第12話 名前が付けられないもの
逃げ惑っていた人々は、火蜥蜴の脅威が突如として全て消え失せてしまったことに皆、啞然としている。
そんな人々にも構わず、アシェルはとことこと街の中心に在る広場までまた歩いてくると、きょろきょろと辺りを見回した。
「火もいっぱい、あがってる」
「アシェル――おい、アシェル!」
アシェルが独り言を呟いていると、不意に遠くから名を呼ばれた。
その声が珍しく「アシェル」と名を呼んでくれることに、何だか擽ったい気持ちを抱きつつも。滅多に聞かない大声を上げて、こちらに駆け寄ってくるジュダと、その後ろを息を切らしながら必死の形相で追いかけているカロン、二人の方をアシェルは振り向いた。
「ジュダ。ちょっと、待ってて」
「な……はあ!?」
すぐにアシェルのもとに駆け付けたジュダに、アシェルはそう短く言い付けると、ジュダがすっとんきょうのような声を上げる。そんなジュダを気にもせず、アシェルはステッキを軽く掲げて、指揮棒の如く振るった。
すると、街中のありとあらゆる建物に、ぴったりと硝子が張り付いたような結界魔術が展開された。
途端に、あちこちで上がっていた火の手が、あっという間に消え去ってしまう。
それを目にしたジュダが酷く驚愕したように目を瞠ると、しばらく茫然とした後、火が消えた建物群からゆるゆるとアシェルに向き直る。
「お前、今のまさか……空気を結界外に排除する魔術式を即興で創り上げ、結界魔術で覆い尽くした建物群を真空状態にすることで火を消したのか……?」
「あ……うん。そう。よくわかるね、ジュダ」
ジュダが見事にアシェルの行使した魔術を全て言い当てたので、アシェルは思わず感心しながらも、控えめに頷いて見せる。
そこで、ようやくジュダに追いついてきたカロンも、アシェルの魔術を目の当たりにしたのか「……ちょっとちょっとちょっと、待って。街中の人間全員に結界張って、同時に火蜥蜴も全部倒して色々意味わかんないんだけど……え? アシェル君、即興で魔術式創れるの? え? ド天才?」と何やら息を乱しながらもぶつぶつと零している。
アシェルは自分のもとに駆け付けてくれたジュダとカロンに向き直ると、何となく気まずい思いで視線を漂わせながら、小さく頭を下げた。
「あの……魔術、勝手に使った。ごめんなさい」
アシェルは頭を下げたまま、両手を胸に当てて強く握りしめる。
いくら、ジュダとカロンが困っていたとはいえ――敵が魔物だったとはいえ。アシェルはジュダに「不殺の呪い」を掛けられておきながら、魔術を使って殺しをしたのだ。
後悔はしていないが、反省はしている。
「怪我はないか」
不意に、アシェルの頭上から淡々とジュダの声が降ってきた。
アシェルは頭を下げたまま、「怪我は……ない」と小さい声で報告する。それが聞こえたのか否かはわからないが、ジュダは再び黙り込んでしまった。
きっとジュダは、言うことを聞かなかったアシェルを怒る……否、無能だと喜ぶのだろうか。どっちにしろ、このことはきちんと謝らなければならないと思い立ち、アシェルはこうして「いけないことをしてしまった」という不安を抱えながら、謝罪の言葉を口にしている。
アシェルはそんな不安にちくちくと胸を刺されつつも、ジュダの反応を待つ。しかし、怪我の確認から一向にジュダは何も言わない。
(……? ジュダ?)
