その4
急転直下の怒涛の展開。
「どう? 終わる見通し、つきそう?」
「はあ、一応……」
「そっかー、よかった。堀野さん、仕事丁寧だからそこはあんまり心配してないんだけど」
「ありがとうござます」
どうしてこうなった。
赤信号で車は止まる。お尻に車独特の振動を感じながら、月子は、隣で無糖ブラックコーヒーを飲む智樹をいぶかしげに見た。それから、お疲れ様と渡された甘めのカフェオレを一口啜る。疲れた頭にうれしい甘みと暖かさに、ほっと息をつきながら、彼の車の助手席にいる自分に違和感を禁じ得なかった。
二人で会っていた頃にはそこそこの頻度で乗り込んでいた車だが、ひと月もたてば異空間である。何の馴染みもない、敵地とも呼べる冷たさのある場所に、月子は身を縮めて座っていた。
『結構遅くなっちゃったから、送るよ』
『え、いや、いいです。ちゃんと電車ありますし』
『まあまあ、そういわずに。大丈夫、送りオオカミなんてならないから』
(そりゃそうですよね、振られましたしね!)
その冗談じみた上品な笑みに、思わず口元を引き攣らせてしまったのは仕方ないことだろう。甘いカフェオレを飲みながら、コーヒーを飲み終わった智樹を盗み見る。いつもと同じように、かっこいい。涼やかな目元が色っぽい。薄い唇が柔らかそうだ。憎らしくなるくらい長い脚に、スマートなスーツがよく似合っている。相変わらず、三枝智樹という男は凶悪に魅力的だ。月子は、喪に服しているはずの何かが、走り出しそうになる感覚を覚える。けれどそれはとても愚かだと、月目を閉じて深呼吸をした。少しだけ緩やかになった心音に、プライドは安堵する。それでいい。ときめいて、走り出して、その先には何もなかったことをもう知っているのだから。
「んー、堀野さん、ここ右?」
「はい。そのまままっすぐで」
ギアをシフトチェンジしながら、軽快に道路を進んでいく車。最初はびくびくと警戒していたが、いつも会っていたホテルを何のためらいもなく通り過ぎたあたりで、それは柔らかさを取り戻していく。そして、その先もちらほら見えるそれらを完全に無視して走り続ける彼を見て、どうやら本当に送りオオカミにはならないようだ、と確信を持って安堵した。会うときは、大体食事をして少しぶらつき、最終的にはなじみのホテルで一夜を明かしている。そのレールから外れることのなかった関係だった。それに嘆くさみしさは無視して、今さらそのレールすらない今の状況で、何かが起きるはずがない。
それなのに。
(はは、まだ期待してる。馬鹿だなあ)
いやいや、ただの女性としての警戒反応であり、自分のせいではない。月子はそう弁明して、苦笑する。さすがに、すぐには立ち直れないのだと自覚していたから、それほど動揺もない。けれど、痛む心臓の底には、やはり愕然としてしまう。まだ、こんなに好きなのか、と。
それも仕方ない。1年以上の恋だったのだから。だから、自分はおかしくない。月子は、懸命に宥める。また、頭の奥で泣き叫ぶ声が聞こえた。ちゃんと殺したんだから。ちゃんと埋葬したんだから。お願い、もう出てこないで
「あ、そこです」
「あ、ほんと? どこか止めるところある?」
「え、あ、そこの駐車場が」
「ああ、これね」
思わず咄嗟に答えてしまう月子。その返答にまた柔らかく微笑むと、智樹は滑らかにハンドルを切って、車体をバックで納めてしまった。
別にそこの駐車場に止めなくても、路肩に寄せてくれれば降りられるというのに。違和感を覚えながらも、紳士的な面の強い智樹なので、安全におろしたかったのだろうと勝手に結論付ける。なにより、はやく車から降りたかった。無駄な気持ちが、また暴れだしそうな予感が辛い。
「あ、じゃあ、ありがとうございました。すみません、こんな夜遅くに。それじゃあ、また来週」
智樹の顔は見ない。見ていると、どうしても何かがまた芽吹いてしまいそうになる。それは、体を繋げたせいで味を占めた虚構の残滓だろうか。直視に堪えない惨めさにくるまれたそれを、月子にはどうしても解くことができない。その姿さえ見なければどうにかなる、と誤魔化しでもしなければ、月子はそこに立っていられなかった。
(ああもう、未練たらしいって!)
