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聖女の力を妹に譲ったら、幸せな生活が手に入りました

作者: くるみ
掲載日:2026/07/12

 聖女の力を、妹に譲ってほしい。


 父からそう言われたのは、私が十八歳、妹のリリアが十六歳の春だった。


 神殿の奥にある白い祈りの間。

 白い石床に描かれた魔法陣の前で、父と継母、妹、そして大神官様が私を見ていた。


「マリア」


 父は重々しく口を開いた。


「リリアのほうが、聖女にふさわしい」


 私は黙って父を見た。

 リリアは継母の後ろで、白いハンカチを握りしめている。

 大きな瞳には涙が浮かび、今にも倒れそうなほど儚げに見えた。


「お姉様、ごめんなさい」


 リリアは震える声で言った。


「私、お姉様から何かを奪いたいわけじゃないの。でも、神殿の皆様が、私のほうが民に愛される聖女になれるって……」


 その言葉に、大神官様が深く頷いた。


「マリア様の癒やしの力は確かに強い。けれど、聖女に必要なのは力だけではありません。民の前に立ち、微笑み、希望を与える華やかさも必要なのです」


「つまり、私は地味だということでしょうか」


 私が尋ねると、父は気まずそうに視線をそらした。

 継母が小さくため息をつく。


「そういう言い方をするものではありませんよ、マリア。ただ、あなたは昔から表情が乏しいでしょう。癒やしの力はあっても、人々の心を明るくするのはリリアのほうです」


 なるほど。

 私は少しだけ納得した。


 確かにリリアは明るく、可愛らしく、よく笑う。

 幼い頃から、周囲の大人たちは彼女を見るだけで頬を緩めた。


 一方の私は、泣いている子どもを見つけると黙って膝に薬を塗り、熱を出した使用人がいれば水を取り替え、倒れた馬がいれば厩舎に一晩ついていた。


 人を励ます華やかな言葉は、あまり得意ではない。

 けれど、困っている人を放っておけなかった。


 それだけだった。


「聖女の力を移す儀式を行えば、癒やしの加護はリリア様へ移ります」


 大神官様は言った。


「マリア様には、今後、リリア様の補佐として静かに神殿に残っていただきたい」


「補佐」


「ええ。表に立つのはリリア様です。あなたは姉として、妹を支えなさい」


 支えなさい。

 譲りなさい。

 我慢しなさい。

 幼い頃から、何度も聞いてきた言葉だった。


 私はリリアを見た。

 リリアは涙を浮かべたまま、私を見つめている。


「お姉様、だめ……?」


 その声は甘く、弱く、誰もが守りたくなるような響きだった。

 私は少し考えた。


 聖女の力。

 神殿の期待。

 父の家の名誉。

 民の希望。

 そのすべてが、ずっと私の肩に乗っていた。

 正直、重かった。


 毎日、誰かの痛みを癒やす。

 感謝される。

 期待される。

 もっとできるはずだと言われる。

 力があるのだから、苦しまないはずだと思われる。


 私はいつの間にか、疲れていたのかもしれない。


「わかりました」


 私がそう答えると、その場の全員が息を呑んだ。


「譲ります」


 父は安堵した顔をした。

 継母は「やはりあなたは聞き分けがいいわ」と微笑んだ。

 リリアは涙をこぼしながら、私に抱きついた。


「ありがとう、お姉様。私、きっと立派な聖女になるわ」


「ええ」


 私は妹の背を軽く撫でた。


「頑張ってね」


 不思議と、悲しみはあまりなかった。

 ただ、肩に乗っていた重い布が一枚、すとんと落ちたような気がした。


     *


