エピローグ
そして、終わって始まって。
なんだか、ひどくいい夢を見ていた気がする。
月子はベッドの上で身じろぎをする。まだぽかぽかとまどろむ意識が、うだうだと意味なく手足を動かした。ぐに、と柔らかいのに固い物体にそれらがあたる。抱き枕って、こんな感触だったかしら。
「月子さん、寝相がいいね。そこ、おれの脚と手だよ」
耳元にささやかれる声に、鬱陶しく腕を振る。いて、と上がる悲鳴。夢にしては現実的だ。こんないい声で囁くような恋人はいない。恋人になりたかった男はいたが、先月振られてしまった。一人の部屋で惰眠をむさぼるさみしい女、それが今の月子のはずである。
「月子さん? もうそろそろ起きてくれないと、胸揉んじゃうよ?」
朝からセクハラ発言どうなんですか。月子は夢の男に突っ込む。起きてくれないと胸を揉むだなんて、えろえろだ。むらむらだ。朝の男の事情を加味してみても、そこから一戦に雪崩れ込みそうな雰囲気。朝から激しい運動はしたくない。空腹時の運動は、健康に全くよくない。
「……まったく」
ふに、とした違和感。強弱のついている、医師の検診のような単調な動きではない。月子を快楽に押し上げるような、そういったことを煽るような巧みな動きだ。
何かがおかしい。それをようやく現実感を伴って知覚し、月子はがばっと目を覚ました。
「おはよう。もうちょっと寝ててくれてもよかったんだけど」
「な、な、な、」
「ああ、とりあえず、昨日の夜を思い出してくれればいいかな。そうすると、なんとなくわからない?」
昨夜。
そのキーワードを思い出して、一気に頭に血が上っていく。泣き疲れて、ぱたりと意識が途切れたことを。そのあと、何がどうなったかはわからないが、智樹がベッドまでこうして運んでくれたことを。
しかも、しっかりとパジャマを着せて。
「ご、ご、ご迷惑をおかけして」
「いいよ。月子さん、柔らかかったし。一緒にまた寝れたし。役得?」
ふふ、とまたきれいに笑うと、月子をぎゅうと抱きしめる智樹。彼女が寝ている間、甲斐甲斐しくスーツを脱がせて、パジャマに着替えさせて、一緒のベッドに潜り込むという彼氏のようなことをして、にやけてしまったのは秘密だ。
彼女の部屋はこぢんまりしていて、適度に散らかっていて、適度に整頓されている。人間の住んでいる、彼女の住んでいる部屋は、とてもいい匂いと雰囲気を持っていた。
雑多に置かれた小説や、携帯ゲーム機、資格講座のテキストといった、知らなかった彼女の趣味を眺めながら潜り込んだベッドで、智樹はすやすやと眠る彼女に口づけた。
ただ、重ねるだけの口づけ。それだけでひどく安堵して、よく眠れてしまった。
それは、とても幸せな夜だった。
「あのね、月子さん。おれ、月子さんに許されたって思ってないよ。ひどいことしたって、自覚あるから。多分、割り切れない気持ちがあるって思う」
はっとしたように見つめてくる月子の頭を、やんわりと撫でる。人間は簡単に割り切れない。けれど、彼女が伝えてくれたその事実は変わらない。
泣きながら、それでも大好きだと、愛していると。嫌がりながら、むずがりながら、それでも答えてくれたその気持ちを。
智樹は、大事にしたいと、思った。
「だから、月子さんのペースで、おれを許してほしい。おれと、生きてくれればいいよ」
その柔らかな手のひらに、月子はほろりと涙をこぼした。
我慢することもしない、きれいな、涙だと月子は思った。
嬉しくて、許せなくて、傲慢で、でも、とても幸せで。
「智樹、さん」
初めて呼んだ名前に、智樹は嬉しそうに笑みを深める。撫でてくれる手の温度が、とても優しい。ああ、こんなにも、こんなにも。
「わたしも、同罪だから。許してくれなくていい、まだ。だから」
手の届かないと思っていた。夢でしかないと思っていた。重ねた体の温度に、震えた夜をいくつも越えた。
でも、こうして繋いだ絆の温度が続いてくれるならば、それでいいと思える。思っていける。
間違っても、一緒に歩いて行けるなら、それで十分だと、思えるから。
「ずっと、そばにいてね。一緒に、生きてほしいよ」
思い切って重ねた唇が、とても柔らかい。
技巧もない稚拙な行為が、気持ちを穏やかに伝える。
あなたを、愛していますと。お互いに。
「三枝智樹さん。男女交際を望むことを前提とした意味合いで好きです」
「堀野月子さん。男女交際を望むことを前提とした意味合いで好きです」
それが、とても可愛らしい素朴な形であったのは、言うまでもないことだったのだけれど。
微笑み合って伝えた答えの形は、二人だけの秘密。