シートベルトを不自然に思われないくらいの速さで外しながら車のドアを開いた。そのまま後ろを一切振り返らず、無駄のない動きで自室へのルートをたどる。見送りくらいしたほうがよかっただろうか。いや、そんな義理もない。だって、月子は振られた女なのだから。そんな気を使うことはない。そう思わないとやっていられない。
これ以上効率化なんて無理なんじゃないか、と思わせるような見事なコーナリングに、思わず吹き出しそうになった。こんなに機敏に動けるなんて思わなかった。これはスポーツジムにでも通って、この長所を伸ばすべきだろうか。月子は近所のジムを思い出しながら、家の鍵を開けた。
(まあ、こういう日もあるわよね)
さてお風呂でも沸かして、どっぷりとした疲れを洗い落とそう。一週間分の、疲れと辛さを。明日の起床を考えずに、夜更かししてみるのもいい。気になっていたブログの更新でも漁ってみようか。積んでいた小説を読んでしまうのもいいかもしれない。
暴れだしそうな気持ちを無視して浮かべる楽しいことは、明らかにつるつると上滑りしている。それでも月子は目を向けない。向けてはいけない。上滑りしない気持ちは、あまりにも、あまりにも。
「いいうちだね、堀野さん。ルームフレグランス使ってるの?」
「!?」
のんびりと投げられた言葉に、体がはねた。恐る恐る振り向くと、涼やかなすんなりとした立ち姿がそこにある。焦がれて、見慣れた、彼の。上滑りなんてしてくれない、消え去ってもくれない、愛しくて愛しくてたまらない、彼の。
「わざわざここまで送っていただかなくても、大丈夫ですから!」
「そうだね、もう家の前だし」
「だから!」
「うん、でもちょっと話したいことがあったから」
ヒステリックになりそうな、月子の境界線上の声に、にっこりとほほ笑む智樹。その様子はとても滑稽で、透明で、なのにどうしようもない現実だった。月子よりも肌理の細かく色素の薄い肌が、つやつやと明かりを反射する。ゆるりと開いた唇から覗く赤い舌が、艶やかに動いた。
「ねえ、堀野さん」
「なんですか?」
「男女交際を望むことを前提とした意味合いで好きです」
え?
そんな絶句を飲み込むような熱をもった何かが、月子の唇に覆いかぶさる。
真っ白になった頭を抱え込まれ、抵抗など思い出せず。
月子と智樹は、扉の中に吸い込まれていった。
********************
「あ、…っ、ふ…ぅん」
「…もっと、口開けて? ……っ、そう、いい子」
(何がどうしてどうなってこうなっているの?)
