第3話 懐古と罪業
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ニミリエル王国の南西部、代々メイヴェン公爵家が治める広大なメイヴェン領。
中でも国境に近い草原地帯に聳え立つ、ジュダの別荘地へとアシェルは連れてこられた。
ジュダ曰く「王都みたいな都会はクソ。住むなら田舎だ」ということらしいが、ジュダの別荘地の近くには、それなりに大きな街が賑わっていて、田舎にしては住みやすそうな場所だと密かにアシェルは思う。
ジュダが「草原の城」と呼ぶ、ジュダの邸宅に到着して早々。アシェルはほとんど身包みを剝がされたかと思えば、ジュダによって浴室へと放り込まれた。
確かにアシェルは全身が血と泥に塗れて半ば黒ずんでいたので、ジュダは汚れを城にまき散らしたくなかったのだろう。同然のことかもしれない。だがアシェルは、浴室にてしばらくぼうっとすることしかできなかった。
綺麗に磨かれた、石材の広い浴室。その濡れた石床を慎重に踏みしめて、アシェルは「どぼん」と湯船に身体を落とす。湯浴みをするなど、いつぶりだろう。
一気に全身が湯の柔らかな感触と、じんわりとした熱に包み込まれて、思わずアシェルは「ほう」と息を吐き出した。
湯の水面には、何やら真紅の糸が漂っている。これは何だろう? とアシェルは思って、真紅の糸を掬い上げる――引っ張ると、頭皮に痛みが走る。それは、アシェルの髪の毛だった。
アシェルは緩やかに目を瞠って、湯の水面を見つめる。水鏡に映るのは、アシェルの姿。
獅子の鬣の如く癖のある、真紅の長い髪。微かに黄色みがかった、火花のような色をした赤い瞳。
久方ぶりに、色を取り戻したこの目で――己の姿を、思い出した。
『アシェルの髪は、綺麗な赤毛だなあ』
ぶわりと。突如、脳裏の深奥へと閉じ込めていたはずの古い記憶が、鮮烈に蘇る。
『アシェルの髪と目は、父さんと同じ。終わりゆく星の色だ』
それは、イスカンダル帝国が第三皇子に殺された男――かつてのアシェルの、唯一の家族。アシェルの父の記憶だった。
アシェルの父は、アシェルとよく似た顔つきをしていた。赤い星に似た、アシェルと同じ髪色と、目の色をしていた。
よく、一緒にこうして湯船に浸かって、お湯をかけあって遊んだ。互いの髪を、洗い合った。互いの背中を流し合った。楽しい出来事や、寂しい夜のこと、日々のささやかな喜びを、ぽつぽつと語り合った。
湯船の水面に写るアシェルの姿を通して、アシェルは幾年ぶりかに、父と再会したような気分に陥る。
「……おとうさん……?」
湯船に写る自分自身に、そう呼びかけたが最後――自分に、父の姿を視てしまったが、最後。アシェルの両の目から、湯と同じくらい熱い何かがぼたぼたと溢れ出てきた。
湯船に無数の熱い水が滴り落ちて、波紋を描き、波が立つ。
(……なに、これ。兵器のわたし、泣いたら駄目なのに)
内心では今すぐに泣き止まねばならないと、己の肉体に制止をかける。だが、そんなアシェルの思いも虚しく、熱い涙は止まらない。
「……おとうさん……っく……う……」
ついには、嗚咽まで漏れ出てきてしまった。
アシェルはもう、自制が効かなくなって、己の顔を小さな両手で覆い隠すと、ひっきりなしにしゃくりあげる。頭から湯を被って、髪を掻き乱し、ぶるぶると震えながら原因不明の心臓の痛みに、悶え苦しむ。
「おとう、さん……おとうさん、おとうさん、おとうさん……! おとうさん、どんな顔、してた? どんな声、してた? わたしの顔と似てた。あんな言葉を、言っていた……事実は思い出せる。でも……表情とか、声色は……思い、出せない……!」
アシェルは湯船の中で、ひとしきり、獣が唸るように泣いていた。
(くるしい、くるしい、くるしい……くるしくて、わからない……!)
