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第5話 ぬるま湯と毒気


 ◇◇◇


 アシェルが草原の城に来て、およそ十日ほどが経った。

 ジュダとの生活は、今までにないくらいに穏やかなものだった。

 朝昼晩の三食と、ジュダは懲りずに豪勢な食事を振舞ってくれて、何ならおやつまで食えと半ば無理やりに間食まで摂らされる。

 おかげで、あちこちの骨が浮くまでにか細かったアシェルの身体は、少しだけ肉が付き始めた。

 これはジュダと出逢って初めて気が付いたことだが、アシェルは極端に手先が不器用だった。そのため、食事の際も食べ物や汁物をこぼしてしまうことが多く、アシェルは度々ジュダによって湯浴みへと連行される。

 そしてアシェルは濡れた髪の毛を自分で拭うことすら下手くそで、衣服の留め具はいつも掛け違えてばかり。それゆえに、ジュダはまるで使用人の如く、アシェルの世話を徹底的に焼いた。


 アシェルの濡れた髪は丁寧に拭って、香油までつけてくれる。

 アシェルが中途半端にしか着られない衣服は、手ずから着るのを手伝ってくれる。

 アシェルの食べこぼしは全て、綺麗に掃除してくれる。


 この十日間で、アシェルは散々思い知らされた。ジュダの言う通り、本当に己は、人殺し以外の能が全くもって皆無なのだと。無能でしかないのだと痛感し、アシェルは己を恥じた。

 しかし、ジュダがあまりにも満足そうにふんぞり返って、「お前には無能の才がある。そのままでいろ。最高だ」と宣うので、恥じ入る気持ちはすぐに何だか馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 そんなぬるま湯のような生活。生まれて初めてのようで、懐かしいばかりの生活。

 アシェルはそのぬるま湯へと徐々に適応していっている自分が、何だか恐ろしくなっていた。自分が自分ではなくなりそうで、怖くて――しかし、ジュダに世話を焼かれるのは、悪い気もしなくて。


(わたし……このままでいい、のかな……何だか、こわい)


 昼食の後。アシェルは城の外に広がる草原の柔い草むらの中に寝ころびながら、そうやって日々の穏やかな生活に対して、悶々と悩んでいた。

 こうやって昼食後に草むらへと寝転がり、ぼうっと葛藤やら物思いに耽ることが、近頃のアシェルの日課となっている。

 花草のほろ甘くて青臭い香りは、アシェルの苦悩をすっと、少しだけ洗い流してくれる気がするのだ。


「ここに居たか」


 不意に、ジュダの声が耳に入った。アシェルは「……めずらしい」と目をしばたたかせながらも身を起こして、ジュダの方を振り返る。草原の城から出てきたジュダは、どこかげんなりとしたような顔をしている。思わずアシェルは首を傾げた。


「? ……変な顔。どうしたの?」

「面倒な奴が来た」


 ジュダが顎を振って見せる。アシェルは立ち上がりざまに、ジュダが顎を振って見せた方を振り向く。そこには、街道を走ってくる馬車が見えた。馬車は城から少し離れた位置で止まると、中から一人の男が出てくる。

 ジュダよりは小柄だが、ひょろっとしていて長身ではある。重たそうな、しかし美しい調和のとれた白黒のローブを身に纏った、白銀の髪をうなじ辺りで一つに括り、何とも胡散臭そうな糸目が特徴的な男。

 アシェルがその男を認識して少しだけ間を置いた後、また呪いのような強迫観念が本能的に身体を突き動かした。


「殺す」


 アシェルは口の中で詠唱を唱えつつ、片手を軽く伸ばして、糸目の男に向かって結界魔術を放とうとする。

 殺すならば、結界の矛で貫くか、結界の鳥籠で圧死させるか――。


「やめろ。無能」


 魔術を発動させようとしたアシェルの腕は、ジュダの大きな手に掴まれたことによって抑えられた。

 アシェルはそこでようやく我に返って、はっと息を呑むと、弾かれたようにジュダを見上げる。

 ジュダが掴んでいるアシェルの左手首には、「不殺の呪い」の刻印が蠢いていた。アシェルはそれに視線を移しながら、ぽつりと小さくジュダに尋ねる。


「……この呪い、発動したら。わたし、どうなる?」

「お前に魔術が跳ね返り、下手すればお前が死ぬ。まあ俺は、お前が盛大な無能っぷりを披露してくれるのは大歓迎だが」


 ジュダがそう淡々と答えると、アシェルの手首を離した。

 アシェルは己の左手首を握りしめながら、顔を俯かせて震える吐息を零す。


「ごめんな、さい。わたしが死ぬのはいいけど……人を殺そうとするの、やめられなくて……」


 アシェルの弱々しい謝罪に、ジュダがどこか意外そうな顔をして、微かに目を瞠った。しかし、すぐにいつもの如く高圧的に鼻を鳴らすと、肩を竦めて見せる。


「前よりも、人を殺そうとする本能は抑えられていた。お前今、殺そうとするのにそこそこ時間を置いていたぞ。それに長年の癖というものは、なかなか抜けないものだ。あと、簡単に死のうとすんじゃねえ。俺はポンコツが傍に無いと、落ち着かない」


 いつもとそう変わらないはずの、ぶっきらぼうなジュダの言葉。しかし、今のジュダの言葉にアシェルは、抜け出せない泥沼に沈んでいた己の心が、掬い上げられたような心地がした。

 それにしても、先程はアシェルが死んで無能っぷりを晒すのを見るのは大歓迎と言っていた癖に、そう簡単に死ぬなと言い張るのは、何だか言っていることがちぐはぐで、矛盾しているようにも思えるが。

 アシェルは俯いていた顔を上げて、ジュダの横顔を見つめながら、小さく「うん」と頷いて見せる。するとジュダはやはり偉そうに鼻を鳴らした後、こちらへと向かってくる糸目男に視線を戻しながら盛大な舌打ちを鳴らした。

 どうやらジュダは、あの糸目男と顔見知りらしい。アシェルは気になってジュダに尋ねる。


「あの人。誰?」

「……カシアン・カロン。カロン男爵。ニミリエル王国魔法防衛大臣。広い分野の魔術に精通し、膨大な魔術知識を擁しているゆえに『叡智のカロン・バロン』などと呼ばれてる。博識有能カス野郎だ。俺に戦争に出ろとしつこく催促してくる。死ねばいい」


 ジュダは半眼になって、如何にも嫌そうな顔をしながらも糸目男――カロンのことを教えてくれる。そうしてジュダは、がしがしと己の黒髪を煩わしそうに掻き乱して、大きなため息を吐き出すと、カロンのもとへ向かってのそのそと歩き出した。


「有能カス野郎を追い払ってくる。お前は城に戻れ」


 そう残して、ジュダはカロンのもとへと行ってしまった。

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