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その2

そして、その終わり。



(今思い出しても馬鹿みたい。ってゆうか、頭が悪い)



 それだけの関係でもいいから、なんて、少女マンガやケータイ小説のようなとろけた感情が生まれるとは信じられない。月子はため息をつく。少なくとも、もう少し客観的に、冷静に物事を処理できると自負していた。仕事の処理においても私情を持ち込んだりなんて一切しなかったし、友人関係もうまい距離を保ってきている。例え喧嘩をしていたとしても、ちゃんと折れどころを見極めて、相手との関係の天秤を水平に保ってきていたはずだ。

 それなのに。



(こうして、三枝さんのセフレだよ!! 何が冷静だ、客観的だよ、もおおおおっ)



 気怠い体をベッドに預け、月子は自分を罵倒し続ける。こういう関係はよくない、と毎回切り出そうと決意する。している。だが智樹との約束の日になると、いそいそと無駄毛処理をしてエステで磨き上げた柔肌をスーツで武装し、化粧直しした顔を期待に上気させながら、約束の場所に向かってしまうのだ。智樹の、『お待たせ、じゃあ行こうか』と言ってくれる瞬間を待ちわびながら。



(ああ結局、わたしって恋に溺れる少女マンガな女だったんだなぁ…)



結局お風呂でも美味しく頂かれてしまった。意識の手綱を完全に操られ、熱い空気に喘ぎながら、隅々まで。体をなぞる舌先や節のきれいな長い指、そしていじわるく責めなじる言葉に翻弄された記憶が、とろりと溢れてきた。けれど、その溢れてきたものは、月子の心臓の奥を猛烈な温度で焼き尽くしていく。それほどインモラルなエロスに溢れていたから、という阿呆らしい理由ではない。いや、もしかしたらその節もあるかもしれないが、それ以上に惨めで阿呆みたいだと、憐憫の情を月子自身が自分に向けて投げつけてくるからだ。哀れで、憐れで、あばずれた月子を、昔の月子が認めたくないと殴り続けているからだ。なんて、なんて浅ましい。慟哭のような良心の断罪が、月子の頭の中で常に響いている。



(だって、手に入れたいと、思ってしまった)



 弁明するように、まぶたの奥で泣き叫ぶ月子に向かって苦笑する。あのとんでもない提案を投げられた瞬間、燃え上がるような感情が頭の中で荒れ狂ったのを、今でも思い出せる。それは、侮辱されたプライドが叫んだ怒気と、目も当てられない色をした歓喜の渦だった。目の奥が揺れて、唇は震えて。でも、結局勝った気持ちは、浅ましいそれで。



(その目に、存在できるんだと、思ってしまった)



手を伸ばせば、彼を手に入れられるって。どこか、そう、甘えたようにぐずる恋が、踏ん張って叫ぶ誇りを刺殺して、喉の奥から智樹に向かって飛び出していった。勝手な、とても身勝手な、でもいじらしい欲望が、あどけない形の願望が、こんなにとろりとした背徳を孕んだ関係を貪っていく。



 月子は現実主義者だ。夢に生きられないということを悟ってしまった、一人の女性だ。だから、これは一度だって、手に入れられると思ったことのない恋だった。夢を見ることすらできなかった、そんな恋だった。無駄な希望を持たないように、そう自制する心を飛び越えて、それでも孕んでしまった、どうしようもない恋だったのだ。

 だから、智樹の提案にどうしようもなく揺らいで、そして、喜びを見出してしまった。夢を見ていいと、手に入れられると肯定されたようなその手のひらを、美しくてきれいなものだと、思い込みたかった。

 思い込めるような人間ではないことを、一番よく知っていたのに。



(涙も出ないよ、ちくしょう)



 汚いものを切り捨てたいわけでもないし、否定したいわけでもない。ただ、受け入れたくないだけだ。月子は、指先を鈍く動かす。感覚がまだない。死んでいくのかしら、と他人事のように空想する。そんなはずがないのに。

ただそれが、自分のものであるとは、どうしても直視できないだけだ。月子はわかっている。愛を重ねるはずの行為を、ただの滑稽な独り遊びであると言いたくないだけだ。だって、少なくとも、月子自身は愛を注いでいるから。愛を重ねたいと、心の底から絞り出しているから。啼きながら、哭きながら、泣きながら。