 儀式は、満月の夜に行われた。


 白い祈りの間に、神官たちの祈りが響く。

 私は中央に立ち、リリアと手を合わせた。

 足元の魔法陣が淡く光る。

 胸の奥にあった温かな泉のようなものが、少しずつ体から離れていくのを感じた。


 それは痛みではなかった。

 むしろ、長く抱えていた熱を誰かに渡すような感覚だった。


 リリアの体が光に包まれる。

 神官たちが感嘆の声を漏らした。


「成功だ」


「聖女の加護が、リリア様へ」


「なんと美しい光だ」


 リリアは両手を胸に当て、涙を浮かべていた。


「私が、聖女……」


 父と継母は誇らしげに彼女を見ている。


 私は一歩下がった。

 体が少し軽い。

 けれど、どこか空っぽでもある。

 その時、部屋の隅に控えていた若い神官と目が合った。


 エリアス神官。

 神殿の記録係であり、病室の管理も任されている方だ。

 穏やかで、あまり目立たない方だった。


 けれど、いつも人の動きをよく見ていた。

 神殿で私が患者を癒やしていた頃、彼は儀式の場ではなく、病室や廊下にいることが多かった。

 水差しの残量を確かめ、見習い神官の休憩時間を記録し、患者の寝具が湿っていないかを見ていた。


 華やかな祝福の光に集まる人々の輪から、少し離れた場所にいる人。

 私が神殿で、唯一落ち着いて話せる相手だった。


 エリアス神官は、こちらを見ていた。

 喜んではいなかった。

 祝福の拍手もしていなかった。

 ただ、痛ましいものを見るような目で、私を見ていた。


 大神官様が私に近づく。


「マリア様。これからは、リリア様の補佐として神殿に」


「いいえ」


 私は静かに首を横に振った。


「神殿を出ます」


 その場が静まり返った。

 父が眉をひそめる。


「何を言っている」


「聖女の力はリリアに譲りました。私はもう聖女候補ではありません。でしたら、私の役目は終わったはずです」


「だが、家の名誉が」


「リリアが守ってくれるでしょう」


「マリア」


「私は、少し休みたいのです」


 その言葉に、父は何も言えなくなった。

 私は初めて、自分のために言葉を使った気がした。


 白い祈りの間を出る直前、エリアス神官が小さく頭を下げた。

 何か言いたげな顔をしていた。

 けれど、彼は神官で、私は聖女の力を失った元候補。

 その時の私たちには、何かを言う理由も、言える立場もなかった。


     *


 神殿を出た私は、王都から馬車で三日ほど離れた田舎町へ向かった。

 母方の祖母が遺してくれた、小さな家がそこにあったからだ。

 家は、町外れの坂道の途中にあった。


 白い壁。

 赤い屋根。

 裏手には小さな畑と、井戸と、古い薬草棚。


 派手さはない。

 けれど、朝日がよく入る台所があった。

 それだけで、私は少し嬉しくなった。


 聖女候補だった頃、私の一日は祈りと治療で埋まっていた。


 誰かが痛む。

 誰かが泣く。

 誰かが私を呼ぶ。


 私は癒やしの力を使い続けた。

 食事は決められた時間に運ばれ、眠る前には翌日の祈りの予定が渡される。

 自分でお湯を沸かすことも、自分のためにパンを焼くことも、ほとんどなかった。

 だから、田舎町での最初の朝、私は台所に立ってしばらく固まった。


 自由だった。

 何を食べてもいい。

 何時に掃除をしてもいい。

 誰のためでもなく、お茶を淹れてもいい。


 私は庭で摘んだ薬草を干し、古い棚を磨き、台所で湯を沸かした。

 そして、祖母の帳面に残っていた配合を見ながら、薬草茶を淹れた。

 香りは、少し青く、少し甘い。

