第16話 夜の怪物に祈る
ジュダとまともに口がきけなくなって、三日が経った。
今日のジュダは街に出かけているので、アシェルはひとりで一週間ぶりに城を訪れるカロンの出迎えをしなければならない。
アシェルが城門にてカロンを待っていると、間もなくしてカロンの馬車が到着した。馬車を降りて、こちらに向かって手を振りながら歩いてくるカロンのもとに行こうと、アシェルは駆け出そうとする。
しかし、不意に――視界が反転した。
(あ、れ……?)
アシェルが己の口からついて出たと思った言葉は、声に成らない。喉が酷く枯れていて、音にすらならなかったのだ。
そうして気が付いた時には、アシェルは地面に倒れ込んでいて、地平線と空の境界を見つめることしかできない。
どんなに身体を起こそうとしても、アシェルは「ぱたり」と力なく、地面に突っ伏してしまう。上手く身体が動かせない。心なしか、視界もぼやけて、ぐにゃりと歪んできた。
「アシェル君!?」
慌てた様子のカロンの声が大きく上がり、走る音が近づいてくる。
アシェルの意識は次第に遠のいていって、カロンの気配がすぐそばまで近づいてきたことを悟った時には、ぷつりと意識の糸が千切れる感覚がした。
◇◇◇
アシェルが目覚めた時、一番に目に入ってきたのは見慣れた天井だった。
ジュダに与えられた自室。その寝台の上にいるのだろうと即座に状況を把握したアシェルは、すぐさま身体を起こそうとする。
しかし、軽い眩暈が襲ってきて、アシェルの起こされた上体はふらつくと、また寝台へと「ぽすん」と逆戻りしてしまった。
「あ。アシェル君! 起きなくていいから、そのままでいて!」
ふと、自室の扉辺りからカロンの声が聞こえてきた。
アシェルがそちらを振り向こうとする前にカロンはアシェルの傍へと駆け寄ってきて、寝台の脇にある椅子に座ると、アシェルの顔を心配そうな顔をして覗き込んできた。
「アシェル君、少し高めの熱が出て倒れたのよ。俺が倒れたアシェル君をここまで運ばせていただいたんだけど……勝手にアシェル君の部屋、入っちゃってごめんね。今の気分はどう?」
カロンの問いに、アシェルは未だに霞がかっているような思考を何とか回しながら、ゆっくりと目をしばたたかせた後、口を開いた。
「……少し、ぼうっとするだけ。だいじょうぶ。迷惑、かけてごめんなさい……カロン」
「迷惑なわけないでしょう。声もちょっと枯れてるかな。お水持ってくるね」
カロンはてきぱきと動いて、アシェルに吸い飲みで水を飲ませた。
アシェルは少しずつ水を口に含ませて、喉を潤す。
アシェルは内心で、ぽつりと何となしに呟いた。
(ひとりで水も飲めないなんて。ほんとうにわたし、無能。ジュダが喜びそう、だな……)
こんな時でも一番に考えてしまうのは――ジュダのことだった。
吸い飲みから口を離して、再び寝台に横になったアシェルの目から、温い水が静かに流れていった。
何故、こんなものが流れるのかはわからない。ジュダに拾われてからのアシェルの涙は、枯れることを知らなかった。
「アシェル君が眠ってる間。医術師を呼んで診てもらったんだけど……心労と過労によるものだろうって」
吸い飲みを近くの卓に置いてきたカロンが椅子に座ってそんな報告をしてくると、アシェルが泣いている理由は聞かぬまま、確信を持ったような声でアシェルに語り掛けてきた。
「ジュダ君と何かあったね。俺に全部、吐き出してちょうだいな。ね、何でも聞かせて? アシェル君」
糸目を伏せたカロンの声は、いつもより一層柔らかく、穏やかだ。
そんなカロンのやさしい声にいざなわれるかのように、いつの間にかアシェルは、ぽつぽつと口を開いていた。
「……ジュダとお話。ずっとできてないの。それがすごく、こわくて……」
「そっか。不安になるね」
「うん。それに……ジュダに、言われたんだ。ジュダ、わたしを見てると……悪夢を見るって。よくわからなかった、けど……」
愚かで、「有能」だと唆された……クソみたいな道具の夢を見るんだって。
そうアシェルが先日ジュダから言われた言葉を繰り返すと、カロンが糸目を大きく瞠って一瞬だけ固まったようだった。
「ああああ……! 成程、そういうことね……」
しかし、すぐにカロンは何やら歯痒そうな声を漏らし、両手で頭を抱えて天井を仰ぐと「あの馬鹿変人……この子を自分と重ねちゃったか……」と独り言ちる。
アシェルはそんなカロンに首を傾げたが、すぐに小さく息を吐いて、未だに止まらない涙をぐしぐしと服の裾で拭った。拭っても拭っても、ほろほろと温い水の珠は溢れ続け、止まる気配がしない。
「涙の止め方、忘れたみたい……やっぱりわたし、無能」
アシェルは大きく肩を落として、涙を流したまま己を皮肉る。
