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第五話 加速する世界

 林大輝は走っていた。


 比喩ではない。文字通り、品川駅からオフィスまでの道を全力疾走していた。朝九時の打ち合わせに、あと三分で間に合うかどうかという瀬戸際だった。


 昨夜、AI営業支援ツール「HERMES(ヘルメス)」の設定作業が深夜まで続いたのだ。DX推進室と営業部の合同プロジェクトとして、林が現場責任者を務めている。二十七歳にしては重い役割だが、沢村室長が推薦してくれた。その期待に応えたかった。


 息を切らしながらオフィスに滑り込むと、営業部のフロアでは同僚たちがすでに席についていた。


「林くん、また走ってきたの?」


 隣の席の先輩、栗原が呆れたように言った。四十一歳、営業歴十七年のベテランだ。


「すみません、昨日の設定作業が──」


「HERMESとかいうやつでしょ。あれ、今日から本格運用なんだっけ」


「はい。今朝の朝会で説明します」


===================================


 朝会で、林はHERMESの概要を説明した。


「HERMESは、顧客データの分析、提案書の自動生成、リアルタイムの市場動向把握を統合した営業支援AIです。まず、顧客ごとにカスタマイズされた提案資料を自動生成できます」


 営業部の面々は、複雑な表情で聞いていた。


「次に、商談前のブリーフィング自動生成。顧客企業の最新の財務情報、業界動向、過去の取引履歴、SNSでの発信内容まで分析し、最適なアプローチ戦略を提案します」


「SNSの発信内容って、それ大丈夫なの? プライバシー的に」栗原が聞いた。


「企業の公式アカウントと、役員の公開投稿に限定しています。個人のプライベートな情報は対象外です」


「ふーん」


 栗原の反応は冷めていた。営業部の他のメンバーも同様だった。理解はしているが、受け入れてはいない──そういう空気だ。


===================================


 最初の実戦は、その日の午後に訪れた。


 林は、かねてから取引のある半導体メーカー・東翔エレクトロニクスの調達部長との面談を控えていた。桐島精機の精密研磨機の更新案件で、競合のHuaCore社と激しく争っている案件だ。


 面談の一時間前、林はHERMESにブリーフィングを依頼した。


 AIが返してきた分析は、予想以上に精緻だった。


『東翔エレクトロニクスは先月、次世代パワー半導体の量産計画を発表。設備投資額は前年比四十パーセント増。調達部長の山田氏は、先週の業界カンファレンスで「品質と納期の安定性を最重視する」と発力。HuaCore社の最新機種は価格優位性があるが、アフターサポート体制に課題あり(中国からの遠隔サポートに遅延報告複数)。推奨アプローチ:価格競争を避け、品質保証とオンサイトサポートの強みを前面に出す。具体的には──』


 提案書のドラフトまで自動生成されていた。林が通常三時間かけて作る資料が、五分で出来上がっている。


「すごいな……」


 林は素直に感動した。だが同時に、奇妙な感覚も覚えた。これだけの準備をAIがしてくれるなら、自分が面談に行く意味は何だろう。


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 面談は、東翔エレクトロニクスの本社で行われた。


 調達部長の山田は、五十代の穏やかな男性だった。林は何度か面識がある。


「林さん、今日はどういったご提案で?」


 林はHERMESが生成した提案書をベースに、プレゼンを始めた。品質データ、納期実績、サポート体制──すべてが論理的に構成されている。山田も感心した様子で聞いていた。


 だが、プレゼンの途中で山田が言った。


「林さん、資料は立派ですね。ただ、一つ聞いていいですか」


「はい、何でしょう」


「この提案、AIが作ったものですか?」


 林は一瞬、固まった。


「……ベースはAIが分析したデータですが、最終的な構成は私が──」


「正直に言っていただいて構いませんよ」山田は笑った。「実は、うちもAI調達システムを導入していましてね。御社のAI提案と、HuaCore社のAI提案を、うちのAIが比較分析しているんです」