 ひと口飲むと、体の奥がゆっくり温まった。


「……おいしい」


 自分で作ったものを、自分でおいしいと思う。

 それがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。


     *


 町の人が最初に訪ねてきたのは、三日後だった。

 扉を叩いたのは、向かいのパン屋のおばあさんだった。


「あなた、最近越してきたお嬢さんだね」


「はい。マリアと申します」


「庭に薬草があるだろう。少し分けてもらえないかい。うちの息子が、ここのところ眠れなくてね」


 私は少し迷った。

 もう聖女の力はない。

 けれど、薬草茶なら作れる。


「よろしければ、お茶にしてお渡しします」


「助かるよ」


 私は眠りを助ける薬草を選び、香りがきつくなりすぎないように配合した。

 おばあさんは湯気の立つ瓶を大事そうに持って帰った。


 翌朝、彼女は焼きたての丸パンを抱えてやってきた。


「あの子が久しぶりに眠れたんだよ。朝までぐっすり。ありがとうね」


「よかったです」


「これ、お礼」


「そんな、いただけません」


「いいから。あんた、ちゃんと食べてる顔じゃないよ」


 押しつけるように渡されたパンは、まだ温かかった。

 私はそれを両手で受け取った。

 誰かを癒やして、対価として温かいパンをもらう。

 神殿にいた頃には、感謝の言葉も贈り物も山ほどあった。

 けれど、このパンほど胸に沁みたものはなかった。


 それから少しずつ、町の人が私の家を訪ねるようになった。


 眠れない人。

 食欲のない人。

 疲れが抜けない人。

 子どもが夜泣きする母親。

 畑仕事で腰を痛めた老人。


 私はできる範囲で薬草茶を淹れ、温湿布を作り、話を聞いた。

 大きな怪我や病気には医師を勧めた。

 無理なことは無理と言った。

 聖女の奇跡はもう使えない。

 けれど、お茶を淹れることはできる。

 椅子をすすめることも、温かいスープを出すことも、疲れた人に「今日はもう休んでください」と言うこともできる。

 それは、力と呼ぶにはあまりにも普通のことだった。


 でも、町の人たちは笑った。


「マリアさんのところへ行くと、なんだか息がしやすくなる」


「お茶を飲むと、よく眠れるんだ」


「ここは、小さな休憩所みたいだね」


 そう言われるうちに、私は家の玄関に小さな看板を出した。


『薬草茶と休む場所 マリア』


 商売と呼ぶには、のんびりしている。

 けれど、私はその暮らしが好きだった。


     *


 エリアス神官が私の店を訪ねてきたのは、秋の終わりだった。


 雨の降る夕方。

 私は閉店の札を出そうとしていた。


 扉を開けた先に、濡れた外套をまとった神官が立っていた。


「マリア様」


 久しぶりに聞く声だった。

 私は驚いて、しばらく言葉が出なかった。


「エリアス神官」


「突然、申し訳ありません」


「いいえ。どうぞ中へ。雨に濡れています」


 私は彼を店の中へ招き入れた。


 エリアス神官は、以前と同じように穏やかな顔をしていた。

 ただ、目元には疲れがあった。

 私は温かいお茶を淹れ、乾いた布を渡した。


「神殿で何かありましたか」


 彼はカップを両手で包み、少し黙った。

 そして、小さく息を吐いた。


「リリア様が、お倒れになりました」


 私は手を止めた。


「リリアが?」


「癒やしの力は確かに強いのです。傷も熱も、光で抑えることができます。ですが、患者が減りません。むしろ、神殿に人が集まりすぎて、見習い神官も看病人も疲れ切っています」