月子は、混乱していた。頭の中が、真っ白だ。いる場所は自宅の玄関。靴も脱がずに、ただ唇を貪られている。唇を割り開かれ、歯列を焦らすように弄られ、舌を柔らかくいじめられ、呼吸することすら億劫なくらい気持ちよく、深く深く征服されていく。しがみついた相手は、つい先日終止符をうった片思いの男。三枝智樹。憎たらしい、けれど、まだ忘れられない愛しい人。
「上手…、そう、もっと…ね?」
知らず応えてしまっていた舌の動きを、嬉しそうにほめられ、また厭らしく蹂躙される。それが嬉しくて、幸せを感じてしまって、しがみつく手に力が入って。
そして、正気に戻る。
「っ、な、なにするんですか?!」
思い切り腕を突っ張って智樹に貪られていた唇を離した。自分から離れた癖に、なんだかひどく寂しくなってしまう。あの気持ち良さが欲しくて、じんと唇に熱がこもった。それがはしたなくて、月子は泣きそうになる。
「あれ、残念。もうやめちゃうの?」
お互いの唾液にまみれた口元を手の甲で拭って、目の前の男を睨み付けた。智樹は変わらないきれいな笑みで、こちらを見ている。その真っ赤に充血した唇を、まるで見せつけるように少し長い舌でねろりと舐めてみせてきた。その仕草に、思わずぞくりと身を震わせる。そのにおい立つ色気は、まるであの夜の日々に似ていて。
思わず飛び出してしまいそうになるそれを遮るように、言葉が飛び出していく。どれだけ乱暴になってももう構わない。壊れてしまいそうな自分を守りたくて、月子はかすれた叫び声で智樹をなじる。
「なんなんですか、わたしたち、もう終わったんでしょう!? あの日、終わろうって言ってくれたじゃないですか」
「うん。堀野さん限界みたいだったし。おれも、手放してあげたかったし」
「じゃあなんでこんなことするんですか!? もういいでしょう、わたしそんなに割り切れる女じゃないんです、無理なんです! 体の関係ならわたしよりいい人、いっぱいいますよ! だから、もういいでしょう!? ……もう、いいでしょう……っ?
潤んで決壊しそうな眼球の水を、必死で奥に押し込めて月子は智樹に叫ぶ。彼の前で彼の前で泣きたくなかった。このみっともない涙は、月子だけのものだ。最後まで頑張った、月子のためだけの、誰にも憐れまれたくない涙だ。
別れたあの日。家で、死んでしまうのだろうと思うくらい泣いた。のどがかれて、目が腫れて、髪から艶がなくなるまで、ひたすら泣いた。それでも時間は待たないし、会社に行くということを変えることはできない。失恋ごときでやめる気もない。変わらない日々を過ごそうと努力した。それなのに、快楽を覚えた体が甘く疼いてしまう。智樹に与えられた苦いそれが訪れるたび、惨めで嗚咽がこぼれた。会社でその姿を見るたびに、追ってしまいそうになる目玉を抉り出したい衝動に駆られたことなんて、何度あったかわからない。不意に傷口から吹き出す、彼への恋慕で息が苦しくなって、泣き出しそうになったことだって。
それなのに、何をいまさらこの男は!
憤然とにらみ続ける月子を、智樹はかわいいものを愛でるように見つめた。少しふっくらとした頬が上気する様子が、なめ上げたいくらいにたまらない気持ちにさせる。やはり、彼女はかわいいと、胸中でつぶやいた。
とても、ひどいことをしていると、ちゃんと自覚しながら。
「逃がしてあげようって、思ったんだ。おれなんかに囚われるより、もっといいやつと付き合ったほうが、きっと堀野さんのためだろうなって」
崩れ落ちそうな月子の体を、智樹は優しい腕で抱きしめる。むずがるような抵抗を受け入れながら、それでも彼女はすっぽりと腕の中に納まった。その体は、智樹よりもぐっと小さく、けれどしなやかだった。
ちゃんと柔らかい肉のついた月子の体は、ぴったりと彼の体になじむ。決してファッションモデルのような細さも、グラビアモデルのような豊満さもない。だが、一生懸命生活を送り、いずれ子を体内に育むだろう、女性としてのたおやかさを持った、尊い体だった。
智樹は、その柔らかさを堪能しながら、ああやはりだめだ、と思う。