(ばか、ばか、ばか)



 行為のたびに擦り切れていくのはなんだろう。死んでいくのはなんだろう。ぴったりの言葉があったはず。適切な表現があったはず。どうしても受け入れられないのは、感傷と感情の墓標だからだ。その下に埋まっているものが、まだ息づいていると知っているからだ。見ないふりでかけた土は、結局その叫びをかき消すことはできない。

 すべての答えを知っている。ただ、それを書き込めないだけ。

 そうすれば、解答用紙をもう二度と配ってもらえなくなってしまう。

 智樹と足を絡める、この冷たいシーツの上に。



「堀野さん、水。のど傷めちゃうでしょ?」



 ひやりと頬にあてられるペットボトルの冷たさに、ぞわりと鳥肌が立つ。月子はそれをのろのろと受け取ると、胸に抱きこんでまた目を閉じる。冷たくて、柔らかくて、喉が渇いている。動かない体は、もうそろそろ止まりたいとねだってくる。そうだね、わたしももう、止まりたいよ。月子は、泣いている自分を抱きしめてそう思う。



(なんだ、もうとっくに限界だったんじゃないか)



 元来、倫理観も道徳観念も高いほうだ。悪いことなんて絶対にできない、と親友人知り合いすべてから言われてしまう、善良な一般市民だ。少し背伸びを、目隠しをしたくらいで、それを覆すことはできないと、ちゃんと知っている。

 現実を知っている。現実を理解している。夢なんてみれない。夢なんてみていない。でも本当は、叶ってほしい恋だった。智樹の姿を見るたびに、智樹の声を聴くたびに、その微笑みを見るたびに、幸せでたまらなかった。ちくちくとした痛みすら、心地よいと感じてしまうくら、マゾヒスティックな愛だった。自分でも予想以上に、練り上げてしまった恋だった。

 だからこそ。

 こうしていては、可哀そうだ。


 ゆるりとまぶたを上げた先に、きれいな笑みを浮かべている智樹がいる。意外なほど筋肉質な体が、ゆるりと来たバスローブの合わせ目からちらちらと顔を出す。それが色っぽくて、格好良くて、愛しくて、憎らしい。まだ、こんなにも月子の心をとらえて離さない、最低な男。



(同罪のくせに被害者面するなんて、ほんと気持ち悪いな、わたし)



「どうしたの。気持ち悪い?」



 何気なく触れてくる指が優しい。頭を撫でる温度が優しい。思わず夢を見ていたいと思ってしまうくらいに、甘さを見出せてしまう。そうだ、とても気持ち悪い。被害者面して、悲劇のヒロインになりたがってしまう、最低の女。体に与えられた快楽に愛を見出そうと必死になっている、馬鹿な女が、最高に気持ち悪い。ねえ、そう思うでしょ。

月子は、なつくようにその手のひらにすり寄る。それでも手を伸ばせないのは、やっぱり夢ですらない虚構なのだ。月子は、現実に立っていた。ちゃんと、震えながら。



(ちゃんと、しよう。大丈夫。わたし、ちゃんとできる)



「三枝さん」

「ん? なに? 堀野さん」



(さあ、終わりの言葉を)



「こういう関係、やめましょう」



 ちょっとだけ、かすれた声が月子の意思を紡いだ。しんとした空間によく響く。智樹の耳に入ってないなんて、絶対に思えないくらいに。

 智樹の驚いたように目を見開く表情。あどけない表情に、してやったりだなあと頭の中で笑う。そんな余裕はどこにもないのに。

 月子は、うるさいくらいに暴れだした心臓の音を聞いていた。そんなの嫌だ、とまだ夢見る卵が転がり続ける。もう、孵ることのない雛が、それでも生まれたいとあがくように。



「うーん。堀野さん、それでいいの?」

「はい。なんていうか、わたしの倫理観的に、もう無理です」

「んー、そっか」



 まだとどめを刺されたくないと泣き叫ぶ雛が、ここにいる。そして、そのとどめを刺そうとする親もまた、ここにいる。月子は、暴れる雛を抱きしめて、宥めた。殺してしまうわたしを、恨んでいいから。

 だから、もう、終わろう。



「じゃあ、止めようか」



 そのとどめは的確に、雛の息の根をとめた。



 遺言は、なかった。





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