そんな如何にも落ち込んでいるアシェルを見て、カロンが眉を下げて珍しく胡散臭くない微笑を浮かべると、アシェルの皮肉の籠った独り言に応える。
「それならジュダ君は喜ぶね。あの人、無類の無能好き変人だから」
カロンがアシェルの顔を再び覗き込むと、明るい声で語り掛けてくる。
「大丈夫。今回の件、アシェル君は何も悪くないよ。悪いのはぜーんぶ、いい年して自分の情緒がどうなっているのかすら把握できていない、鈍感クソ野郎のジュダ君の方だから」
「……そう、なの……?」
「うん。絶対そう。これだけは間違いない。だからアシェル君は、そんなに苦しそうに泣かなくていいのよ」
そろそろと伏せていた目蓋を上げたアシェルの涙を、カロンが手巾で丁寧に拭ってくれる。そうすると少しずつ、涙が収まってきた。
「でもね、アシェル君。それでも根気強く、ジュダ君に話しかけてくれると助かるなあ。きっとアシェル君なら――地べたに張り付いてずっと身動きが取れないでいる、ジュダ君の手を引けると思うんだ。それはたぶん、俺にはできないこと」
アシェルが「どういうことだろう?」と首を傾げて、目をしばたたかせる。
するとアシェルの赤い糸のような睫毛の上に乗った、水の珠が弾けた。それを最後に、アシェルの涙はひっそりと止まる。
カロンが不思議そうな顔をしているアシェルに、また柔らかに微笑みかけると、アシェルの身体へと毛布を掛けなおしてくれた。
「さて。もうしばらくお休み。アシェル君。大丈夫だよ――次に目が覚めた時には絶対に、ジュダ君とお話しできるから」
カロンが、アシェルの身体を毛布の上から「ぽんぽん」と叩いてくれて、穏やかな眠気にアシェルは包まれる。アシェルは目を閉じ切る前に、「かろん。ありがとお」と心からの感謝を舌っ足らずに伝えて、再び深い眠りへと落ちていった。
◇◇◇
とうに夜は更け切った。
そんな深夜に、アシェルの意識は緩やかに覚醒した。
アシェルは細く薄目を開けるが、辺りは深淵のような闇が蔓延っていて、何も見えない。
しかし、アシェルが横たわっている寝台の傍に、何かを感じた。
(……?)
耳を澄ましても、何も聞こえない。
まるでこの常闇が、あらゆる光も音も、全て呑み込んでしまったかのようだった。
それでもアシェルは、自分の傍に何かが在ると、本能的に感じた。
(だれか、いる……)
きっとそうだと思った。
でも、物音どころか呼吸の音すら聞こえない。
そこに居るのは、人間ではないのかもしれない。
この常闇から生まれ出た、怪物なのかも。
アシェルは覚醒しきっていない頭でそんなことを考えながらも、毛布の中から両手を出して、十本の細くて白い指を顔の下辺りできゅっと組み合わせた。
「……ジュダに……逢えますように……」
アシェルは眠気まなこのまま、しかしただひたすらに、祈った。
祈らずにはいられなかった。
己の傍に佇んでいるのが、夜の怪物であろうと。
それがジュダだったらいいと。ジュダでありますようにと。
アシェルは祈る。
「祈るか……かつての俺への、当てつけのようだ」
ふと、もう随分と聞き慣れた低音の声が、すぐ近くで響き渡った。酷く懐かしそうな、今までに聞いたことがないような声色。それでも確かに、耳なじみがある声。
その声が誰のものか理解した時、アシェルの意識はようやく一気に冴えわたって、アシェルは跳ねるように寝台から飛び起きる。
辺りを見回せばもう誰もいないが――微かに自室の扉が開かれているのがわかった。
「ジュダ……ジュダだ……!」
アシェルは思いがけず、廊下に飛び出した。遠くから、「カツン、カツン」と軍靴の踵が鳴る音が聞こえてくる。アシェルはその音を頼りに、闇夜の中を駆け出した。
次第に目が闇に慣れ、夜目が利いてくると、草原の城のどこを走っているのかわかるようになる。
頭もさっきより冷静に冴えてきて、アシェルはジュダが懐かしそうに呟いていた言葉を、脳内で反芻した。
『祈るか……かつての俺への、当てつけのようだ』
あれはきっと、アシェルが「ジュダに逢いたい」と祈った様子を見て、零れた言葉だったのだろう。
そしてジュダの口ぶりから察するに――ジュダも、さっきのアシェルと同じように。誰かに逢いたいと祈る夜があったのだろうか。
アシェルはそんなことを想いながらも、駆ける足を速める。
(ジュダは悪くない。わたしがたぶん、ジュダが望まない方向を歩こうとするから。ジュダは逃げる……今、どうすればいいのかはわからない。それでも、このままは嫌)
アシェルは魂の深奥から、勇気を振り絞る。
(わたしはジュダに逢いたい)
今夜こそは、ちゃんとジュダと目を合わせて、ジュダと話をするのだと。
そう決意を固めて、アシェルはジュダが鳴らす軍靴の音を追って、風のように走った。




