人間が。
僕は街が嫌いだ。
人が集まる場所だから。
僕は部屋が嫌いだ。
一人になるのが怖いから。
君は人として大事なものを失ったようだけれど。
一つ質問させてもらおうかな。
まあ、答えられないのを知ってて質問するんだから、私の意地の悪さは多めに見てやってくだよ。
君は
人が好きなの?嫌いなの?
ある3月の夜だった。
新宿から山手線に乗り、北上していたなんでもない日常の1ページ。
午後の打ち合わせが長引いたため、幸か不幸か、いつもの混雑した車内からは想像もつかないほどにその列車は空いていた。
ぽつぽつと客席も空いている箇所が目につくほどだったし、それでも立っている人もまばらであったし、入口付近で普段なら迷惑そうにされるであろうサラリーマンが大開きで新聞を読んでいても、誰もとがめたり揉めたりする気配もない。
もちろんそのサラリーマンの隣も空席だ。
少し、といっても、1,2時間程度ではあるが、これだけ空いているのであれば、時間をずらして帰宅しようかと僕は思った。
空席があるにはあったが、それほど長い時間電車に揺られて過ごすわけでもなかったので、
なんとなく車両のドアから離れたところに立っていた。
額の汗をぬぐったバーバリーのハンカチがしっとりと濡れていた。
君は人間が嫌いかい?
聞き取れるか取れないか、ぎりぎりの声量ではあったが、そんな一言が走る電車の音の隙間を縫って僕の耳に届いた。
声を発したのは、ちょうど僕が立っていた電車の座席の目の前に座った女性だった。
君は人間が嫌いかい?
二度目の質問の時に、目があってしまった。
一度、二度であれば独り言として聞き流すこともできたが、思わず、なんだ?と気になって、目の前の女性を確認しようとして視線を下げてしまった。
ぱっちりとした瞳に薄いルージュを引き、セミロングの黒髪を下ろした女性。
会社の帰りだろうか、一般的なスーツ(少なくともブランドの見分けなど僕にはさっぱりだが)
のタイトスカートからストッキングを履いた足がすらりと伸びており、質素なハイヒールを揃えて綺麗に座っている。
その女性を改めてまじまじと見つめてしまった失礼を詫びようと思ったが、それよりも早く三度目の質問が来た。
君は人間が嫌いなのかい?
完璧に視線は僕を捉えて離さない。
僕は急で不躾な質問に面食らっており、どうにかならないものかと辺りを見回したものの、乗客は多いわけでもなく、彼女の両隣のイスもスペースを空けている。
電車のノイズにかき消されたのか、彼女の声に反応する人は辺りにはいなかった。
汗を拭ったハンカチをポケットにしまおうとしたときに、再び声をかけられた。
や、失礼。
ただ、汗をかいていたのが気になってね。
そうですか。別に人間が嫌いというわけではないです。
不快でしたらすみません。
や、構わないんだ。
ちょっと気になっただけだから。
君の体温は上昇傾向が見られない。
なので、緊張による冷や汗をかいているのかと思ってね。
だが、この車両は特に混んでいるわけでもない。
しかも今日は今の時間になっては寒いぐらいだ。
君は上着を着てはいるが、それほどの厚着には見えないし、緊張しているのかな、と思ってね。
席を譲ろうか?
結構です。
それほど遠くない駅で降りますし。
そうか、それならばいいんだ。
や、緊張しているのであれば、少しでもその緊張をほぐそうと思ったんだが、やはり初見の人が相手だと話をするだけで緊張するかね?
えっと、どうでしょう?
それほど気になってはいませんが。
や、君、腹式呼吸を意識したまえ。
精神疾患かな?あ、これは失礼。
答えたくなければ答えなくて構わないんだが。
そういって彼女は髪を手ぐしで解すように撫でた。
ちらりと目線をずらしはしたものの、会話を終える気はないようで、つまりは視線を僕から結局のところ外してはくれなかった。
いや、そんな、病気とかそういうのではないんです。
ちょっと汗かきなだけかもしれません。
ふむ、興味深いね。
僕の何が興味深いというのか、あご先に右手を当てながら、左手は髪を撫でるのに余念が無い。
この人の癖だろうか。
ところで、最初の質問にもどるのだが、君は人間が嫌いかね?