 林は言葉を失った。


「AIが作った提案をAIが評価する。面白い時代ですよね。で、うちのAIの分析結果は、コストパフォーマンスではHuaCore社がやや優位。品質とサポートでは桐島精機がやや優位。総合的には、ほぼ互角です」


「では──」


「だから、最終判断はAIには任せないんですよ」山田は真剣な目で林を見た。「AIが『互角』と言うなら、決め手は人間が持ってくるしかない。林さん、あなた個人として、私に何を約束できますか」


 その瞬間、林は理解した。HERMESがどれだけ完璧な提案書を作っても、最後に問われるのは「人間としての覚悟」なのだと。


「山田さん」林は提案書を閉じた。「正直に申し上げます。スペックやコストでは、うちがHuaCore社に勝てない部分もあります。でも──」


 林は自分の言葉で話し始めた。AIの分析ではなく、自分が営業として現場で感じてきたこと。


「先月、御社の名古屋工場で研磨機のトラブルがあったとき、うちのエンジニアが深夜に駆けつけて、翌朝までに復旧しました。あのとき現場で聞いた話では、ラインが止まると一時間あたり二千万円の損失が出ると。HuaCore社の中国からの遠隔サポートでは、あの対応ができるとは思えません」


 山田は黙って聞いていた。


「AIの分析には出てこない話です。でも、いざという時に電話一本で駆けつけられるかどうか──それが製造業の信頼だと、僕は思います」


 山田はしばらく沈黙した後、小さく頷いた。


「林さん、あなたの言葉には、データにはない重みを感じます。社内で検討させてください」


===================================


 帰りの電車の中で、林は考えていた。


 HERMESは素晴らしいツールだ。提案書の作成時間は十分の一になった。顧客分析の精度は格段に上がった。だが──


 山田さんが求めていたのは、データではなかった。人間の言葉だった。


 スマートフォンにHERMESからの通知が入った。


『本日の面談分析:山田氏の反応パターンから、推定成約確率は62%。競合を上回るには、追加の価格交渉が有効と推定。推奨値引き率:5-8%。』


 林はその通知を見て、少し笑った。


「違うんだよな」


 HERMESには、あの場で山田さんの目が動いた瞬間は分からない。「あなたの言葉には重みを感じる」と言ったときの、あの微かな感情の揺れは検出できない。


 そしてそれは、値引き五パーセントよりも、きっと価値がある。


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 翌週、東翔エレクトロニクスから受注の連絡が入った。


 林は沢村に報告に行った。


「受注おめでとうございます」沢村は微笑んだ。「HERMESの効果ですか?」


「半分はHERMESのおかげです。分析と準備は完璧でした。でも──」


「でも?」


「最後に決め手になったのは、AIの分析には載っていないことでした。人間同士の関係、信頼、覚悟。そういうものです」


 沢村は頷いた。「それが、AI駆動経営の本質かもしれませんね。AIが八割を準備して、人間が残りの二割で勝負する。その二割に、全ての価値が凝縮される」


 林はその言葉を、深く胸に刻んだ。


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 だが、すべてが順風だったわけではない。


 営業部のベテラン、栗原は、HERMESの導入後も従来のやり方を変えなかった。


「林くん、悪いけど俺はAIの提案書は使わないよ」


「栗原さん、せめて試してみてもらえませんか。データ分析だけでも──」


「俺の客は、俺が二十年かけて築いた関係で回ってるんだ。AIにその関係は分からないし、分かってほしくもない」


 栗原の担当する顧客は、従来型の製造業が多い。長い付き合いの中で培われた信頼関係は確かに深い。だが、その顧客企業自身がAIを導入し始めている今、栗原の「従来型」のアプローチがいつまで通用するかは分からない。


 林には、栗原を説得する言葉がなかった。正論を言えば言うほど、溝が深まる気がした。


 変化は、全員に同じ速度では訪れない。


 その当たり前の事実が、こんなにも重いとは思わなかった。




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