零落の魔術師と矛神
もう、もとの世界の色も、音も、匂いも、夜を独り見上げる淋しさも。何もかもを思い出せないかもしれない――。
不意に、そんないつかの己の独り言が、戦場を駆け回っているアシェルの肉体に、杭を打ったような気がした。
ベールの如く薄くとも、鋼鉄以上の硬度を誇る魔法膜――〈結界魔術〉と呼ばれる魔術。
この結界魔術を円錐型に顕現させ、あらゆるものを貫く針山と化した〈結界の矛〉を戦場にて縦横無尽に振るっている少女――アシェルの、魔術を操作する己の身体の動きが一瞬だけ鈍くなる。
「何をしておる、レゲンデーア! 殺せ、殺せ、殺せぇ! ニミリエルの塵共を、一匹残らず根絶やしにせよ!」
アシェル・レゲンデーアの飼い主たる、イスカンダル帝国の第三皇子が、本陣にある戦車の上から金切り声を上げた。
今もアシェルの鼓膜を絶え間なく揺さぶり続けるのは、敵味方全ての兵たちの雷の如き怒号と、獣の絶叫のような断末魔。そんな騒音の中でも、アシェルは己の飼い主たる第三皇子の命令は決して聞き逃さない。
アシェルは鬣とも見紛う長い髪を振り乱し、短く、大きく息を吸った。鎧を身に纏ってもなお、薄っぺらい胸が上下する。鼻腔にこびり付くのは、焦げた肉と鉄と泥の入り混じった、吐き気を催す死臭。狭まって霞む視界は、どこまでも色を失った灰色。
しかし、戦場で肉塊と成り果てた者共の散らばった肉と臓物の赤だけは、はっきりと理解できた。赤という色を目にすると、アシェルは脳が焼かれるような妙な感覚を覚えてばかりだが、それにも構わず。
アシェルは第三皇子に命じられるがまま、もう敵も味方も判別できない、半狂乱となった戦場の人間たちを結界の矛で屠ってゆく。
「ころす、ころす、ころす」
アシェルは恐ろしいほど淡々と、うわ言を繰り返す。己は兵器。視界に入るありとあらゆる人間たちを殺すために在る、人殺しの兵器。
「ころす、ころす、ころす、ころす、ころす、ころす」
風を切る音が耳に入る。
視線を上げるまでもなく、敵陣から魔術による炎の矢の雨が降り注いでくるのがわかった。
アシェルは反射的に結界の矛を操って壁にすると、炎の矢を容易く叩き落とす。じゅっ。と、アシェルの髪を炎の矢が掠めた。
アシェルは短杖を軽やかに掲げる。すると、アシェルに炎の矢を放ったのであろう遠く離れた後衛の魔術兵たちの身体を囲うように、鳥籠のような形をした結界が無数に顕現した。
アシェルの瞳と耳には、遠隔魔力探知の魔術式を編み込んだ小さな魔法陣が現れている。この魔術を以て、アシェルは広範囲に高出力の結界魔術を展開することができているのだ。
鳥籠に囲った魔術兵たちの魔力が、手に取るようにわかる。魔力の大きさ、魔力の流れ、どんな魔術式を使用しているか。
魔力とは、己の五感と知性を術式のように一つに編み上げて、感じるものである。
アシェルが振り上げた短杖を無情に振り下ろす。
さすれば、無数の鳥籠が一斉に人体の三分の一以下の円柱へと瞬時に圧縮され、中にいた人間たちは一人残らず血しぶきを散らし、ボロボロと肉と骨と水となって崩れ落ちた。
気が付けば、絶えずアシェルに襲い掛かってきていた敵兵――ニミリエル王国の兵たちは、一人残らず死んでいた。アシェルが全て、殺し尽くしたのだ。アシェルの背後では、飼い主たるイスカンダル帝国第三皇子が高笑いを上げ、それに釣られたのであろうイスカンダル帝国兵たちも勝鬨を上げている。
それでもアシェルは、歩みを止めることはなかった。
「ころす、ころす、ころす、ころす」
未だ、アシェルに下された命令は取り消されていない。ならばアシェルはただひたすらに、視界に写る人間たちを殺し続けなければ。
人間はどこだ。己は人殺しの兵器。誰かを殺さなければ、生きることを許されない。生きる価値が無い。己の価値を、証明しなければ。使命を果たさねば。
アシェルは殺しを求めて、歩み続ける。
「ころす、ころす、ころす、ころ――」
ぐしゃり。
アシェルのうわ言は遮られ、アシェルは大地へと押し付けられるように地に膝をついた。アシェルはすぐさま立ち上がろうと藻掻くが、凄まじい力によって大地に縫い付けられ、身体がびくともしない。膝立ちでいるのが精一杯。徐々に頭も重くなり、耐えきれずアシェルは大地に首を垂れる。
まるで、天から巨大な手が下りてきて、「頭が高い」とアシェルを大地に押し付け、圧倒的な力を以て跪かせているようだ。
