救いの手16
遠吠えが近づいてくるのを感じ、クロフは後ろを振り返った。
月に照らされた丘の彼方に、猟犬と兵士達の乗る馬の影が見える。
クロフは腰に下げた剣を外し、その鞘を手に取った。
この剣にも靴や盾と同じように、神々の奇跡を起こす不思議な力があるのかもしれない。
クロフは馬の首にもたれかかり、浅い呼吸を繰り返すディリーアを見つめる。
しかしこの剣を手放してしまったら、もうディリーアを守ることが出来なくなってしまうような気がして、クロフはしばしためらった。
迷いを振り払うように軽く頭を振り、クロフは剣を後ろへと放り投げた。
剣は地面に転がり、かん高い金属音を立てて岩に当たった。
剣の落ちた場所からは、天を焦がすほどの炎が燃えさかり、白い煙を巻き上げた。
細かい火の粉が空に巻き上がり、夜の闇を明るく照らし出した。
クロフはそれを見届けると、前を向き馬の手綱を振るう。
後ろを振り返らず、馬を北へ向けて走らせ続けた。
「これで、良かったんだよな」
クロフは長いため息を吐き出す。
ふと馬の首に目を落とすと、そこにもたれかかっていたディリーアがうっすらとまぶたを開く。
青い瞳はぼんやりとクロフを見つめ、後方へと流れていく。
「ここは、馬の上か?」
ディリーアは頭を振って起きあがった。
「追っ手から、逃げているのか?」
遠くから猟犬の吠え声と馬のいななきが聞こえる。
ディリーアは白い顔でもの問いたげにクロフを見つめる。
クロフは小さくうなずいた。
「そうか」
ディリーアはクロフの肩に手を回し、体を支える。
「今度は、わたしが助ける番だな」
ディリーアはクロフの胸にもたれかかりながら、後ろに迫る兵士達を振り返った。
兵士達は炎の壁を前に立ち往生していた。
地面から立ち上る炎を前に、猟犬も馬も怖がって近づこうとしない。
そこで、また別の神官が兵士達の前に進み出た。
「わたしが炎を消してみせましょう」
神官は杖を構え、祈りの詩をつぶやいた。
ディリーアは走り続ける馬の上から、その様子を眺めていた。
「このままでは、まずいな」
ディリーアはクロフに寄りかかりながらぽつりとつぶやく。
クロフは苦しげに浅い息を繰り返しているディリーアを心配そうに見下ろす。
「あの神官に炎を消されたら、追いつかれてしまう。そうだろう?」
クロフは苦い顔でうなずいた。
ディリーアは走り続ける馬の上で乱れた黒髪をかき上げ、青い瞳でひたと神官を見据える。
白く細い腕を真っ直ぐ伸ばし、神官を指さす。
神官が杖を掲げ、祈りの言葉を唱えるのと同時に、ディリーアの唇からも同じつぶやきが漏れる。
「木漏れ日を受けて 揺らめく水面
白石に囲まれるは 命の泉
一度渦巻けば 木々を流し岩を砕き
うねる奔流となって 何をも留めるもの無し」
唱え終えたディリーアは神官が杖を振り下ろす前に、高らかに叫んだ。
「水よ、留まれ!」
炎の壁の前で杖を掲げていた神官は、神の奇跡が何も起こらないのを不思議に思った。
神官は首をひねり、もう一度同じ言葉をつぶやいた。
しかし水音一つ、雨粒一つ降ってこなかった。
そうしている間、クロフの乗る馬はいくつもの丘を越えていく。
兵士の一団も炎の壁も、何も見えなくなった頃、ディリーアはようやく伸ばしていた手を引っ込めた。
青い目は優しげに細められ、口元には笑みが浮かんでいる。
「後は、頼む」
ディリーアはそのままクロフの腕にもたれかかり、目を閉じる。
東の丘の向こうから、朝日が光を投げかけていた。