第91話 巨大な錆 ~横須賀線の驕りと、泥を噴くバラスト~
昭和52年(1977年)、夏。
国鉄・鎌倉駅。
ホームは、照りつける太陽の下で汗だくになりながら電車を待つ観光客と地元民で溢れ返っていた。
『……えー、本日、組合の集会ならびに安全確認闘争(順法闘争)の影響により、横須賀線上り列車に約45分の遅れが出ております。……ケッ、文句があるなら上に言ってくれや』
駅のスピーカーから、投げやりで横柄なアナウンスが響く。
乗客たちは舌打ちをしながらも、じっと耐えている。「国鉄だから仕方ない」という、諦めにも似た空気がホームを支配していた。
* * *
その光景を、ホームの端から冷ややかな目で見つめる二人の男がいた。
五代と、相鉄の高見恭平だ。
「……酷い有様ですね。遅延が当たり前、客への態度は最悪。……それでも、みんな国鉄に乗る。東京や横浜へ一本で行ける『圧倒的な武力』があるからです」
高見が忌々しそうに言う。
「……武力、か。……高見、下を見てみろ」
五代は、ステッキで国鉄の線路を指した。
「……え?」
「……俺には、この巨大な帝国が、足元から腐り落ちていく音が聞こえるぞ」
高見が視線を落とすと、そこには鉄道員として目を疑うような光景が広がっていた。
線路を支えるはずの砕石は、雨水と泥が混ざり合って固まり、完全に弾力を失っている。いわゆる**「泥噴き(どろふき)」**と呼ばれる最悪の状態だ。
木枕木は腐朽し、レールを固定する犬釘は浮き上がり、レール自体にも赤茶けた錆がこびりついている。
「……な、なんだこの保線状態は!? ……これじゃ、電車が通るたびに恐ろしい揺れが起きるぞ! まともな突き固め(タンピング)をいつからやってないんだ!?」
建設課長である高見は、あまりの杜撰さに戦慄した。
* * *
「……これが『親方日の丸』の末路だ」
五代は、タバコに火をつけながら吐き捨てた。
「……労働組合はストライキばかりで現場に出ない。経営陣は赤字の穴埋めに必死で、一番重要な『保線』の予算と人員を削った。……その結果が、この泥まみれのレールだ」
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
ようやく入線してきた横須賀線の113系電車が、泥を噴いたバラストの上を通過する。
車体は激しく上下左右に揺さぶられ、台車からは金属が悲鳴を上げるような異音が響いた。乗客たちが車内でよろめくのが見える。
「……ルートが便利だろうが、運賃が安かろうが関係ない。……俺たち鉄道屋にとって、**『レールが死んでいる』**のは、組織が死んでいるのと同じだ」
五代は、高見の肩をポンと叩いた。
「……高見。国鉄とまともにダイヤやルートで張り合う必要はない。……奴らの弱点は『当たり前のことができない』ことだ」
「……当たり前のこと?」
「……定時に発車し、駅員が客に頭を下げ、そして……狂いのない美しいレールで、揺れない快適な空間を提供することだ。……我々相鉄が鎌倉に乗り込んだ時、住民は初めて気づくことになる。『国鉄がいかに異常な乗り物だったか』にな」
昭和52年、夏。
江ノ電を自滅に追いやった五代の目は、完全に「国鉄狩り」へと向いていた。
武器は、相鉄が誇る強靭なインフラと、一寸の狂いもない完璧な保線技術。
泥まみれの絶対王者に、私鉄の意地が牙を剥く。
国鉄は くにてつ?こくてつ?




