第9話 横浜の黒い巨人・三菱重工への挑戦状
昭和39年、冬。
相鉄との劇的な統合を果たした京急だったが、その内実は火の車だった。
相鉄全線の改軌工事、車両の増備、そして買収資金……。予備費は底をつき、金庫には埃しか残っていない。
「……五代くん。銀行が『これ以上の融資はリスキーだ』と言ってきたぞ」
大原社長が、メインバンクからの通達書を机に投げ出した。
「鉄道事業は金がかかる。回収には何十年もかかる。……このままでは、社員の年越しそばどころか、来月の社員の給料も払えんぞ」
俺(五代)は、社長室の窓から横浜の空を見上げた。
空は鉛色だった。だが、それは雲のせいではない。
横浜駅のすぐ東側、海沿いに広がる**「三菱重工業・横浜造船所」**から吐き出される、黒い煤煙のせいだ。
かつて「日本の近代化の象徴」だった巨大造船所。
だが、高度経済成長期の今、それは横浜の都市機能を分断し、海への視界を遮る「黒い壁」となっていた。
「社長。金がないなら、錬金術を使います」
「錬金術? また土地転がしか?」
「いえ。**都市改造**です」
俺は窓ガラスを指差した。
「あの煤けた造船所を、全て退かします。……そしてあそこに、東京を超える『未来都市』を作るんです」
「馬鹿な! 相手はあの三菱だぞ! 旧財閥の頂点だ! 私鉄風情が喧嘩を売って勝てる相手じゃない!」
「勝てますよ。……向こうも『限界』を感じているはずですから」
* * *
数日後。丸の内、三菱重工本社。
俺と佐山秘書は、重厚な扉の前に立っていた。
アポは取ったが、向こうは「冷やかしなら帰れ」という態度だ。
通された応接室には、三菱重工の専務、**岩崎**が待っていた。
白髪のオールバック、鋭い眼光。戦艦武蔵を作った誇り高き「鉄の男」だ。
「……京急さん。話というのは土地のことかね?」
岩崎は俺を一瞥もしないまま、書類に目を通していた。
「悪いが、横浜造船所は売らんよ。あそこは創業の地だ。我々の魂だ」
「魂で飯が食えるなら、苦労はしませんね」
俺は挑発的に言った。
岩崎の手が止まった。
室内の空気が凍りつく。佐山が青ざめて震えている。
「……なんだと?」
岩崎がゆっくりと顔を上げた。
「単刀直入に言います。専務、あのドックはもう『時代遅れ』でしょう?」
俺は鞄から一枚のデータを取り出した。
世界のタンカー需要の推移と、船舶の大型化予測だ。
「これからは20万トン級のスーパータンカーの時代です。ですが、横浜のドックは狭すぎる。水深も足りない。……それに、周辺の市街地化で、騒音や粉塵への苦情も増えているはずだ」
俺は岩崎の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなた方は、本当は移転したがっている。……もっと広くて、海が深くて、誰にも文句を言われない場所へ。例えば、本牧や金沢の埋立地へ」
岩崎が眉をひそめた。図星なのだ。
だが、巨大組織ゆえのジレンマがある。
「……仮にそうだとしても、移転には莫大な金がかかる。数千人の従業員の住宅も必要だ。それに何より……」
岩崎は拳を握りしめた。
「我々を追い出して、跡地をどうする気だ? 倉庫にでもするのか? そんなものに売る気はない」
「倉庫? ……違いますよ」
俺は、未来の**「みなとみらい21」**の完成予想図をテーブルに広げた。
もちろん、前世の記憶を元に、プロの画家に描かせたものだ。
高さ300メートルの超高層ビル。
海沿いの美しい公園。
国際会議場、ホテル、美術館。
そして、その地下を走る京急の赤い電車。
「これは……」
岩崎が息を呑んだ。
「**『横浜シーサイド・メトロポリス』**構想です」
俺は熱っぽく語った。
「工場を追い出すのではありません。工場が役目を終え、その跡地が『新しい産業』を生む場所に生まれ変わるんです。……三菱さん、あなた方の歴史の上に、未来都市が建つ。悪い話じゃないでしょう?」
岩崎は食い入るようにパースを見つめていた。
彼は技術屋だ。美しい設計図には弱い。
だが、経営者としての冷静さが戻ってくる。
「……夢物語だ。こんなビル街を作るのに、いくらかかると思っている? 数千億だぞ。京急にそんな金があるのか?」
「金なら作ります。……この土地さえ手に入れば、銀行はいくらでも貸す」
俺はハッタリをかました。
「それに、移転先の金沢区の埋立地は、我々が斡旋します。従業員の通勤も、京急線が責任を持って輸送する」
岩崎は葉巻を取り出し、火をつけた。
紫煙を吐き出しながら、俺をじっと値踏みする。
「……五代くんと言ったな。君は、鉄道屋というより山師だな」
「よく言われます。……ですが、山を当てる自信はあります」
「よかろう」
岩崎はニヤリと笑った。
「取締役会にかけてみよう。……ただし、条件がある」
「条件?」
「『現金一括』だ」
岩崎は冷酷に言い放った。
「移転費用も含め、ざっと500億円。……来月末までに用意しろ。一日でも遅れたら、この話はなかったことにする」
500億円。
当時の京急の総資産に匹敵する、天文学的な数字だ。
佐山が泡を吹いて倒れそうになった。
「……いいでしょう」
俺は顔色一つ変えずに答えた。内心では冷や汗が滝のように流れていたが。
「来月末、耳を揃えてお持ちします。……その代わり、土地の引き渡しはスムーズにお願いしますよ」
* * *
三菱本社を出た俺は、ふらつく足取りで街路樹にもたれかかった。
「せ、専務……! 500億なんて、どこにあるんですか!?」
佐山が泣きそうな声で叫ぶ。
「どこにもないさ」
俺は乾いた笑いを漏らした。
「これから集めるんだよ。……地獄の『金策ツアー』の始まりだ」
タイムリミットは一ヶ月。
俺は、日本の全銀行、そして政界の黒幕たちを巻き込んだ、史上最大のマネーゲームに身を投じることになる。
横浜の未来を買うための手付金。
それが、大京急帝国の命運を分ける最初にして最大の賭けだった。