「病室は」


「以前より混乱しています」


「換気は」


「足りません」


「寝具は」


「足りません」


「看病人の交代は」


「うまく回っていません」


 私は目を閉じた。


 予想はできた。

 リリアが悪いわけではない。

 けれど、癒やしの光だけで人を救おうとすれば、必ずどこかに無理が出る。


「大神官様は、私を神殿に戻したいのですか」


「はい」


 エリアス神官は正直に答えた。


「ですが、私はそのためだけに来たのではありません」


 彼はゆっくり店の中を見回した。


 薬草の香り。

 磨かれた木の床。

 湯気の立つカップ。

 壁際に置かれた清潔な布。

 少し疲れた人が、何も言わずに座れる椅子。


 エリアス神官の目が、かすかに揺れた。


「やはり、ここでしたか」


「何がですか」


「マリア様の力です」


 私は首を傾げた。


「私の聖女の力は、リリアに譲りました」


「癒やしの光は、そうでしょう」


 エリアス神官は、静かに言った。


「ですが、あなたの力は、それだけではなかった」


 胸の奥が、微かに震えた。


「どういう意味ですか」


「私は、神殿でずっと見ていました。人々があなたの光に祈っている間、あなたは患者の水差しを替えていた。眠れない子どもの寝台を窓から遠ざけていた。倒れそうな見習い神官を休ませていた。誰も気づかない病室の乱れを、あなたが整えていた」


「それは、誰でもできることです」


「誰でもできることを、誰もしていませんでした」


 エリアス神官の声は、穏やかだった。


 けれど、まっすぐだった。


「マリア様。神殿は、聖女の力を失ったのではありません。あなたが作っていた、休める場所を失ったのです」


 私は何も言えなかった。

 そんなふうに言われたことは、一度もなかった。


 聖女の光を褒められたことはある。

 民を救ったと称えられたこともある。

 けれど、水差しを替えたことや、窓を開けたことや、誰かを休ませたことを覚えていてくれた人がいたなんて。


 エリアス神官は、カップを置いた。


「この店に入った瞬間、わかりました。空気が違う。疲れた心が、ほどける。傷や病を直接消す力ではない。ですが、人が回復していくための場所を作る力です」


「そんな力が」


「古い神殿記録にあります。癒やしの聖女とは別に、かつて“安息の聖女”と呼ばれた方がいたそうです。その方は傷を一瞬で治すことはできませんでした。けれど、彼女のそばでは人がよく眠り、薬がよく効き、争いが鎮まり、病人の回復が早まったと記されています」