自分は、もう彼女を手放してあげられるような余裕はない。誤魔化してあげられるほど、優しくもない。
本当に、ひどい男だなあと、智樹は嗤った。
「おれね、結構好きな子、いじめちゃうんだ。振り回すし。嫉妬も結構する。どろどろに甘やかすしさ、厄介なんだよ。恋愛相手には」
ぐずぐずと泣きながらこちらを見上げてくる月子を見て、また微笑む。マスカラがはがれ、鼻水が垂れそうになっている、情けない泣き顔だ。だが、その表情がたまらなく愛おしい。たっぷりと、ねっとりと、つま先から頭のてっぺんまで、丁寧に擦り込むように苛め抜いてやりたくなる。
三枝智樹にとって、堀野月子とはさほど気になる存在ではなかった。けれど、しっかりと頭の中には存在している人物であった。目立つような業績があるわけでもないが、しっかりとした仕事をするという評価をもった女性。彼女に計画を手伝ってもらうと、細かなミスを大幅に減らせると、営業部全体からお墨付きをもらっている、しっかりとした企業の一員。智樹自身も、彼女と仕事を行ったことが幾度もあるが、そのすべてにしっかりと応えてくれる、いい人だなあという印象を持っていた。
あの日。月子が告白をしてきてくれた、あの日。
なんとなく、まずいことをしたと思った。ちゃんと使える人材である彼女との関係がややこしくなってしまう、と舌打ちをしたい気分だった。告白の雰囲気とは独特で、何か匂いのようなものがある。月子はそれを唐突に出してきた。そのせいで回避が遅れてしまったことを、強く悔やむ。
(彼女に仕事を渡せなくなるのは、ものすごい痛手だなぁ)
こっぴどく振ってしまうのが一番楽だ。無駄な希望を抱いてもらわなくて済む。優しい拒絶を相手に通すほどの技量は、智樹にはまだなかった。個人的に買っている人間との仲を壊してしまうのは、とても勿体ない。さてどうしようか、と考えていた。その矢先。
『男女交際を望むことを前提とした意味合いで好きです』
聞いたこともないセリフで、彼女が思いを伝えてきたのだ。それは、今まで体験したことのない驚きだった。
何かじれるような熱のこもった目ではなく、諦めたような目でそう告げてきた彼女を、智樹は呆気にとられて見ていた。あのようなセリフになったのは、どうせ『付き合って』といったら『どこまで?』なんて誤魔化されてはたまらない、と思ったからだろう。実際そういってはぐらかしたことが幾度かある。褒められたことではないが、面倒だったからだ。そうした誤魔化しではなく、一切合財を断ち切ってほしいという意味合いが見て取れた。これで終わらせてほしい。そう訴えかけるような目で、こちらを見てくる月子に、智樹は言い知れない気持ちを抱いた。
まるで、恋をするかのような。
(そんな馬鹿な)
月子のふっくらとしたラインを見て、智樹は焦った。真面目そうな、純朴そうな、誠実な彼女。丁寧な仕事ぶりを評価されている、有用な人材。ちょっとしたことにでも否とは言わず、けれどできないことにはきっぱりとできないと告げられる芯のある女性。
好みでないとは言わない。けれど特筆して好みであるとも言えない。柔らかで美味しそうだとは思えるが、かぶりつきたいとは思わない。なんて微妙な、ゆらゆらした女性。恋なんて、どうしてするはずがあるのか。
『体だけのお付き合いって、どうかな? まあ、堀野さんが了承するなら、だけど』
告白してきた彼女を侮辱するような提案を出したとき、智樹は思っていた。これで諦めてくれればいいと。こんなひどいことを提案してしまうような男なのだから、どうか平手でも食らわせて、捨ててしまえばいいと。そんな、身勝手なことを願っていた。
堀野月子という女性を、自分という存在から守ってやりたい。その程度には、智樹は彼女を好ましく思っていた。目立つような女性ではないが、慎ましやかで穏やかな雰囲気を持つ綺麗な彼女を、こんなろくでもない男で穢させたくなかった。
(そんなのは、いけないことだ。確実に)
どこか伸ばしてしまいたくなる手を無視する。その柔らかそうな体をなぞりたくなる指を握りしめる。どんな声で啼くのだろう、と頭の中で考えてしまう自分を殴る。
彼女だったら、受け入れてもらえるんじゃないかと、望んでしまう自分にふたをしたい。
