第76話 紺碧の楔(くさび) ~相鉄いずみ野線、南へ~
やらかした。
昭和51年(1976年)、春。
(※大船・鎌倉編へ突入する少し前、海老名・厚木戦線)
小田急電鉄が絶対的な城下町として支配する、本厚木駅前。
しかし、その駅前通りは、目を覆うような大渋滞に陥っていた。
原因は、ひっきりなしに発着する**「神奈中(神奈川中央交通)バス」**の車列と、駅前の商業施設へ向かう一般車、そして狭いロータリーだ。
「……くそっ、また動かねえ! これじゃ駅に入るだけで15分も遅れるぞ!」
神奈中バスのベテラン運転手が、ハンドルを叩いて悪態をついた。
神奈中バスは、日本有数の規模を誇る巨大バス企業であり、小田急グループの中核企業でもある。
しかし、現場の空気は冷え切っていた。
* * *
【神奈中バス・厚木営業所】
「……小田急の連中、また駅前に新しいデパートを建てる気らしいな」
「……冗談じゃない! 今でさえ駅前はパンク状態なんだぞ。……親会社は『電車で客を運んで、駅で金を使わせる』ことしか頭にない。……俺たちバスの取り回しや、道路インフラの整備なんか、完全に後回しだ」
営業所長は、溜息をついて頭を抱えた。
遅延が常態化し、客からは毎日怒鳴られ、運転手たちは疲弊しきっている。
いくら小田急の傘下とはいえ、「バス屋」としての誇りと限界が、音を立てて崩れかけていた。
そこへ、一人の男がフラリと営業所を訪ねてきた。
「……お忙しいところ失礼します。……相模鉄道・建設課長の高見と申します」
「……相鉄だと?」
営業所長は警戒した。相鉄といえば、相模川の対岸である「海老名」で、親会社・小田急とバチバチにやり合っている敵対勢力だ。
「……敵陣のど真ん中に、何の用だ。帰ってくれ」
「……まあそう仰らずに」
高見は、カバンから一枚の巨大な図面を取り出し、机の上に広げた。
それは、相鉄が総力を挙げて開発を進めている、**「海老名駅・西口広域バスターミナル」**の完成予想図だった。
* * *
「……これは……」
営業所長は、図面を見た瞬間、息を呑んだ。
「……本厚木の狭いロータリーとは次元が違うでしょう?」
高見は、図面を指差しながら滑らかな口調で語り始めた。
「……広大な転回スペース、バス専用の進入路、そして周辺道路は全て片側2車線に拡張済み。……歩行者とバスの動線は完全に分離され、渋滞とは無縁の『バス屋のための完璧なインフラ』です」
「……だが、ウチは小田急グループだ。……親会社の駅(本厚木)から、ライバルの駅(海老名)へ路線を振り向けるなんて、できるわけがない」
「……本当にそうでしょうか?」
高見は、悪魔の囁きのように声を潜めた。
「……小田急さんは、駅前の不動産開発ばかりで、あなた方『道路を走るプロ』の苦労に少しも寄り添っていない。……このまま泥沼の渋滞に付き合って、運転手の皆さんが過労で倒れても良いのですか?」
営業所長は黙り込んだ。図面に描かれた「理想のターミナル」から目が離せない。
「……我々相鉄は、鉄道屋であり、インフラ屋です。……『交通結節点』がどうあるべきかを知っている。……所長。……親会社のメンツと、現場のバス運転手の命……どちらが大切ですか?」
「……」
「……海老名は、いつでもあなた方の赤いバスを歓迎しますよ。……少しだけ、ダイヤの『終点』を、川の対岸に伸ばすだけでいいんですから」
高見は図面を置き、一礼して去っていった。
残された営業所長は、本厚木の渋滞で響き渡るクラクションの音を聞きながら、ギリッと拳を握りしめた。
昭和51年、春。
親会社(小田急)の傲慢さが生んだわずかな綻びに、高見(相鉄)が「完璧なインフラ」という名の楔を打ち込んだ。
神奈中バスの反乱が、静かに始まろうとしていた。
昭和51年(1976年)、初夏。
相模川を挟んだ「海老名(相鉄)」と「本厚木(小田急)」の覇権争いは、ある朝、唐突な形で決着を迎えた。
本厚木駅の駅長は、駅長室の窓から眼下のロータリーを見下ろし、目を疑った。
いつもなら、小田急グループの誇る「神奈中(神奈川中央交通)バス」がひしめき合い、大渋滞を起こしているはずの朝のラッシュ時。
しかし、ロータリーには閑古鳥が鳴いていたのだ。
「……おい、どういうことだ!? 神奈中のバスが全然来ないぞ!」
駅員が血相を変えて飛び込んできた。
「……え、駅長! 神奈中の連中、本厚木駅の手前の交差点で全部右折して……相模川の橋を渡って、**『海老名駅』**へ向かっています!!」
「……な、なんだと!?」
* * *
同じ頃、相鉄が総力を挙げて整備した**「海老名駅・西口広域バスターミナル」**。
そこには、真新しいアスファルトの上を、滑るように次々と入線してくる神奈中の赤いバスの車列があった。
片側2車線の広々とした進入路。
バス同士が一切干渉しない、完璧に計算された巨大な転回スペース。
歩行者との動線は完全に分離され、乗客はスムーズに相鉄線の改札へと吸い込まれていく。
『……終点、海老名駅西口です。相鉄線はお乗り換えです。……いやぁ、今日は渋滞ゼロで最高だね!』
運転席の窓から顔を出した神奈中バスのベテラン運転手が、ターミナルで出迎えていた高見(相鉄)に向かって、ニカッと笑って親指を立てた。
高見も、ヘルメットを取って深く一礼する。
