第72話 高見の孤独 ~五代への反発と、己の『相鉄魂』の再燃~
相模川への架橋認可が下りたという知らせは、相鉄社内を歓喜の渦に巻き込んだ。だが、その狂騒の中心にいるべき高見恭平の心は、冬の川面のように冷え切っていた。
高見は、海老名のプレハブ詰所で、五代から渡された『神奈川縦貫・高速鉄道構想』のコピーを凝視していた。そこには、相鉄の未来だけでなく、京急が神奈川の内陸を完全に支配するための「動脈」が冷徹な筆致で描かれていた。
「……これじゃねえか。小田急が言っていた『相鉄は京急に飲み込まれる』ってのは、これのことだったのかよ」
高見は、図面を机に叩きつけた。
自分が海老名で地主の罵倒を浴び、泥だらけの田んぼで頭を下げていたのは、相鉄という独立した鉄道の誇りを守るためだったはずだ。だが、五代の計画によれば、相鉄は京急が都心(地下鉄)と内陸を結ぶための「バイパス」……つまり、巨大な機械の一部品に過ぎない。
「課長、どうしたんですか? 大勝利じゃないですか! 小田急の利光の奴、顔を真っ赤にして逃げ帰りましたよ!」
部下たちがビール瓶を持って飛び込んでくる。だが、高見はそれを一喝した。
「……浮かれるな! 俺たちは橋を架ける許可をもらったんじゃない! 五代さんに『架けさせてもらった』だけだ! 自分の力で一歩も進んじゃいねえんだよ!!」
部下たちが凍りつく中、高見は雨の中へ飛び出した。
向かった先は、まだレールの敷かれていない、海老名駅から相模川へと続く盛り土の上だった。
ぬかるんだ土を踏みしめる。この盛り土の一杯一杯、砂利の一つひとつに、自分と現場の人間たちの汗が染み込んでいる。
「……五代さん。あんた、俺をどうしたいんだ」
高見は、雨空に向かって呟いた。
尊敬している。心酔もしている。あの人の描く未来は、自分の想像を絶するほど美しく、残酷だ。だが、この「相鉄」という泥臭い鉄道だけは、あの人のコレクションの一つにはしたくない。それは、砂利屋として生きてきた自分たちの、最後の聖域なのだ。
* * *
その夜。高見は、品川ではなく、あえて横浜の場末にある安酒場に五代を呼び出した。
高級料亭ではない。油の匂いと、酔っ払いの怒号が飛び交う、現場の男たちの溜まり場だ。
「……随分な場所を指定したな、高見。お前のスーツが汚れるぞ」
五代は、場違いなほど洗練されたコートを脱ぎ、安っぽいパイプ椅子に腰掛けた。
高見は、コップに注いだ安い焼酎を煽り、五代を睨みつけた。
「……五代さん。あの『縦貫計画』……あれに、相鉄の名前はない。あるのは『京急・相鉄連絡線』という記号だけだ」
「……それがどうした。効率を考えれば当然の呼称だ」
「俺にとっては当然じゃねえ!!」
高見の声が、酒場に響く。周りの客が一瞬静まり返るが、高見の気迫に押されて視線を逸らした。
「俺は、あんたの駒になるために海老名を獲ったんじゃねえ! 相鉄を……この青い電車を、神奈川の主役にするために戦ってるんだ! あんたの計画通りに橋を架け、あんたの計画通りに地下鉄へ客を運ぶだけなら、俺じゃなくてもいいはずだ!」
高見の目は、涙で潤んでいた。悔しさ、怒り、そして……自分でも気づかないほどの、深い「愛憎」。
「……五代さん。俺を壊したいなら、今ここでそう言ってくれ。……あんたの靴を舐めて、相鉄の看板を差し出してやるよ。……だが、俺を『鉄道屋』として認めているなら……相鉄の独自性に、土足で踏み込まないでくれ……っ」
「ハアハア」という荒い呼気が、安いアルコールの匂いと混ざり合う。
五代は、黙って高見の震える拳を見つめていた。
やがて、五代はゆっくりと手を伸ばし、高見のコップに自分の焼酎を注ぎ足した。
「……高見。……俺が、お前を駒だと思っているなら、わざわざ海老名の泥の中に放り込んだりはしない」
五代の声は、驚くほど静かだった。
「お前が『相鉄魂』とやらに拘り、俺に牙を剥くこと……それも含めて、俺の計算だ。……いいか。部品に意思がなければ、機械は熱を持たん。……俺が欲しいのは、俺に膝を折りながら、心の奥底で俺を食い殺そうと狙っている、その『狼の目』だ」
五代は、高見の顎をクイと持ち上げた。
酒場の汚れた照明の下で、五代の瞳が怪しく光る。
「……『縦貫計画』は、あくまで国を動かすための方便だ。……その橋を、相鉄の誇りとして完成させるか、京急の植民地の入り口にするか。……それは、これからの海老名で、お前がどれだけの『熱』を産めるかにかかっている」
「……五代さん……」
「……泣くな、高見。お前が泣いていいのは、小田急のロマンスカーを完全に解体し、箱根の頂上で俺と乾杯する時だけだ。……立て。明日は厚木だ」
五代の指先が、高見の頬をなぞる。
その瞬間、高見の心の中にあった「反発」は、再び激しい「依存」と「野心」に塗り替えられた。
(……ああ、やっぱりこの男には勝てない。……壊されるのも、救われるのも、この人の手の中だけだ……!)
「……ふん。……分かってるよ。……あんたが『やりすぎた』って後悔するくらい、相鉄を巨大なバケモノにしてやるよ!!」
高見は、焼酎を一気に飲み干した。
孤独な反抗は、一瞬で「共犯」への誓いへと変わった。
海老名激突編。
高見は、己の「相鉄魂」を再燃させ、五代から授かった「毒」を自分自身の「血」へと変えて、小田急の本陣・厚木へと突撃を開始する。




