救いの手8
ディリーアはまどろみの中にいた。
横になり目を閉じると、地主の奴隷として働いていた頃の、貧しくても幸せな日々が思い出された。
父がいて、母がいて、兄や同じ奴隷の仲間がいる。
それだけで彼女はなにもいらなかった。
それが彼女の世界のすべてだった。
そして目を覚ますと、決まって虚しい気持ちに胸を苛まれた。
その日も同じだった。
直前まで幸せな夢の中にいた彼女は、松明のはぜる音で目を覚ました。
夢はあぶくのようにはじけて消え、後にはどうしようもない空虚な気持ちだけが取り残される。
ディリーアは起きあがり、何度か頭を振って壁にもたれかかった。
光の差し込まない地下牢では、はっきりした時刻はわからない。
しかし牢番の兵士の巡回や交代を見れば、おおよその時刻はディリーアにも見当が付いた。
その日に限って、牢番が昼過ぎから酒盛りを始め、ずっと今まで牢番が巡回や交代をしたことはなかった。
そのためいまが夜のどれほどの時刻なのか、ディリーアには知ることが出来なかった。
時間がわからなくても、ディリーアは一刻一刻と自分の処刑の時が近づいているのは感じていた。
次に牢番が牢屋の前に立つときは、きっと自分が処刑される時だろう。
ディリーアは石壁に背中を預けたまま、両膝を抱える。
悲しいような、苦しいような、胸の奥が鈍く痛む。
死ぬのが怖いと言ったら嘘になるが、クロフにあんなことを言った手前、ディリーアは自分の死を前にして取り乱すようなことはしたくなかった。
森にいるときから、クロフと出会う以前から、奴隷として逃げ、追っ手を手にかけた時から、こうなることは予想が付いていた。
自分の姿が大蛇に変わり、水の女神としての記憶が戻ったときから、ずっと人を殺す罪の意識に苛まれてきた。
――もう人は殺したくない。生き物を傷つけたくない。
彼女の切実な思いとは裏腹に、森へ来る人間は後を絶たなかった。
大蛇になったディリーアは、何とか人間達を森へ来ないよう説得しようとした。
だが、彼女の声は彼らに届かない。
言葉は通じても、彼らは大蛇が威嚇する鋭いうなり声にしか受け取らなかったのだ。
彼女はいつしか絶望し、生き物すべてを憎むようになっていった。
あるいは天上での月の神との一件が、彼女の心に影響を与えていたのかも知れない。
どちらにしても、彼女の水の女神としての力が災いし、森の木々は暗い木陰を作り、他の生き物を拒絶するかのように枝を生い茂らせ、周りの農地を沼地へと変えていった。
近くに住んでいた村の人々は土地を捨て、住み慣れた土地を後にした。
昔のような緑溢れ、羊や牛がのんびりと草をはむ光景は失われた。
彼女はそれでもかまわないと思っていた。
それも仕方がないと思っていた。
そう、クロフと出会うまでは。
クロフは今までに森を訪れた人間達とは違っていた。
火の神の生まれ変わりであるからかも知れないが、ディリーアの命を奪うことなく、沼地を元のような豊かな土地に戻そうとしたのだ。
ディリーアは鏡のようになめらかな湖面に空を映し、岸辺を見ながらクロフのことを考えるようになった。
空行く渡り鳥を呼び止めては、クロフのことをつぶさに尋ねるようになった。
数日おきに森を訪ねてくるクロフと話し、美しい竪琴の調べを聞いているうちに、ディリーアの中にあった凍てついた氷がゆっくりと溶けていった。
何かクロフの手助けをしてやりたい。
いつしかディリーアは自然とそう思うようになっていた。
ディリーアは自分の死を恐ろしく感じたが、それ以上に自分が生き長らえることによって、クロフに迷惑がかかることが心苦しかった。
自分が処刑されることによって、クロフの立場が少しでも良くなるのなら、この命も無駄ではないと思うことが出来た。
今のディリーアにはそれで十分だった。
ディリーアは膝を抱えたまま、その中に顔を埋めた。
――これでいい。これ以上のことは望んではいけない。
ディリーアは胸の奥からわき上がる感情を必死に押し戻した。
堪えきれず、目頭に熱いものがこみ上げてくる。
――逃げてはいけない。逃げれば、彼に咎が及ぶ。
ディリーアは地主の元から逃げ出すとき、兄の言葉を思い出した。
奴隷達の中には、このまま地主のところに留まろうとする者達もいた。
その者達ははじめから諦めていた。
どうせ逃げ出せない。
捕まれば殺されるだけだと諦めていた。
兄はそんな者達を奮い立たせ、説得したのだ。
「このままここに残って死を選ぶか、新しい奴隷が入るのを待つか、おれならどちらの選択も選ばない。ほんのわずかな誇りを賭けて、逃げ出すことを選ぶ。おれ達全員が生き残れなくても、一人でも逃げのびる者がいて、無事に北の故郷にたどり着くことが出来たなら、仲間と共におれ達の亡骸を葬ってくれるのなら、おれはここで死んでも悔いは無い」
両親が死んでから、奴隷達をまとめていた兄は、その話を終えた後、悲しそうな目をして彼女の頭を優しく撫でてくれたのを覚えている。
ディリーアがもっと早く水の女神の記憶が残っていれば、もっと早くその力に気付いていれば、このような最悪な事態は起こらなかったかも知れない。
しかしすべては遅すぎたのだ。
ディリーアは声を殺して泣いた。
昔の感傷に浸って泣くなど見苦しいとは思ったが、きっと処刑の日に国民の衆目にさらされれば、涙の一滴も出てはこないだろう。
そのためだろうか。
ディリーアは牢屋の前に立った人影にすぐには気付かなかった。
「泣いているのですか?」
突然上から投げかけられた声に、ディリーアは驚いて顔を上げた。