どう答えたものだろうかと逡巡し、なんとなく関わりたくないなぁなんて思っていたのだが、結局のところ自分の中で解答文を探している。お人好しと呼ばれる所以だろうか。
そうですね。
どちらかと言えば嫌いかもしれません。
ここで彼女の表情がこれほどまでに真剣なまなざしでなければ、冗談の一つでも言って笑って終にすることが出来たのだろうけども。
残念ながら(と言うべきかは各自の判断に任せたい)僕はそこまで空気の読めないわけではない。
真剣なまなざしを受けて、無駄に生真面目に返事をしてしまった。
まあ、難しい質問だったかもしれないね。
や、気にしないでくれ。
間もなく池袋、という車内アナウンスが車内に響く。
少なくともこの車両の中で話しているのは僕達だけのようで、無機質なアナウンスがやけに車内に響いた気がした。
アナウンス通り、電車が池袋駅に到着し、背を向けたドアが開く。
しばらくしてドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出した。
彼女は会話は終わった気になっているのか、自分のバッグから携帯電話を取り出し、操作していた。
新宿から池袋方面に向かう山手線において、池袋駅は特に人の出入りが激しい。
新宿から池袋駅で下車して乗り換える人なども多く、池袋駅からは乗車人数も半数以下に激減する。
だが、どうだろう。
どうせだから座ろうかという気持ちと、なんとなくこの人から離れようと思った思考が入り交じり、
気づかなかったのは、そのせいだと思いたい。
この車両に、他に人が乗っていないのだ。
一人も。
さっきまで新聞を大きく広げていたサラリーマンも、PSPに夢中になっていた学生も。
優先席で寝ていたおじいさんですら、一人も。
さて、この車両に乗っているのは、私と君だけになってしまったな。
彼女の唇がにやりと笑い、口角が上がるのを見て、少し不気味に感じてしまった。
無理もない。
仮にも天下の山手線。
一車両に乗客が二人というのはおかしい。
ラッシュ時とズレているとは言え、これは異常事態だ。
僕は彼女の声におもわずハッと顔をあげて辺りを見回してみる。
隣の車両は?
接続ドア越しに隣の車両を覗こうとしたが
無駄だよ。
隣にも人は乗っていないようだからね。
さも当たり前みたいな表情で余裕ぶった態度が気に入らないな、なんて思っていたが、改めて確認して、感情がどろりとかき混ぜられるような恐怖感を味わった。
本当に隣の車両にも人影が見当たらない。
誰も掴んでいないつり革が、ドミノのように綺麗にならび、電車の揺れに合わせて揺れていた。
逆側の隣車両も見てみた。
たしかにそちら側も誰も乗っていなかったのだが、
彼女の余裕とは裏腹に僕の心は落ち着かなくざわめく。
なんなんです?
何かしたんですか?
や、何も。
強いて言うならば、君が願ったんだよ。
さっき言っただろ?
人間が嫌いだ、と。
パタンと携帯を閉じる音がやけに耳に残った。
コート越しに自分の心臓をつかむように胸元に手を置き、しわになるのも気にせずコートの上から拳を握った。
さあ、どんな気持ちだね?
人間がいないというのは。
ちょっ・・・ちょっと待ってください。
なんなんですか?これは。
質問の回答になっていないよ。
人間がいないというのはどうなんだい?
えっと、・・・・・・・・・不気味・・・ですね。
なんというか、寂しい・・・とも違う。少し怖い気がします。
そーだろう。
人間は人間がいなければ生活できないものなんだよ。
少なくとも普段乗っている電車を不気味に感じる程度には、ね。
次の駅のアナウンスが入り、電車が少しずつ減速していく。
気になって、後ろを振り向き、迫り来る駅のホームに視線を凝らす。
予想以上に高速で過ぎていくホームの端から、徐々に減速する車両に合わせて、ホームの上に人が立っていることに気づいてほっとした。
一言で言えば、安心した。
人間がいたことに。
取り残されたような恐怖感が拭い去られ、落ち着いた頃には電車は停止して、数少ないものの、複数の乗客が車内に入ってきた。
大きく息を吐いて、気持ちが落ち着いたところで前を向くと、さっきまで話していた女性はいなくなっていた。
この駅で降りたのか。
なんだったのか。
なにが起きたのか。
夢か幻か。
現実だったのだろう。
そして、彼女が座っていた席には、帽子をかぶった優しげなおじいさんが杖をついて座っていた。