第73話 決戦前夜 ~海老名地主会、運命の採決~
昭和45年(1970年)、冬。
相模川に橋を架けるための「国家プロジェクト」という名の強襲は、厚木の街を、そして海老名の地主たちを激しく揺さぶっていた。小田急が誇る「新宿の秩序」か、それとも五代と高見が提示する「標準軌の帝国」か。
海老名地主会。この日、ついに海老名駅前再開発における「土地売却および区画整理の最終合意」を問う採決が行われることになった。
会場となる海老名市中央公民館の周辺には、夜明け前から異様な緊張感が漂っていた。小田急の利光が動員した「新宿の威光を信じる保守派」と、高見が泥まみれの説得で切り崩した「未来を夢見る革新派」。地主たちは二手に分かれ、互いを睨みつけている。
「……高見課長。小田急の利光、最後の最後で『秘密兵器』を隠し持っているという噂です」
プレハブの事務所で、部下が不安げに報告する。高見は、昨夜五代から注がれた安い焼酎の匂いを体内に残したまま、冷たく笑った。
「秘密兵器? ああ、あのお上品な連中のことだ。どうせ運輸省のOBか何かを連れてきて、『伝統ある景観を壊すな』とでも説教させるつもりだろう。……だが、俺たちには五代さんから授かった**『現実』**がある」
高見は、一通の書類を胸ポケットにねじ込んだ。
それは、五代が京急バス、神奈中バス、そして三菱の息がかかった建設会社各社と取り交わした、**『海老名・空中都市建設に関する発注確約書』**だ。
* * *
午前10時。採決会場。
壇上に立った小田急の利光は、かつてないほど自信に満ちた表情でマイクを握った。
「……地主の皆様。私は本日、小田急電鉄の本社から、ある『決定事項』を預かってまいりました。……我々小田急は、海老名駅の再開発に合わせ、最新型の特急、つまり**『次世代ロマンスカー』の海老名全停車**を約束いたします!」
会場がどよめいた。
ロマンスカーが停まる。それは海老名の人々にとって、単なる利便性を超えた「ステータス」の象徴だった。利光は畳みかける。
「さらに、駅前には新宿・小田急百貨店の直営支店を誘致する。……砂利屋の地下街ではない、本物の『新宿の流行』がここに来るのです。……皆様、泥臭い標準軌の貨物列車(のような通勤電車)が走り回る未来と、優雅なロマンスカーが停まる未来。どちらが資産価値を高めるかは、明白ではありませんか!」
地主たちの心が、大きく揺れる。
「ロマンスカーか……」「百貨店が来るなら小田急の方が……」
高見は、最前列で利光の演説を聴きながら、吐き気がするほどの「正論」に目眩を感じていた。
小田急のブランド力。それは、相鉄がどれだけ標準軌を広げようと、一朝一夕には手に入らない「光」だった。
だが、その時。高見の脳裏に、昨夜の安酒場で五代が放った言葉が閃いた。
『……お前が泣いていいのは、小田急のロマンスカーを完全に解体し、箱根の頂上で俺と乾杯する時だけだ』
(……そうだ。ロマンスカーが何だ。百貨店が何だ。……そんな『借り物の輝き』で、この土の匂いを隠してたまるか……!)
高見は、静かに立ち上がった。
利光の勝ち誇った顔を見据え、一歩、壇上へと歩み寄る。
「……利光さん。いい話だ。ロマンスカー全停車。素晴らしい」
高見の声は、驚くほど冷静だった。
会場の視線が、泥の匂いを消しきれないダークスーツの男に集まる。
「だが、地主の皆さん。……小田急さんが言っているのは、すべて**『小田急が用意した椅子』**に座れという話だ。……ロマンスカーに乗せてもらう。百貨店で買い物をさせてもらう。……あんたたちは一生、新宿に頭を下げて生きるつもりか?」
高見は、胸ポケットから『発注確約書』を取り出し、それを高く掲げた。
「……俺たちの提案は違う! 五代専務と俺が約束するのは、**『海老名が新宿を超える』ための権利だ!
この空中都市の建設、バスターミナルの運営、そして新しく作るショッピングビルのテナント権。……これらすべてを、地主の皆さんが主導する『海老名開発公社』**に無償譲渡する!
……京急と相鉄は、その『黒子』に徹する。……利益を新宿に持っていく小田急か。……海老名の人間が海老名の富を独占する相鉄か。……どっちが、あんたらの土地への愛だ!!」
静寂。
利光の顔から、血の気が引いていく。
「な……! 利益を譲渡するだと!? 五代は何を考えている! 慈善事業のつもりか!」
「……慈善じゃねえよ。五代さんは言ったんだ。**『小田急に勝てるなら、金などいくらでもくれてやる』**とな」
高見は、五代の「狂気」を地主たちに叩きつけた。
利益などいらない。ただ、相手を完膚なきまでに叩き潰し、自らの支配域(島)を広げることだけに快楽を見出す魔王。その毒が、今、地主たちの欲望を直撃した。
「……高見さん。……あんた、本当にそれを、京急に認めさせたのか?」
大山が、震える声で尋ねる。
「……ええ。昨夜、五代専務と指を詰める覚悟で話をつけました。……あんたたちが本気なら、あの人は本気で応えてくれる。……採決を、お願いします」
大山が、ゆっくりと挙手した。
「……私は、相鉄の、高見さんの『熱』に賭ける。……海老名は、海老名の人間が主役だ」
次々と、手が上がっていく。
利光は、壇上で膝をついた。ロマンスカーという華やかなカードは、五代が投げ込んだ「富の独占」という生々しい毒の前に、あまりにも無力だった。
採決結果。相鉄・京急連合案の、圧倒的な可決。
会場の外。夕闇が迫る海老名の空の下で、高見は一人、冷たい風に当たっていた。
背後に、いつの間にか五代が立っている。
「……利益を全額譲渡か。……随分と気前のいい勝負を仕掛けたな、高見」
「……あんたに教わった通りですよ、五代さん。……『相手を絶望させるためなら、金など一桁多く出せ』ってね」
高見は、振り返りもせずに答えた。
勝った。だが、その勝利の代償として、海老名は京急と相鉄が血肉を削って守り続ける「聖域」になった。五代という魔王との心中、その覚悟が整ったのだ。
「……ハアハア……っ」
高見は、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、自分の内側で暴れる「支配への昂ぶり」を噛み締めた。
「……五代さん。……これで、城門(海老名)は開いた。……次は厚木。……あんたの用意した『橋』、俺が先陣を切って渡ってやるよ」
五代は、高見の肩に手を置いた。その手の熱さが、冬の夜の何よりも心地よかった。