「……ようこそ海老名へ、道路のプロフェッショナルたち。……存分に走ってください。我々が用意した『完璧なインフラ』の上を」
* * *
神奈中バスの営業所長は、ダイヤ改正という名目で、本厚木発着の主要路線を、ごっそりと「海老名駅発着」へと振り替えたのだ。
親会社(小田急)の顔色よりも、現場の運転手の疲労軽減と、客の利便性(定時運行)を優先する「現場の反乱」だった。
その日の午後。
小田急電鉄の本社では、冷将・御子柴が報告書を叩きつけていた。
「……神奈中バスのダイヤ変更だと!? なぜ事前に止められなかった!!」
「……も、申し訳ありません! 現場の営業所が『本厚木の渋滞改善が見込めない以上、海老名のインフラを使わざるを得ない。これはバス事業者としての死活問題だ』と強行を……!」
「……言い訳はいい」
御子柴の眼鏡の奥で、冷たい怒りの炎が燃え上がった。
「……相鉄の奴ら、駅ビルや商業施設ではなく、『バスの転回場』という泥臭いインフラで、身内(神奈中)の心を寝返らせたか。……五代、あの男……許さんぞ」
* * *
【京急本社・社長室】
「……五代さん! やりましたよ!! 神奈中の主力部隊が、海老名に落ちました!!」
高見からの無線の声は、歓喜に震えていた。
「……よくやった、高見。……小田急は『電車』と『駅ビル』しか見ていなかった。だが、街の毛細血管は『バス』だ。……その血管を海老名に繋ぎ直した以上、このエリアの覇権は我々相鉄のものだ」
五代は、壁に掛けられた巨大な神奈川県の地図を見上げた。
横浜から西へ延びる相鉄本線。そして、海老名での完全勝利。
西の守りは、これで盤石となった。
「……さあ、高見。……西の戦いは終わった。……次は、俺たちがずっと温めていた『本命の刃』を抜く時だ」
五代の指が、地図の南――二俣川から南下し、湘南・鎌倉へと突き刺さる「一本の青い線」をなぞった。
昭和51年(1976年)、春。
開業したばかりの相模鉄道いずみ野線・いずみ野駅。
真新しい高架ホームの先端に、高見恭平(相鉄・建設課長)は立っていた。
目の前には、まだ何もない荒野と、その先に広がる藤沢・鎌倉方面の山並みが霞んでいる。
「……ここで行き止まりか」
本来の計画では、いずみ野線はここからさらに西へ、平塚方面を目指すはずだった。だが、オイルショックと地価高騰で、延伸計画は事実上凍結されていた。
「……満足かね、高見課長」
背後から声をかけたのは、視察に訪れていた京急専務・五代だった。
五代は、行き止まりの車止めを冷ややかな目で見下ろした。
「……立派な高架線だ。だが、これではただの『巨大な団地への引込線』だ。……相鉄の魂は、こんな内陸で満足して死ぬのか?」
「……五代さん。……我々だって進みたい。ですが、この先は魔境です」
高見は、南の空を指差した。
「……ここから南へ進めば、鎌倉・湘南エリアです。……そこは、国鉄横須賀線、小田急、そして江ノ電がガッチリとスクラムを組んでいる『聖域』だ。……新参者の相鉄が入る隙間なんてありませんよ」
* * *
五代は、懐から一枚の地図を取り出し、いずみ野駅のフェンスに広げた。
「……隙間がないなら、こじ開けるのだ」
五代の指が、地図の上を走る。
京急逗子線は、逗子海岸の手前で止まり、その先には**「葉山延伸(点線)」**が描かれている。
「……いいか、高見。……我々京急は、逗子線を葉山へ伸ばす。……狙いは『皇室と富裕層』だ。……だが、鎌倉の『観光客(大衆)』までは手が回らん。……国鉄とまともにやり合えば、8両編成の京急では分が悪いからな」
五代は、地図上の鎌倉駅周辺を赤ペンで囲った。
「……国鉄は『北鎌倉・鎌倉』という縦のラインを支配している。
……小田急・江ノ電は『藤沢・江ノ島・長谷』という横のラインを握っている。
……だが、見てみろ。……この**『鎌倉の北西部(深沢・大船西側)』**は空白地帯だ」
「……確かに。……バスしかありませんね」
「……そうだ。……相鉄いずみ野線を、ここへ叩き込む」
五代は、いずみ野駅から真南へ、鎌倉市の深沢地域を貫通し、最終的に湘南モノレールと交差するような強引なラインを引いた。
「……名付けて**『相鉄・鎌倉線』**構想だ。……横浜(西口)から、国鉄を通らずに、直接鎌倉の裏座敷へ客を流し込む。……これが実現すれば、国鉄のグリーン車にふんぞり返っている連中の顔色が変わるぞ」
* * *
高見は息を呑んだ。
それは、相鉄が長年抱えていた「田舎の砂利電車」というコンプレックスを払拭し、東急や小田急と並ぶ「湘南ブランド」を手に入れるための、起死回生の一手だった。
「……でも、五代さん。……そんなことをすれば、小田急の御子柴はもちろん、……あの**『江ノ電の主』**が黙っていませんよ」
「……江ノ電か。……あの小さな路面電車が、どれほどの力を持っているか見ものだな」
五代は不敵に笑った。
「……高見。……京急は東(葉山)から攻める。……相鉄は北(いずみ野)から攻めろ。……国鉄と小田急を、鎌倉という谷底で挟み撃ちにするのだ」
昭和51年。
相模鉄道の新たなる野望。
それは、横浜のベッドタウン輸送から脱却し、湘南の海を目指す**「青き南下作戦」**の始まりだった。
だが、その行く手には、古都の守護者たちが、鋭い牙を研いで待ち構えていた。