いよいよアシェルはジュダの様子が気になって、恐る恐る頭を上げる。
すると、その瞬間――アシェルの身体は、逞しい腕に強い力を以て容易く攫われた。
「は……?」
現在の状況が即座に把握できなくて、アシェルは思いがけず、放心したような間の抜けた声を吐息と共に零す。
気が付けばアシェルは、すっぽりとジュダの両腕の中に収まっていた。
生まれてこの方、経験したことのない力強さによって──腕の中に閉じ込められるかの如く、抱きしめられていた。
「……ばか……」
ジュダがアシェルの耳元で、深く長いため息を吐き出しながら、低く唸るように悪態の言葉を吐く。だが、今のアシェルにはそんな悪態も碌に耳に入ってこない。
ジュダの体温が、今にも眠りたくなるほどに心地よく、温かい。
そんな、恐怖をも感じてしまうほどの酷い心地よさから逃れるため、アシェルはとにかく思考を回した。
(ジュダ、いいにおい……違う違う違う。待って、わたし返り血とかついてる。ジュダ、汚してしまわない? ジュダに血がついちゃう)
アシェルは脳内で、目まぐるしく現在の状況を言語化する。
(ジュダの手、大きい。身体、すごく大きい。肩も胸も硬い。分厚い。ジュダ、わたしと全然違う――何だか、心ノ臓。変な感じ、する)
アシェルは自分でも支離滅裂だと思わずにはいられない言葉を脳内で羅列して、何とか平常心を保とうとしていた。否、既にもう手遅れなのかもしれない。
そんな時、ようやくジュダが微かに身じろぎをして、また深い吐息を吐き出した。
「有能な奴は嫌いだが……」
ジュダが、低く掠れた声を絞り出す。
アシェルの目の前にあった、ジュダの太い頸から突出している大きな喉頭隆起がゆっくりと上下した。
「アシェル。ガキのくせによくやった。だが、もう二度と戦うな。ガキは戦うべきじゃない。お前が戦うくらいなら、何が何でも俺が出るべきだった。悪かった」
その時、アシェルの呼吸が止まった。
アシェルはジュダの言葉を聞いて――その言葉を理解し、何度も何度も言葉の意味を嚙み砕いて、脳内で繰り返した。
それは、アシェルが初めてジュダからもらった褒め言葉だった。
それは、アシェルが初めてジュダからもらった心配の言葉だった。
アシェルは思い知った。
ジュダは、アシェルが思っている以上にずっと――アシェルのことを、想ってくれていると。
あの「有能嫌い」かつ「戦争嫌い」なジュダが――「何が何でも、自分がアシェルの代わりに戦いに出るべきだった」とアシェルに言い聞かせてくれるくらいに。
それらの事実が。
ジュダの言葉が。
ジュダがアシェルを強く、抱きしめてくれたことが。
ジュダから貰ったものの全てが――アシェルの心を震わせ、魂の熱が弾けるほどに、嬉しくて堪らなかった。
(……そうか。わたし、ジュダから……わたしを見つけてくれたジュダから。こんなにも、この言葉が欲しかったんだ。ずっと褒められたり、したかった)
そう自覚した途端、アシェルの目から大粒の熱い水がぼたぼたと溢れ落ちてくる。
(どうしよう。すごく、すごく、すごく……すごく、嬉しい。ほんとうに、嬉しいんだ。ジュダと出逢った時みたいに。心ノ臓、熱い。燃えてる。きもちいい)
こんなにも心地の良い、興奮にも似た喜びで涙が止まらないのは、初めてのことだった。
アシェルはジュダの腕の中で、ひそひそと、音もなく穏やかに泣きじゃくる。
(もっと、ジュダにわたしを見てほしい。わたし、ジュダの役に立ちたい。褒められたい)
こんな想いを抱いていいのかは、アシェルにはわからない。身の程知らずで、我儘で、身勝手すぎる想いなのかもしれない。
それでもアシェルは、この激情を抱かずにはいられなかった。
この激情を肉体と魂に刻み込み、また新たに生まれた「己の生きる意味」とする他、なかったのだ。
ジュダに抱いてしまったこの激情に、感情に、想いに、きっと名前は付けられない。
名前を付けるにはこの激情は柔らかくて酷く心地よく。
名前を付けるにはこの感情は正体不明過ぎて、掴みどころがない。
名前を付けるにはこの想いは醜くも思えて、烈しすぎる。
アシェルはしばらく、ただひたすらにジュダを想って。己の魂が生まれ変わってゆくことでぽろぽろと剥がれてゆく抜け殻を、泡のように流し続けていた。