それなのに。
(手を、とるから)
最悪の提案に、そのとんでもない提案に、月子は、その手を取った。
拒絶を待っていた智樹にとってそれはどうしようもない衝撃である。そんな関係を甘んじて受けるような女性ではない。現に今も、どうしてそんなことをするんだ、と思わず諭したくなるような悲壮感を漂わせている。けれど、その手をとった彼女の目を見て、思わず、智樹は堕ちてしまった。
プライドをわきに置いて、それでも智樹の愛情が欲しくて無理をした、情けないくらいに悲壮な、まるで殉教者のような愛情に塗れた瞳。
それに、心臓を打ち抜かれたのだ。
ああなんて、いじめたくなるようなかわいい女の子なんだ、と。
なんて、いとおしい女性なんだ、と。
「仕事を真面目に一生懸命こなして、社内では一切甘えたとこを見せなくて。でも二人っきりの夜に、おずおず甘えてくれるたびに、やっぱりおれみたいな男にはもったいないな、って思ったんだ。だって、どんなに頑張っても、泣かしたくなるから」
だから、ずっと後悔した。どうして普通に受け入れられなかったのだろう。どうして、冗談だよと言って、あの時その提案をなかったことにしなかったのだろうと。
待ち合わせるたび、智樹を待つ彼女の姿はとても美しかった。それでいて穢してはならないようにきらきらしていた。健気にこちらに駆け寄ってくる姿を見るたび、不慣れだろう行為に応じる姿を見るたび、ことが終わった後の無理をする姿を見るたび、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。
彼女は果たして、自分という男と付き合って幸せになれるのだろうか、と。
それは、最初から分かっていたことだった。
智樹は知っている。自分が、いかに厄介で面倒くさい男であるかを。恋人と別れるときは大概、『もう体がもたない』『愛情に応えられない』『あなたといると駄目になる』と言われて去られている。その程度に、自分は溺愛する傾向にあると、自覚していた。
いじめたくなる。困らせたくなる。追いつめて、追いつめて、ギリギリのところで甘やかして、どろどろに溶かすくらいの愛情で煮詰めて。堕落させようとしているのか?と問われたことがある。そんなことはない、ただ、愛した人がたまらなくかわいいだけなのだ。
そんな厄介な愛情に、堀野月子という女性を晒していいはずがない。捧げていいはずがない。だって彼女は、驚くほど魅力的だ。
でも、泣き出しそうな困った顔に、泣いて懇願する顔に、ぞくぞくするほど興奮し愛しさを感じてしまう。二人っきりになるたびに、そんな衝動に襲われて、そのまま身を任せてしまう。彼女はとても甘くて、でも苦くて、とろけるように美味しかった。ぴったりと重なった体は、まるで自分のための女性なのだと錯覚し、今まで以上にしつこく丹念に可愛がってしまう程度に。
ぐったりと身を預けてくる月子を抱きしめるたび、やはり思うのだ。
自分では、だめなんだと。
「だから、別れを切り出されたとき、思ったんだ。ああ、これでちゃんと手放そうって。幸せになってもらおうって。思ったんだ。あのときは」
「……」
「でもね」
ぎゅう、と抱きしめている腕に力を込める。胸におしつけられている月子の腕が、居心地悪そうにぴくんと動いた。その仕草にまた興奮してしまう自分に、やっぱり嫌悪感が拭えない。それでも、腕に込めた力を緩めることはできなかった。
もう、いい人のような思考を許せるほど、智樹は自分を抑えられなくなっていた。
「堀野さん。おれ、やっぱりあなたを手放したくない。ひと月離れて諦めようと思ったけど、無理だった。堀野さんから目を離すことが、できなかった。いじめたいって衝動も止まらなかった。でもなにより」
「そばで、笑っていてほしいって、初めて思った」
月子の笑顔を見るたびにときめいた。自分じゃない誰かに向ける笑顔を見て、初めて、自分のために笑ってほしいという衝動に襲われた。それは、いじめたいという衝動と同等に扱ってもいいくらいの、とても強いもので。
