅の席に、いた。

 固まって話している集団の影になって見えなかったのだろう。ひっそりと、まるで幽霊のようにしてそこに彼女はいた。

 一瞬目が合ったが、私の方からすぐに目を逸らして自分の教室へと戻った。



 それからというもの、私は校内で彼女をよく見かけるようになったが、自然と彼女も私も目を合わせようとはしないし、気のせいかお互いがお互いを避けるようになっていた気がした。

 屋上で彼女の姿を見る事はもうなく、そこは昔の通りになったというのに何かが足りない。まるで空間に穴が開いたような感覚を覚えた。

 何故だろう。"exception(例外)"は排除されたというのに。今となってはこの光景こそが"exception(異常)"だった。



 それからしばらくして、私は彼女のいない生活に再び慣れていた。

 目覚め、登校し、授業を受け、屋上で考え事をして、帰宅して、眠る。そんな単調な毎日を繰り返しているうちに、私はまるで緩んだギターの弦のように、まともな音が出せなくなっていた。というよりはまともな音を出そうとする事もなくなったし、まともな音を出す必要もなくなったのだ。


 だが、そんな事を言っている余裕すらなくなってしまった。今日は遂に進路決定の時だ。

 私はこれまで様々な理由をつけて希望進路を二転三転としてきたが、この進路決定では私にはもう逃げ場はない。ここで自分の将来を決めなくてはいけない。私は一日中考えていたが、とりあえず私に希望を問う担任に対して少し待てとだけただ一言、投げ捨てるようにしてからそそくさと教室を後にして、私は屋上へと逃げた。


「どう、しようか。」

 考えた所で思考が何度も何度も同じ所を回り始めたので言葉にしてみたものの、何も変わらない。


「どうしよう…か。」

 もう一度、言ってみる。


「どう…」

 突然、私は睡魔に襲われた。きっと疲れていたのだろう。私は抗う事もせず、静かに目を閉じて今まさに私を覆おうとしている世界へと身を預けた―――








―――ここは、どこだろう。―――



 一度は失われた身体の全ての感覚が少しずつ、少しずつ戻ってくる。


 指先…掌…手首…前腕…腕全体…心臓が再び動き出す。一度、二度、三度。心臓が脈打つ度に血液は動脈を通じて私の身体の存在を確立させてゆく。ゆっくりと、暗闇の中、私は徐々に光を取り戻す。静脈を通って心臓へと還るその血は私の肢体の情報を持ち帰ってくれた。

 感覚が帰ってくる。聴覚、嗅覚、痛覚、触覚。私の背中は不思議と暖かく、比べて腹面は異様なまでに冷たい。

 気のせいか少し息苦しくなって、意識的に息を吸う。それまで無意識でしていた事も、一度は意識しなくては出来ない。肺が新鮮な空気で満たされて膨張する。細胞のひとつひとつが息を吹き返し、忙しく活動を始める。



 ああ、私は生きている。



 そうしてまた意識的に溜め息混じりに篭り切った空気を吐き出す。

 ふと、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。しかしあまりに眩しくて目を細めないといけない気がした。

 霞がかった世界が少しずつその姿を露わにする。目が慣れて、完全に視覚を取り戻した瞬間に私を囲んでいた摺り硝子が割れた。


「ここ、は…」


 私は夕陽に紅く染められた見慣れた学校の屋上に立っていた。別段何をしているでもなく、ただただ呆然と立ち尽くしていた。

 ふと床に視線を向けるとそこには影法師が私と同じように立ち尽くしていた。

 だが、それが私一人のものでない事が分かった瞬間、最初よりも強く感じられる背中全体の暖かさと背後から私の腹の前に回されている腕の存在に気付く。

 誰かが私を背後から抱き締めているのだ。肌の触れ合った部分がこの制服の薄いシャツを通してでも分かる。


「行か…ないで…」


 上擦った少女の声。この子は泣いているのだろうか。

 その声が脳へと伝わった途端、私の心臓はまるで跳ね上がるかのように強く打つ。高まる感情。背中から伝わる熱が脳へと向かい、そのせいで自分の頭が混乱しているのが分かる。