(広範囲、高出力……凄まじい、魔力の気配。誰かの魔術)
内心で即座に己の状況を分析するアシェル。そんな時、ふと、背後から悲鳴が上がった。アシェルは何とか首だけを傾けて、イスカンダル帝国軍を振り向く。
そこには、見渡す限りのイスカンダル帝国軍の兵が地面へと平伏し、昏倒していた。
ほんの一瞬にしてほぼ全滅したとも言える自軍の先には、アシェルの飼い主たる第三皇子が悲鳴を上げながら、戦車を走らせて逃げ帰っている様が遠く見える。
どおん。どおん。どおぉん。と。
遠雷のような音が、こちらに近づいてくるのがわかった。恐らくこれは、出陣の銅鑼の音。
イスカンダル帝国のものではない。敵国――ニミリエル王国のものだ。
アシェルは今にももげてしまいそうなほどに重くなった頭を傾けて、銅鑼の音が鳴る方を振り返る。いつの間にか、ニミリエル王国の新手の軍がすぐそこまで迫って来ていた。
「敵。人間……ころす。ころす、ころす、ころ、す……」
ニミリエル王国の人間。己の視界に写った人間。それらは全て、殺さねばならない。
飼い主からの命令を、守らねば。使命を果たさねば。
いつも通りの強い使命感に駆られて、アシェルは正体不明の魔術攻撃を受けながらも、渾身の力を振り絞ってよろよろと立ち上がる。
どん。
しかし、立ち上がった瞬間。またもや途轍もない力によって、アシェルは大地へと全身が縫い付けられた。アシェルの全身が、地面に食い込むほどに押し付けられる――引き寄せられる。
ありとあらゆる骨が軋み、徐々に呼吸が浅くなっていった。それでもアシェルは「殺しの使命」のために藻掻き続け、身体を横に、何とか傾ける。
そうすると、空が見えた。
幾年ぶりか――本当に久しく見上げた、空だった。この時アシェルは、現在が夜だったことにようやく気が付く。
自然と、夜空に瞬く星々の光に目がいった。
「は……ぁ……?」
アシェルの薄い唇の端から、吐息が漏れ出る。
インクで塗りつぶされたような深く恐ろしい闇の宙。そこによく映える――色とりどりの泡沫が弾けるような、大河のような光の流れが、アシェルの視界を、呼吸を、魂を、一瞬にして奪う音が聞こえた。
赤、青、白銀、黄金、橙。
星々の遥か遠い光。
それらがようやく、アシェルに「色」というものを思い出させた。
「色」とは、こんなにも。目に沁みるような、目に痛いような、目に焼き付くような、目を癒すような――この身をも震わせるような、鮮やかさだっただろうか。
アシェルが呼吸を奪われている最中、星屑が一筋、流れ落ちてゆく。
一つ、二つ、三つ――次々と、色とりどりの星屑が、地平線の先に流れていく。
そんな星屑の群れを背負うように、こちらへと、一人の長身の男が歩み寄ってきた。夜に溶けるような闇色のマントと軍服に身を包んだ、黒ずくめの男だった。ふと視線を巡らせれば、アシェルはニミリエル王国軍に包囲されている。
「見てみろ……やはり零落公がいらっしゃっているぞ……!」
「あの戦嫌いの六賢将様が……?」
「メイヴェン零落公、まさかいらっしゃってくださるとは……」
アシェルを囲むニミリエル王国軍の兵たちが、こちらに歩み寄ってくる男を見て、何とも言えないような驚愕やら困惑が入り混じった声でひそひそと呟き合う。そうして長身の男を一糸乱れぬ動きで避け、包囲網の中へと迎え入れる。
「六賢将」と「零落公」。この二つの言葉に、アシェルは覚えがあった。
飼い主たるイスカンダル帝国第三皇子がかつて、忌々しげに話していたことがある。
(ジュダ・ヴァルカラ・メイヴェン――ニミリエル王国の魔術師の頂点。六賢将が一角、〈零落公〉。わたしを縛る妙な魔術。この人間の仕業か)
アシェルは敵の正体を確信し、今こそ使命を果たさんと再び立ち上がろうとする。だが、同時に〈零落公〉――ジュダが、片手に持つ長杖を大地に軽く突き立てた。すると更に強い力で大地に縫い付けられた。これではもう、呼吸すらできない。
〈零落公〉ジュダが、星屑降る夜を引き連れるようにして、こちらに歩いてくる。
暗がりの中。微かに垣間見えた、ジュダの顔。
その顔が、今にも泣き出しそうな――あまりにもこの戦場には似つかわしくない、不思議な顔をしていたのが妙に目を離せなくて。
アシェルはそんなジュダの顔を目に焼き付けたまま、ニミリエル王国軍に捕らえられ、呼吸ができず意識を失った。
後にアシェルはこう思う。
星屑降る夜、心奪われた。
この星屑のような男に。