今までの恋人に感じたことのない強い気持ちに、諦めのように笑ったことを覚えている。ああ、もうこれは覆せない気持ちであると。手を挙げて、降伏した。
彼女を幸せにして、自分だけのものにしたいんだと。
ようやく、逃げることを観念した。
「だから、月子さん。俺と、お付き合いしていただけませんか?」
逃がさないといわんばかりに抱きしめて告白する自分は、どこまでいっても卑怯だと笑ってしまう。ここまで来て、受け入れられるはずがないと分かっていても、逃がしたくない気持ちは抑えきれない。ここで罵倒されても、殴られても、蹴られたって構わないと思った。もしくは、殺されても。
最低な男で構わない。評価が最悪であっても、そこから這い上がるために全力を尽くす覚悟だ。思わず唇を奪ってしまったことについては、土下座でも構わない。格好よく告白だけするはずだったのに、半開きになった彼女の小さな舌を見たら、頭から何もかもが吹っ飛んでしまった。最悪だ。印象の回復なんて望めない。
(まあ、でもいいか。これがおれだし)
あの日の夜に戻ってやり直せればいいのに、と考えないことはなかった。告白を受け入れて、そのあとデートでもしてみればよかったのだ。そうすれば、こんなにひどいことにはならなかった。少なくとも、こんな馬鹿みたいな事態には。
けれど、後悔しても始まらない。先に進まねばならない。悔いることは簡単だが、それを生かさなければ生きてはいけない。
「……いまさら、何言ってるんですか」
「うん」
「わたし、このひと月、違う、付き合ってた間も、どれだけ辛かったと思ってるんですか!?」
「そうだね」
「なんで今さらそんな、勝手すぎる、ひどい、最低!!」
「自覚してるよ」
ぼろぼろと涙を流しながら、月子は智樹の胸板に拳を打ち付けた。どん、どん、と鈍い音がして、彼の体が少しだけ揺れる。変わらない穏やかな瞳で見つめてくるその表情に、月子はまた涙があふれた。
ああ、夢なんじゃないかしら。
都合のいい、ただの、幻なんじゃ?
「わたし、ほんとは、あんなっ、あんなこと慣れてなくてっ、いちゃいちゃして、らぶらぶするために、する、っもんだって、ずっと!」
「うん」
「でも、欲しくって、三枝さん、が、欲しくっ、って、かなわない、って、おもって、た、から! あいして、もらえるって、っおもった、からっ!!」
「うん」
ごめんね。
声にならないような、かすかな音が耳元に落とされる。頭を撫でる手が、とても尊い。乱れた呼吸が、頭を真っ白にする。抱きしめられている体が、ひどく遠い。
喘ぐように嗚咽を繰り返し、それでも月子は智樹に言葉を紡ぐ。止まらない言葉が、飛び出していく。それは、いつか殺した雛の姿をしていた。
「最低! 最低! さいてい、だよぉ、っ」
「うん。最悪だ」
「でも、でも、ね、受け入れた、あた、あたしのほうも、っさいてい、なの、わかってる、わかってるんだ!」
「そんなことない」
「ちがう、だって、っ、だって、いまでも、だってっ」
受け入れた喜びは、変わってない。あの時、手を取ったことを、唾棄してなじる気持ちはあっても、それをしなかったとはどうしても思えない。今、あのときに戻っても、きっとあの手を取っていた。縋りついていた。
その程度に、月子は浅ましく、そして貪欲に愛してしまっている。
三枝智樹、という男性を。
「あいして、る、からぁっ」
受け入れられないと、言えればよかった。拒絶して、鼻っ柱を叩き折って、何もかも粉々にしてやればよかった。それが意趣返しになると、そう理性は言っている。
だけど、誤魔化せない。無視できない。我慢できない。
この恋を抱く月子という人間として、智樹の告白を、受け入れないことは、できなかった。
「だいすき、だよぉ」
みっともない、最低の、浅ましい、下劣な。
いくら罵倒する言葉が聞こえてきても、それでも声が止まらない。気持ちが揺るがない。恋が、愛に代わっていく。嬉しそうな声を上げて羽ばたいていく雛が、キスをしてきた。ありがとう、それが欲しかった。
「おれも、愛してるよ。月子さん」
宥めるように頬に降ってくる唇に安堵して、月子は意識を手放した。
なんだか、とても心地よかった。