その3
関係が途切れて、終わったはず。
「あー…終わらない…」
月子は目の前に積み上がった案件をひたすら打ち込み、整理しながらそう呟いた。
フロアに人影はない。ちらほらと帰る挨拶をされたように思う。手伝おうか、と言い出してくれた同僚に泣きそうになりながら、それでも断った。手伝ってもらえば相手の帰りが遅くなってしまう、と気を使った部分もある。が、それ以上に。
(三枝さんがとってきた案件だもんね……失恋したから手を抜いてるなんて、思ってほしくない)
智樹との薄っぺらい独りよがりの関係が終わってひと月が経過していた。その後、思ったように彼は以前となんら変わりなく月子を月子として扱い、まるでそんな関係は夢でした、と言わんばかりの完璧な対応をしてくれている。彼を狙う女性陣からのいびりなども全くなく、名もなき企業戦士その1としての日常を当たり前のように過ごしていた。
そんな折、彼がとってきた大物の契約。エース陣が苦戦し、やられそうになりながらも、それでももぎ取ってきた重大な契約だ。そんな、営業部の全員で歓喜したそれに関する仕事の一端を任されたとき、月子は決意した。これ以上ないくらい、丁寧にしっかりとこなそうと。この仕事に関わりたいと密かに思っていたこともあったし、何より契約を取ってきた智樹に宣言したかった。失恋をして、セフレ関係を解消したからと言って、ヒステリックに仕事が出来なくなるような女ではないと。もう、視界にも映されていないと分かっていても、だ。
それは、恋心に殺されたはずのプライドが息を吹き返した雄叫びだった。月子は、そのプライドに頭を下げながら、その叫びに忠実に従うことにした。そうすることで、堀野月子という人間を立て直したいという気持ちが強かったからだ。失ってしまった何かを、丁寧に癒していこうと、喪に服すような清廉な行為。月子は、液晶に移る文字の羅列を、まるで聖書のように恭しく目を通していく。
「あー…んー…」
気の抜けた声を出しながら、残りの日程を算段する。まだ締め切りまでは時間とゆとりはある。今日ここまで進んだならば、もうそろそろ帰っても平気だろうか。月子は慎重に慎重を重ねたスケジューリングを頭の中で行う。ほんのりとした桜色の手帳で確認し、よし、と三か所に保存を行ってパソコンの電源を落とした。ゆっくりと息を吐き、髪をとめていたバレッタを外す。ばさりと落ちてきた巻き毛が、首をくすぐった。首を回すとごりごりと気持ちいい音がして、月子はそのままぐいーっと椅子の背もたれを使って伸びをする。腰から上がる悲鳴に、達成感と疲労感で満たされていった。
(よしよし、ちゃんとした社会人だぞ、月子。あんたはえらい!)
自画自賛はさみしいものだ、と思うが、一方で頑張っている自分は褒めてやらねばならない。厳しくしすぎると拗ねてしまいかねないことをよく知っている。無理のきく体だが、決して超人ではない。無理は適度に、が座右の銘である。
(んー、明日は土曜日だし。12過ぎまで寝ちゃおう)
今日家に帰った後の楽しいことを思い浮かべ、鼻歌を自然と歌いながらバッグの中に書類を突っ込んでいく。帰りにスープバーにでもよって、気になっていた新作を飲んでみるのもいいかもしれない。栗かぼちゃをベースとしているもので、とろりと濃厚な香りが美味しそうだった。ちょっとお値段がお高めだったが、今月は余裕もある。それくらい飲んでも罰は当たらないだろう。そんなことを考えながらコートを着込み、そして振り返る。
「あれ、終わったの?」
きれいな笑みを浮かべた彼が、そこにいた。