「安息の聖女……」


「私は、あなたがその加護を持っているのではないかと思っています」


 私は自分の手を見つめた。

 そこには、もう眩しい光は宿っていない。

 けれど、店の奥で煮出している薬草茶の香りが、ゆっくり広がっている。

 神殿を出てから、私の周りでは不思議なことが起きていた。


 眠れなかった人が眠れるようになった。

 食欲のなかった人が、少し食べられるようになった。

 泣いていた人が、落ち着いて帰っていった。

 薬草も、祖母の帳面に書かれているよりよく育つ。


 私はただ、自分の暮らしを整えているだけだと思っていた。

 でも、それが力だったのなら。


「マリア様」


 エリアス神官は、静かに言った。


「神殿へ来ていただけませんか」


 私は彼を見た。


「リリア様を助けるために。神殿の病室を立て直すために。ですが、無理に戻れとは言いません。あなたが神殿に縛られるべきではないと、私は思っています」


「エリアス神官は、大神官様のお使いではないのですか」


「お使いです」


 彼は少しだけ苦笑した。


「けれど、私はあなたを連れ戻しに来たのではありません。あなたに、選んでいただくために来ました」


 選んでいただく。

 その言葉に、胸が静かに熱くなった。

 神殿にいた頃、私は選ばれる側だった。


 聖女候補に選ばれ、力を譲るよう求められ、補佐に残るよう決められた。

 けれど、今、初めて誰かが私に選ばせようとしている。


「行きます」


 私は答えた。


「ただし、神殿に戻るためではありません。リリアと、患者さんたちを助けるために行きます」


 エリアス神官の表情が、少しだけ和らいだ。


「ありがとうございます」


「それから、私の店は閉めません」


「はい」


「ここへ戻ってきます」


「はい」


 エリアス神官は、まるで最初からそう答えると知っていたように頷いた。


「あなたの帰る場所は、ここです」


     *


 王都の神殿は、ひどく疲れていた。

 広間には患者が詰め込まれ、空気は重く、窓は閉め切られていた。

 香が焚かれすぎて、咳き込む者もいる。

 水差しは足りず、寝台の間隔も狭い。

 神官たちは祈り続けて疲れ果て、見習いたちは何をすればいいかわからず立ち尽くしていた。


 私は思わず袖をまくった。


「窓を開けてください」


 近くの神官が驚いた顔をする。


「ですが、神聖な香が」


「空気が悪すぎます。患者を軽症、重症、回復途中に分けてください。水を沸かして、布を煮て。看病する方も交代制にします」


「マリア様、しかし」


「癒やしの力を使う前に、倒れる人を減らしてください」


 私の声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。

 エリアス神官がすぐに帳面を開いた。


「東病室を軽症者用に。西病室を重症者用に回します。見習い神官は二組に分け、三時間ごとに交代。水場の担当を決めます」


 彼の声に、周囲の神官たちが動き出す。


 水。

 風。

 清潔な布。

 温かい粥。

 休息。


 祈りより先に必要なものを、一つずつ整えていった。

 その間、リリアは奥の部屋で眠っていた。

 顔色は悪く、目の下には濃い影がある。


 継母が泣きながら彼女の手を握っていた。


「マリア!」


 継母は私を見るなり叫んだ。


「リリアを助けて。あなた、姉でしょう」


 私は少しだけ胸が痛んだ。

 聖女の力を譲れと言った時と同じ声だった。

 けれど今は、責め返す気にはなれなかった。


 リリアはゆっくり目を開けた。


「お姉様……」


「リリア」


「私、ちゃんと聖女になれなかった」


 涙が、彼女の目尻ににじむ。


「力はあるの。傷は癒やせるの。熱も下げられるの。でも、皆がまた倒れてしまうの。私、もっと光を強くしなきゃって思って、何度も祈って、それでも」


「リリア」


 私は椅子に座り、妹の手を取った。


「光だけで、人は元気にならないの」


 リリアは目を見開いた。


「力が足りないのではないの。眠る場所、水、食べ物、清潔な布、看病する人の休み。そういうものが足りなかったのよ」


「でも、聖女は奇跡を」


「奇跡で全部を解決しようとすると、誰かが壊れるのよ」


 それは、私自身が神殿で学んだことだった。

 リリアは唇を震わせた。


「お姉様は、どうして平気だったの」


「平気ではなかったわ」


 私は静かに答えた。


「ただ、平気な顔をしていただけ」


 リリアの涙がこぼれた。


「私、お姉様の力だけ見ていた。お姉様が何をしていたのか、見ていなかった」


「私も、ちゃんと言わなかった」


 妹の手は熱かった。

 私は冷たい布を額に乗せる。


「今は眠って。起きたら、一緒に神殿のやり方を変えましょう」


「一緒に?」


「ええ。あなたには光がある。私には、休める場所を整える力があるみたいだから」


 リリアは涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。


「お姉様らしい力ね」


「そうかしら」


