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第97話 泥まみれの矜持 ~赤い腕章と、ミリ単位の誇り~

 昭和52年(1977年)、冬。

 深夜の相模鉄道・延伸区間。

 最終電車が走り去った後の静寂な線路上で、投光器の眩い光に照らされながら、相鉄の若き保線員たちがツルハシやタイタンパー(突き固め機)を握り、冷たい風の中で汗を流していた。

 そこへ、フェンス越しにヘラヘラと笑いながら近づいてくる影があった。

 赤い腕章を巻いた、国労(国鉄労働組合)の活動家たちだ。

「……ようよう、相鉄の若い衆。こんな真夜中によくやるねぇ」

 リーダー格の男が、タバコをふかしながら声をかけた。

「……会社にこき使われて、泥まみれになって。バカバカしくねえか? ……俺たち国鉄を見ろよ。組合が強いから、夜間のキツい保線作業なんて『権利の主張』でいくらでもサボれるぜ? お前らも資本家の犬になるのはやめて、俺たちと一緒にストライキで戦おうや」

 連日の激務で疲労が溜まっていた若い保線員の一人が、思わず手を止め、男の差し出す「連帯」のビラに目を落としかけた。

 労働者の権利。待遇改善。その言葉は、深夜の過酷な現場において、あまりにも甘美な響きを持っていた。

        * * *

「……その汚いビラを、俺の部下の現場シマに持ち込むな」

 暗闇の中から、低い怒声が響いた。

 作業着にヘルメット姿の高見恭平(相鉄・建設課長)と、ステッキを手にした五代だった。

「……なんだテメェら。経営側の犬が、労働者の正当な連帯を邪魔する気か!」

 国労の男が凄む。

「……労働者だと? 笑わせるな」

 高見は、フェンス越しに男の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで睨みつけた。

「……お前らが『権利』とやらを主張してサボった結果が、あの国鉄の脱線事故だろうが!! ……腐った木枕木を放置し、泥噴きを見て見ぬふりをした。……その結果、罪のない客を乗せた特急の足元から犬釘が抜け、軌間ゲージが狂って大惨事になったんだぞ!!」

 高見の怒号に、男たちは一瞬怯んだ。

「……我々相鉄の保線員はな、経営者のために汗を流しているんじゃない。……毎日この線路の上を走る、何万という『客の命』のために、ミリ単位の通り(直線)と水準(水平)を狂わさないよう、誇りを持って突き固めているんだ!!」

        * * *

「……高見の言う通りだ」

 五代が、冷ややかに言い放った。

「……『権利』ばかりを主張し、自分の現場レールを愛せない奴は、鉄道員ではない。ただの寄生虫だ。……お前たちの腐った思想で、これ以上、我々私鉄の美しいレールを汚すな」

 五代の圧倒的な威圧感と、高見の気迫。

 そして何より、現場でツルハシを握っていた若い保線員たちの目に、再び「プロとしての光」が宿ったのを見て、国労の男たちは舌打ちをして逃げるように立ち去っていった。

「……課長。……俺たち、馬鹿なこと考えるところでした」

 若い保線員が、恥じ入るように頭を下げた。

「……気にするな。キツい仕事だからこそ、迷うこともある」

 高見は優しく微笑み、彼らの肩を叩いた。

「……だが忘れるな。俺たちインフラ屋の仕事は、誰かに褒められるような華やかなものじゃない。……だが、俺たちがこの泥まみれのバラストを完璧に仕上げるからこそ、明日の朝も、満員の電車が無音で滑らかに走る。……それが、私鉄の矜持だ」

「……はいッ!!」

 昭和52年、冬。

 国鉄の「思想の毒牙」は、相鉄の現場が持つ強靭なプライド(保線魂)によって完全に粉砕された。

 鎌倉・湘南エリアにおける国鉄の支配は、物理的にも精神的にも、ついに完全な終焉を迎えたのである。

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