浴室から上がったアシェルは目を腫らし、ジュダに与えられた衣服を中途半端に着ていながらも、頭のてっぺんから爪先まで、どこもかしもびしょ濡れのままであった。
浴室から出て、長い廊下をとぼとぼ歩いているアシェル。アシェルが歩いた跡は、これでもかと水浸しになっていた。そこでふと、俯いて歩いていたアシェルは黒くて硬い壁にぶつかる。
「遅い。しかもお前、濡れ鼠に退化している。俺の城を水浸しにするつもりか?」
頭上から、皮肉交じりの低い声が降ってきた。皮肉を吐いているにしては、どこかその声は弾んでいるようにも思える。
そんなことをぼんやりと考えながら、のろのろとアシェルは声の主を見上げる。そこに居たのはやはり、この草原の城の主。ジュダだった。
「一人でまともに身を拭うこともできない。服を着ることすらもできないとは――」
ジュダの言葉にアシェルは目を瞑って、顔を俯かせる。きっと罵倒されて、殴られるだろうと思ったのだ。
かつてはイスカンダルの第三皇子に、アシェルはよく「こんなことすらできぬのか!」と何度も殴られては蹴られ、鞭で打たれ、怒鳴り散らされていた。そういうことには、慣れている。アシェルは痛みに備えて、微かに全身を強張らせた。
「よし。良い無能っぷりだ」
アシェルが思い描いていたものとは、全く違う言葉が降ってきた。アシェルは思いがけず、大きく目を瞠ってジュダを見上げる。
するとジュダは鼻を鳴らして如何にも満足そうに頷くと、どこから取り出したのか、大きな浴用布を広げて、アシェルの頭から全身をすっぽりと覆った。
アシェルは咄嗟に後退って、布越しにアシェルを追いかけてくるジュダの手から逃れようとする。
「う、わ……なに……!」
「怖がるな。拭いてやる。じっとしろ」
ぶっきらぼうな低い声からは、到底考えられないような――赤子にでも触れるような、あまりにもやさしい手つきで、アシェルはジュダに引き寄せられる。
ジュダの両手は、アシェルの頭を簡単に覆い尽くせてしまうほどに大きい。そんな分厚くて存外武骨な手が、アシェルの濡れた髪の水分を丁寧に拭い取って、着方がわからなくて乱れたままだったアシェルの衣服を器用に整えていく。
終始、本当にやさしい手つきだった。
『アシェル。人を傷つけてはいけないよ。誰かを傷つければ、きっとアシェルも傷ついてしまうからね』
アシェルはそんなジュダの手から――ついさっき思い出した父の大きな手を、想う。重ねてしまう。
父の言葉が、父の教えが、聞こえる。蘇ってくる。その記憶の全てが、今のアシェルの――〈矛神レゲンデーア〉の心をずたずたに突き刺し、引き裂くような痛みを伴わせる。
父は、今のアシェルを見て何を思うだろう。誰かを殺さないと生きていけない――人殺しの兵器へと成り果ててしまったアシェルを、娘だと思ってくれるだろうか。それを考えるだけで、アシェルは頭がおかしくなりそうだった。途轍もない苦痛に見舞われた。それでも――。
(くる、しい……くるしい、くるしい、くるしい……だけど……なつか、しい……!)
もう湯浴みの時に全て流し切ったと思っていたはずの涙が、また次々と零れ落ちてゆく。
涙は枯れることはないのだと、アシェルは思い知った。
嗚咽を漏らし、身体を大きく震わせて泣き出したアシェルを気にした風の欠片も無く。ジュダは相変わらず酷くやさしい手つきで、アシェルの髪を拭い続ける。
やっぱりその手つきが、どうしようもなく懐かしくて。アシェルは小さく、振り絞るように、叫びをあげた。懺悔した。
「ご、ごめ……ごめんな、さい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! 忘れてて……忘れてしまって、ごめんなさい……!」
きっと、この苦しみと痛みが消えることは一生ないのだろうとアシェルは悟った。それがアシェルが背負うべき罪であり、業なのだと。
アシェルの苦悩と、苦痛と、懐古が入り混じった叫びを聞いたのか。ジュダがまた高圧的に鼻を鳴らして、何故だか満足そうに、勝手にアシェルの声へと応える。
「何を忘れていたか知らないが。その記憶もポンコツそうで何より」