「ええ。お姉様は昔から、誰かが泣いていると、泣き止ませるより先に毛布を持ってくる人だったもの」


 私は思わず笑ってしまった。


「それは褒めているの?」


「褒めているわ」


 リリアは目を閉じた。

 その呼吸が少しずつ穏やかになっていく。


 部屋の空気が、ふっと軽くなった。

 窓から入った風が、白いカーテンを揺らす。

 ベッド脇の水差しが、淡く光ったように見えた。

 エリアス神官が、静かに息を呑んだ。


「やはり……」


 私は彼を見る。


「今のは」


「安息の加護です」


 彼は穏やかに微笑んだ。


「あなたが誰かを休ませたいと願う時、この場が回復の場所になる」


 私は自分の手を見つめた。

 そこに光はない。

 けれど、リリアの呼吸は穏やかだった。

 それだけで、十分だった。


     *


 それから二週間、私は神殿に通った。

 ただし、聖女としてではない。

 神殿の病室を立て直すための、臨時顧問として。


 大神官様は最初、私を神殿に戻そうとした。


「マリア様。あなたの力は神殿に必要です」


 私ははっきり言った。


「私は神殿の所有物ではありません」


 大神官様は言葉を失った。

 以前の私なら、ここまで言えなかったかもしれない。

 けれど、もう私は聖女候補ではない。

 力を持っているから従わなければならない、という場所へ戻るつもりはなかった。


 エリアス神官が、私の隣に立つ。


「大神官様。マリア様の加護は、閉じ込めて使うものではありません。休める場所を整える力です。本人が安心できない場所では、力も歪みます」


「エリアス」


「神殿が学ぶべきなのは、マリア様を戻す方法ではなく、マリア様がいなくても人を休ませられる仕組みです」


 静かな声だった。

 けれど、強かった。


 大神官様は長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「わかった」


 その日から、神殿は変わり始めた。

 病室には窓を開ける時間が決められた。

 看病人の交代表が作られた。

 薬草茶の棚が置かれた。

 祈りの前に、患者が眠れているかを確認するようになった。

 リリアは以前のように華やかな祝福だけを見せる聖女ではなくなった。

 患者の隣に座り、水を飲ませ、必要な時だけ力を使う。


 最初は戸惑っていた神官たちも、患者の再発が減り、看病人が倒れなくなると、誰も文句を言わなくなった。


 そして私の加護は、神殿でたしかに形を見せた。

 私が整えた病室では、人がよく眠った。

 薬がよく効いた。

 泣いていた子どもが、母親の手を握って落ち着いた。

 争っていた患者の家族が、静かに話し合えるようになった。


 それは眩しい奇跡ではない。

 けれど、人が生きていくために必要な力だった。


     *


 流行病が落ち着いた頃、父が神殿へ来た。

 父は以前より少し老けて見えた。


「マリア」


「はい」


「すまなかった」


 突然の謝罪に、私は少し驚いた。

 父は視線を落としたまま続けた。


「私は、おまえがしていたことを何も見ていなかった。癒やしの力だけを聖女の価値だと思い、見栄えの良さや評判ばかり気にしていた」


「そうですね」


 私が正直に答えると、父は苦笑した。


「本当に、私は愚かだった」


「否定はしません」


「マリア」


「ですが、もう怒ってはいません」


 父が顔を上げる。

 私は窓の外を見た。

 神殿の庭では、リリアが子どもたちに薬草茶を配っている。

 以前より笑顔は少し控えめだ。

 けれど、その目は前よりずっと真剣だった。


「私は、あの町で暮らしたいのです」


「戻らないのか」


「はい」


「聖女としてではなく、神殿の顧問としてなら」


「戻りません」


 私ははっきり言った。


「私は、自分の家でお茶を淹れたいのです。朝、庭に水をやって、昼には町の人の話を聞いて、夜は自分で灯りを消して眠りたい。それが、今の私の幸せです」


 父は長い沈黙の後、頷いた。


「そうか」


「はい」


「なら、時々手紙をくれ」


「考えておきます」


「厳しいな」


「少しは」


 父は困ったように笑った。

 その顔を見て、私は初めて父も完璧ではない一人の人間なのだと思った。


     *


 私が町へ戻る日、エリアス神官も馬車の前に立っていた。

 大きな鞄を一つ持っている。


「エリアス神官?」


「私も参ります」


「どちらへ?」


「あなたの町へ」


 私は瞬いた。


「神殿のお仕事は」


「地方巡回神官への異動願いを出しました。受理されています」


「そんな急に」


「急ではありません」


 エリアス神官は、少しだけ困ったように笑った。


「あなたが神殿を出た日から、考えていました」


 胸が跳ねた。


「どうして」


「私は、あなたが聖女だから見ていたのではありません」


 彼は静かに言った。


「誰も見ていない病室で、水差しを替えていたあなたを見ていました。眠れない子のそばに座っていたあなたを見ていました。祝福の儀式が終わった後、倒れそうな見習い神官に自分の食事を分けていたあなたを見ていました」


