第75話 和解の宴 ~高見、五代の膝元で勝利の『毒』を啜る~
昭和46年(1971年)、春。
相模川を跨ぐ相鉄の巨大な鉄橋が、ついにその銀色の巨体を対岸の厚木へと繋ぎ止めた。
海老名駅前では、人工地盤の基礎工事が地響きを立てて進み、かつての水田地帯は「神奈川の心臓」へとその姿を劇的に変貌させつつあった。
小田急の利光は、本社の辞令により海老名の前線から更迭され、新宿の奥座敷へと「敗戦処理」に消えていった。小田急帝国の脇腹に、相鉄という鋭い楔が完全に打ち込まれた瞬間だった。
その夜。横浜の老舗料亭。
海老名での激闘を終えた高見恭平は、五代に招かれ、一間きりの静かな座敷にいた。
庭のしだれ桜が夜風に揺れ、池の鯉が跳ねる。海老名の泥と鉄の匂いとは無縁の、あまりにも静謐な空間。
「……高見。海老名の『管理契約書』、読ませてもらったぞ」
上座に座る五代が、漆塗りの杯を傾けながら口を開いた。
五代は、いつもの厳しい専務の顔ではなく、どこか獲物を愛でるような、艶のある笑みを浮かべていた。
「……地主に上がりを渡し、その維持管理で一生の『年貢』を取り立てる。……砂利屋の若造が、いつの間にか京急の誰よりもえげつない**『高利貸し』**になりおって」
「……あんたに教わった通りにしただけだ。……相鉄の独立を守るには、金と技術で地主を縛るしかなかった」
高見は、背筋を伸ばし、五代の注ぐ酒を杯で受けた。
勝った。小田急を追い出し、海老名を掌握した。だが、五代の前に出ると、その達成感すらも「あらかじめ用意された報酬」に過ぎないような錯覚に陥る。
「五代さん……。俺は、あんたの期待に応えられたか?」
高見の声は、勝利の報告というより、主君への「検分」を求めるような、甘く湿った響きを帯びていた。
「ハアハア」という微かな呼気が、静かな部屋に漏れる。五代という太陽に焼かれ、その灰の中から再生した自分。その全存在を、再びこの男に認めてもらいたいという強烈な飢え。
五代は立ち上がり、高見の隣まで歩み寄ると、その杯を強引に取り上げた。
「……応えたどころではない。……お前は、俺の想像を超える**『怪物』**になった」
五代の冷たい指先が、高見の顎を掬い上げ、無理やり自分と視線を合わせさせた。
「だが、高見。海老名はただの入り口だ。……お前が作ったあの橋。あれは厚木へ行くためだけのものではない。……その先にある**『伊勢原』『秦野』、そして小田急の魂である『箱根』**を奪い取るための、死のロードの始まりだ」
五代の言葉という名の「毒」が、高見の耳から脳へ、そして脊髄へと染み渡っていく。
「……小田急は息をしていない。だが、死んでもいない。……奴らは今、新宿の地下で牙を研いでいる。……高見、お前は次の十年間、その『青い狼』の爪を、小田急が二度と立ち上がれないほど深く、奴らの喉元に突き立てるんだ。……できるな?」
「……っ……ああ……!」
高見は、五代の膝元に崩れ落ちるようにして、そのコートの裾を握りしめた。
終わらない。海老名という激戦を終えても、この男は自分に安息など与えない。次なる戦い、次なる地獄。
だが、その「過酷なまでの期待」こそが、高見にとっての至上の悦びだった。
「……やってやるよ。……あんたの地図から、小田急の名前が消える日まで。……俺の相鉄が、神奈川のすべてをネイビーブルーに染めてやる……!」
高見は、五代の指から伝わる圧倒的な支配の熱に身を委ね、勝利の美酒という名の、新たな「呪い」を飲み干した。
【海老名激突編・完結】
翌朝。高見は海老名の駅前に立っていた。
そこには、昨夜までの情念を微塵も感じさせない、冷徹な「相鉄の王」としての顔があった。
「……おい、技術部! 相模川の橋の次は、厚木市内の地下化計画だ!
小田急の連中が『不可能だ』と笑ったその地下を、俺たちの標準軌でぶち抜くぞ!!」
高見の咆哮が、建設現場に響き渡る。
相鉄の天下統一。その第2章、**「厚木・伊勢原強襲編」**の幕が上がる。
次回、第76話。
「神奈中の反乱 ~裏切りの厚木駅前開発~」。
小田急の傘下であったはずの神奈中バスが、高見の誘惑により、ついに本厚木駅を見捨て、相鉄・海老名駅への「全力移送」を開始する。




