救いの手11
月明かりに照らされた屋根付きの回廊を走り抜けている間、クロフはどうしようも無い不安が胸の奥にわだかまっていた。
クロフはしきりに回廊の暗闇、茂みや下草の暗がりに目を落とす。
「おかしい」
クロフは走りながらぽつりとつぶやく。
春の祝祭を目前に控えているとはいえ、今までに警備の兵士誰一人ともすれ違わない。
それをクロフは不審に思ったのだ。
背後を走るディリーアも、先ほど奴隷達とのやり取り以来、ずっと黙り込んだままだ。
建物の影を曲がり、庭を通り抜ければ裏門にたどり着くと言うところで、クロフはその答えを知った。
裏門につながる小道のあちこちには、かがり火を焚いた警備の兵士達が大勢集まっている。
ゆうに百人はいる兵士を前に、クロフは苦笑いを浮かべ、背後に立つディリーアを振り返った。
ディリーアは暗い面持ちで両手を胸の前で固く握りしめている。
おもむろに顔を上げ、青く悲しげな瞳でクロフを見つめた。
「昔な、小さな奴隷の女の子がいたんだ。その女の子は、優しい両親や兄や仲間達に囲まれて、貧しくても幸せだった」
「何を」
クロフは言いかけたが、ディリーアの暗い表情に遮られた。
「ある時、女の子は仲間達と一緒に森へ逃げることにした。しかし多くの奴隷は殺され、兄も女の子の目の前で殺されてしまった。女の子は心を壊し、以来醜い化け物となって、人を襲うようになった」
ディリーアは目を伏せ、寂しげに笑う。
「と、途中まではどこの昔話にもありそうな話だな。この後王子様が現れて、その化け物を倒し、見事王女様と結ばれれば完璧だな」
おもむろにクロフの肩に手を置いて、ディリーアは顔を伏せた。
「あの老人との約束、忘れるなよ」
クロフはディリーアの言葉の意味を瞬時に判断した。
「何を考えている? まさか自分の首を彼らに差し出しに行くわけじゃないだろうな?」
ディリーアはうつむいたまま、つぶやく。
「さあな。だが、わたしの死によって彼らの心が癒えるのなら、何かが変わるのなら、それはそれで意味のあることかも知れない」
「違う!」
クロフは大声で言い放つ。
「それは違う。彼らは何も変わらない。それではただの無駄死にだ!」
クロフはディリーアの両肩をつかみ、激しく揺さぶった。
「ぼくはずっと見てきたんだ。民衆を導き、神々の教えを説くはずの神官達だって、目先の利益しか考えていない。彼らは自分の利益のために、ぼくと母を引き離し、殺したんだ!」
クロフの顔は怒りのために紅潮し、赤金色の瞳には怒りの炎が宿っている。
「くそっ!」
クロフはディリーアから、建物の壁を殴る。
ディリーアはそんなクロフを見て、うつむいたまま黙り込んでいた。
自分とは違った境遇で育ち、悩み苦しんでいるこの若者に、どんな慰めの言葉をかけてあげればいいのか思いつかなかった。
口から最初に出てきたのは、ディリーアが思ってもみない一言だった。
「危ない!」
ディリーアがクロフを突き飛ばすのと同時に、目の前で白刃がきらめいた。
数瞬遅れて、ディリーアの胸元を槍の一閃がひらめいた。
ディリーアはさっと身をひるがえし、炎が燃えさかる焚き火の方へ走っていく。
その後ろを槍を手にした数人の兵士が追いかけていく。
クロフはディリーアに突き飛ばされた姿勢のまま、建物の石壁にもたれかかっていた。
兵士達はクロフなど眼中にないかのように、少女の小さな背を追って走っていく。
「くそっ!」
遠ざかっていくディリーアの背を追いかけ、クロフは駆け出す。
「風よ。わが身に宿れ」
口の中でつぶやく。
兵士達との距離をわずか一瞬で縮め、彼らの頭上を軽々と飛び越える。
クロフはディリーアの背に必死に手を伸ばす。
その髪に指が触れるというところで、彼の背後から風切り音が響いてきた。
クロフはとっさに身を低くし、それをやり過ごした。
彼の頭上を風にも似た何かが通り過ぎていった。
振り返ると勝ち誇ったように笑みを浮かべる一人の兵士と目があった。
「うっ!」
女の低いうめき声に、クロフは視線を前に戻す。
前を走るディリーアの背からは細い白銀の槍が、夜空に向かって真っ直ぐ伸びている。
ディリーアの体は前のめりに倒れ、動かない。
クロフはディリーアのそばに駆け寄り、背中の槍を引き抜く。
うつぶせに倒れたディリーアの肩がかすかに動き、口元からは小さなうめきが漏れている。