 私は言葉を失った。

 エリアス神官は、まっすぐ私を見る。


「あなたの力ではなく、あなたの在り方を尊いと思っていました」


「エリアス神官……」


「ですから、今度は私があなたのそばにいたい。あなたが誰かを休ませる場所を作るなら、その場所を一緒に守りたいのです」


 雨上がりの空から、柔らかな光が差していた。

 神殿の白い石段が、淡く輝いている。

 かつてここで、私は聖女の力を手放した。

 自分の価値まで手放したような気がしていた。


 けれど、そうではなかった。

 私を見てくれていた人がいた。

 私が私のままでいることを、尊いと言ってくれる人がいた。


「私の店は、そんなに立派な場所ではありません」


「知っています」


「朝は早いです」


「起きます」


「薬草棚の整理には、かなりこだわります」


「記録します」


「疲れている人を見ると、お茶を出さずにはいられません」


「そこが好きです」


 私は思わず顔を伏せた。

 耳まで熱い。

 エリアス神官は、少し慌てたように咳払いをした。


「すみません。今のは、神官としてではなく、私個人の言葉です」


「……それは、もっと困ります」


「困らせるつもりはありませんでした」


「困ります。でも、嫌ではありません」


 そう言うと、エリアス神官は初めて少しだけ目を見開いた。

 そして、穏やかに笑った。


「では、まずはあなたの店で、お茶を一杯いただけますか」


 私は小さく頷いた。


「はい。温かいものを淹れますね」


     *


 それから一年後。


 私の店は、町の人たちから「安息の家」と呼ばれるようになっていた。

 朝は畑へ向かう人が眠気覚ましのお茶を飲みに来る。

 昼には子どもを寝かしつけた母親たちが、ほんの少しだけ息をつきに来る。

 夕方には仕事を終えた人たちが、今日あったことをぽつぽつ話して帰っていく。


 エリアスは、店の隣に小さな礼拝室を作った。

 豪華な祭壇はない。

 けれど、旅人が休める椅子と、誰でも読める祈りの言葉と、清潔な水差しがある。


 彼は神官として町の人の相談に乗り、私は薬草茶を淹れる。

 神殿からは、時々リリアが薬草や手紙を送ってくれる。


『お姉様へ。今月は、看病人の休憩室を増やしました。大神官様が、最近ようやく香を焚きすぎなくなりました』


 その手紙を読んで、私は笑った。

 リリアはリリアなりに、変わろうとしている。

 それでいいと思った。


 父からも、不器用な手紙が届くようになった。


『体に気をつけなさい』


 短い一文だけの手紙を読んで、私は少し笑った。

 以前なら、それだけでは足りないと思ったかもしれない。

 けれど今は、少しずつでいいと思える。

 私も、家族も、変わっていく途中なのだ。


     *


 春の終わり。

 閉店後の店で、エリアスが一冊の古い神殿記録を持ってきた。


「マリアさん」


「はい」


「安息の聖女について、続きを見つけました」


「どんなことが書いてありましたか」


 エリアスは少し緊張した顔で、記録を開いた。


「安息の加護は、一人では完成しないそうです」


「一人では?」


「ええ。休む場所を作る者と、その場所を共に守る者がいて、初めて長く続くとあります」


「それは、神官の解釈ですか」


「半分は」


「半分?」


 私が首を傾げると、エリアスは耳を少し赤くした。


「もう半分は、私の願いです」


 店の中には、薬草茶の香りが満ちていた。

 窓の外では、町の子どもたちが帰り道を走っている。

 エリアスは、古い記録の間から小さな包みを取り出した。


 中には、銀色の細い指輪が入っていた。

 飾り気は少ない。

 けれど、内側に小さな葉の模様が刻まれている。


 エリアスは言った。


「私は、あなたが選んだこの場所を、あなたと一緒に守りたくて来ました」


 私は指輪を見つめる。

 胸の奥が、静かに温かくなった。


「マリアさん。これからも、あなたの隣で、水差しを替え、窓を開け、疲れた人のために椅子を用意する役目を、私にいただけませんか」