 私を抱き締めている腕の力が強まり、少女の身体の細かな震えや心音までもが伝わってくる。もしかすると少女の思考までもが伝わるのではないかと思うほどに私達は密着していた。


 そのまま時は流れ、太陽は地平線の彼方へとその姿を隠し、それを待ちあぐんでいたかのように弱々しく光を放つ月の姿が夜闇に際立つ。夜が来たのだ。

 それでも少女は一向に私を離そうとはせず、私も別段何をする訳でもなかった。

 と、少女が再び口を開く。


「どうして。」

「ん…?」

「どうして貴方は、分かってくれないの。」

「…」

「何で…どうして、ねえ、どうして貴方は!」


 静寂の内にいてさえ闇の中へと消えそうだった少女の声はやがて耳を劈かんとするような叫び声へと変わる。

 少女の感情が昂ぶってゆくのが手に取るように分かる。

 一体何に対して癇癪を起こしているのか、私には見当もつかなかった。


 少しの間があって、乱した息を整えながら少女は私から離れようとする。手の力が緩められ、私の脇を抜けようとする。

 あの時のように。


私はその手を―







「――っ!?」


 私の身体が小さく跳ねる。瞼が重い。陽は傾きかけていて、少しだけ紅くなった陽光。散乱されてほんの少しだけ孤独に近づいた光からは物哀しさすらも感じられた。

 "exception(例外)"が存在しないという"exception(異常)"。

 一瞬間、私はここが夢の延長線上ではないかと考えたが、すぐにそれは否定された。

 よくよく考えれば先程は闇の中にいたのだ。だが、夢の始まりは夕刻だった。これから再び夢が始まるのだろうか。

 それを確かめる意味もあって、私は重い腰を上げて立ち上がり、足速に校舎へと入った。


「君、今までどこで何をしていた。」


 教室に戻ると担任が席に座っていた。私が飛び出した時と姿勢ひとつ変えずに、視線だけを私に向けて問う。


「いえ、ちょっと。」

「まあ何でもよい。決まったのか。」

「…はい。」

「その目は、決まったんだな。」

「軍人に、なります。」


 その言葉を聞いた瞬間、担任の目に呆れとも取れるような色が映った。

 だがしかし、すぐにその老いぼれは厳しい目つきになって言った。


「君のその目は本気だ。私は止めない。分かった。親御さんには話したのか。」

「まだ、です。」

「そうか。反対されなければいいな。だが君が頼み込んで駄目だった時には、私からも言おう。だからひとつだけ聞かせてくれ。」

「何ですか?」

「覚悟はあるか。」

「っ…」


 威圧。見えない何かが私を捉えた。私の足は石像のように固まり、目は見開かれ、視線を逸らす事が出来ない。言葉を発するにも口は堅く閉ざされて、しかし震えて上手くできない。私はようやっとの事で小さく口を開いて、肺から送られた呼気を声帯によって声として発した。


「あ…り…ます…」

 その声は震えていて、とても力弱く、か細い。


「もう一度聞く。君には誰かを守るために命を捨てる覚悟があるか。」


 その言葉は耳を通るなり私の脳を強打した。

 私は、そうだ。彼女を守らなくてはならない。今は関係の無い話かもしれないが、命を投げ打ってでも彼女だけは守りたい。何故こんな事を考えるのかまったく分からないが、その気持ちだけは確かなものだった。


「あります。」

「そうか。」


 担任はその言葉を聞いて安心したかのように深い溜息をついた。


「ならいいんだ。今の言葉、忘れるなよ。」

「言われなくても。」


 私は適当に答えて教室を後にした。少女の姿は今日もない。私は何故あんな事を思ったのか。全く見当がつかない。

 だが、私が今懸念すべきはそんな事ではなく、親にこの事を話さなくてはならない事だ。

 憂鬱に苛まれながらも私は帰途に就くのであった。

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