第74話 陥落の号砲 ~小田急、海老名を明け渡す日~
海老名地主会による「相鉄案採決」の熱狂が冷めやらぬ中、高見恭平は壇上で、地主たちのリーダーである大山に一枚の分厚い「覚書」を突きつけていた。
「……大山さん、喜ぶのはまだ早い。利益を皆さんの公社に譲渡する。だが、これはタダでやるという意味じゃない」
高見の声は、先ほどの熱弁とは一転し、氷のように冷たかった。
大山が、恐る恐る書類に目を落とす。そこには『海老名空中都市・管理運営および保安維持に関する特別契約書』という、おぞましいほど詳細な技術条項が並んでいた。
「……これは、何だ?」
「**『安全の代償』**ですよ」
高見は、書類の一項目を指差した。
「空中都市、人工地盤、そして駅ビルの基礎。これら鉄道施設と一体化した構造物の保守点検・老朽化修繕、および将来の解体撤去費用。これらすべての実務は、京急・相鉄グループの指定業者以外には認めない。そして、その費用は皆さんの公社の収益から、最優先で積み立ててもらう」
高見の目が、獲物を追い詰める狼のように光る。
「もし、管理を怠ったり、積立金が不足したりした場合……この『空中都市』の所有権は、一銭の補償もなく京急が接収する。……地主さん、あんたたちは『富』を手に入れる。だが、その富を守り続けるために、一生、俺たちの技術と保守管理の軍門に降り続けるんだ。……素人に、100メートルの都市を支える重圧は背負えねえだろう?」
大山の顔から、歓喜の色が消え、深い戦慄が走った。
「富」という名の餌の裏には、「管理」という名の巨大な首輪が隠されていたのだ。
地主たちは、小田急から解放されたつもりで、より深く、より逃れられない「五代の帝国」の歯車に組み込まれた。
「……ハアハア……っ」
高見は、その様子を特等席で見守りながら、胸の奥で爆発するような充足感を覚えていた。
これだ。五代さんの教えは、ただ奪うことじゃない。相手に「選ばせ」、そして「永遠に縋らせる」こと。
* * *
【海老名駅・小田急事務室】
利光は、荒れ果てた事務室で、相鉄の駅ビル建設予定地を見つめていた。
かつての「小田急の海老名」は、今や巨大な杭打ち機の轟音に包まれている。
「……負けだ。完敗だ。……あの高見という男、あんな『呪いの契約』まで地主に飲ませるとは……」
利光の背後に、影が落ちた。
五代だった。
「……利光。まだ負けたと決まったわけじゃないぞ」
利光は、驚いて振り返った。
五代は、泥だらけの相鉄の現場を指差し、不敵に微笑んだ。
「……あいつ(高見)は、海老名で『理想』を形にした。だが、理想を維持するのは地獄だ。……利光、お前は小田急で、あいつが手を付けられなかった**『伊勢原・秦野』**を固めろ。……そこで俺が、また新しい盤面を用意してやる」
「……五代、貴様……何を企んでいる」
「……神奈川の陸(中身)は、あいつの島だ。……だが、その島を囲む『外郭』を誰が握るか。……それは、お前次第だ」
五代の目が、獲物を分ける神のように輝く。
五代は、高見を鍛える一方で、小田急というライバルすらも「自分の支配する盤面」の駒として再利用しようとしていた。
* * *
その頃。高見は、相模川のほとりに立っていた。
ついに始まった、相鉄による相模川架橋工事。巨大なトラス橋が、対岸の厚木に向かって、一本の鋭い槍のように伸びていく。
「……五代さん。……橋が、繋がりますよ」
高見の声は、勝利の歓喜に震え、同時に、これから始まる「管理と責任」という名の長い冬への覚悟に満ちていた。
海老名は、相鉄の終着駅ではなく、厚木を、そして小田原を飲み込むための、不落の要塞へと生まれ変わる。
淪落の号砲。
それは、小田急帝国の終わりの始まりであり、相鉄・京急連合による「神奈川統一」への第一歩だった。