 求婚の言葉としては、少し変わっている。

 けれど、私にはそれが一番嬉しかった。

 華やかな言葉よりも、奇跡のような約束よりも。

 日々を一緒に整えてくれるという言葉が、何より胸に届いた。


「エリアス」


「はい」


「私は、聖女ではありません」


「知っています」


「朝は早いし、薬草の乾燥にはうるさいです」


「知っています」


「疲れている人を見ると、予定がずれてもお茶を淹れてしまいます」


「その時は、私が予定を書き直します」


 私は笑ってしまった。

 そして、そっと手を差し出した。


「では、これからも一緒に、この場所を守ってください」


 エリアスは、心底ほっとしたように笑った。


「喜んで」


 彼が私の指に指輪を通した瞬間、店の中に柔らかな光が広がった。

 眩しい聖女の光ではない。

 ろうそくの火のように穏やかで、毛布のように温かい光だった。

 壁際の薬草が、さらさらと葉を揺らす。

 棚のカップが、かすかに音を立てる。

 そして、店の扉に掛けた看板の文字が、淡く浮かび上がった。


『安息の家』


 エリアスが小さく笑った。


「どうやら、加護も認めてくれたようです」


「大げさですね」


「いいえ」


 彼は私の手を包み込む。


「あなたが選んだ幸せを、祝福しているのだと思います」


 その言葉に、私は少し泣きそうになった。


「マリアさん」


「はい」


「今日のお茶は、私が淹れてもいいですか」


 エリアスが、少し照れたようにそう言った。

 私は思わず瞬いた。


「エリアスが?」


「ええ。いつもあなたが誰かのために淹れてくれるでしょう。今日は、私があなたのために淹れたいのです」


 その言葉に、胸の奥が静かにほどけていく。

 聖女だった頃、私はいつも誰かを癒やす側だった。

 神殿を出てからも、疲れた人にお茶を淹れ、休める場所を整え、誰かが少し楽になる姿を見ることが嬉しかった。


 でも、私自身も休んでいいのだと。

 誰かに温かいものを差し出されてもいいのだと。

 エリアスは、言葉ではなく、その手で教えてくれようとしていた。


「では、お願いします」


「はい」


 エリアスは丁寧に湯を沸かし、私がいつも使う薬草棚から、眠る前に飲む茶葉を選んだ。

 少し不慣れな手つきだったけれど、急がず、こぼさず、真剣に湯を注いでいく。

 店の中に、やわらかな香りが広がった。

 湯気の向こうで、エリアスが微笑む。


「どうぞ、マリアさん」


 差し出されたカップを、私は両手で受け取った。

 温かかった。

 ただのお茶なのに、胸の奥までゆっくり満たされていくようだった。


「おいしいです」


 私がそう言うと、エリアスは心底ほっとしたように笑った。


「よかった」


 その笑顔を見て、私は少し泣きそうになった。


 聖女の力を妹に譲った日、私は自分の価値まで手放したのだと思っていた。

 けれど、そうではなかった。

 私の中に残ったものは、思ったよりずっと多かった。


 人の疲れに気づくこと。

 眠れない人に温かいお茶を出すこと。

 泣いている人の隣に、黙って座ること。

 自分の暮らしを自分の手で整えること。

 そして、私を大切にしてくれる人の手を、自分から取ること。


 私はもう、癒やしの聖女ではない。

 けれど、この場所には私の加護がある。

 私が私のままで笑える家がある。

 隣で同じ未来を見てくれる人がいる。

 そして今日、私のためにお茶を淹れてくれる人がいる。


 奇跡の光は、もう私のものではない。

 けれど、温かいお茶がある。

 帰る家がある。

 隣で笑ってくれる人がいる。

 誰かが疲れた時に、休んでいける場所がある。

 そして私自身も、ここで休んでいい。


 それが、私の普通の暮らし。

 そして、私がようやく選び取った、私だけの幸せだった。

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