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第71話 相模川の壁 ~橋を架けさせない、小田急の政治圧力~

今日は100話まで頑張ります。

 昭和45年(1970年)、秋。

 海老名駅への「神奈中バス」引き込み作戦は、小田急の屋台骨を確実に揺さぶっていた。だが、利光もただ指をくわえて見ていたわけではない。彼は新宿の、そして小田急グループが長年培ってきた「永田町のコネクション」をフル回転させ、相鉄の進撃を阻止するための巨大な防波堤を築き上げた。

 それが、相模川という一級河川を跨ぐ**「鉄道橋」の建設許可**に対する、徹底的な妨害工作だ。

「……高見。運輸省から正式な回答が来た。『相模川の治水上の問題、および環境保護の観点から、相鉄による新規架橋計画は現時点では認可できない』だとさ」

 相鉄本社の緊急会議室。部下が持ってきた「不認可」の書類を、高見は乱暴に握りつぶした。

 図面上、相鉄は海老名から厚木へ、標準軌の巨体を走らせるための堅牢な橋を架ける準備を整えていた。だが、小田急の差し金により、行政側が「NO」を突きつけてきたのだ。

「……治水? 環境? 噴飯物だな」

 高見は立ち上がり、窓の外の雨空を睨みつけた。

「小田急の橋が隣に架かっているのに、相鉄の橋だけが川の流れを妨げるなんて理屈、あるわけねえだろうが」

「ですが課長、小田急側は有力な代議士を動かして、『相模川の生態系を守る市民の会』なる組織まで急造して反対運動をさせています。……このままじゃ、許可が出るまで何年かかるか……」

 高見は唇を噛んだ。

 海老名までは「土地の所有権」で戦えた。だが、川という「おおやけ」の壁を前にしては、相鉄一社の力では限界があった。

        * * *

 その夜。高見は、品川の五代のもとへ向かった。

 雨に濡れたコートも脱がず、五代のデスクの前に立ち尽くす高見。

「……五代さん。……負けましたよ。政治の力に」

 高見の声は掠れていた。あれほど海老名でハッタリをぶち上げ、バス網を寝返らせた自信が、行政の分厚い壁に跳ね返され、ボロボロになっていた。

「小田急の利光……あいつ、永田町のボスを使って、運輸省の首を縦に振らせねえ。……このままだと、相鉄は海老名で『一生の袋小路』だ」

 五代は、手元の万年筆を置き、ゆっくりと椅子を回転させた。

 その瞳は、高見の絶望を嘲笑うでもなく、ただ獲物を見定めているかのように静かだった。

「……高見。お前はまだ、『相鉄』という名の呪縛に囚われているな」

「……何だと?」

「相鉄一社で橋を架けようとするから、小田急に叩かれるんだ。……いいか。運輸省が『私鉄の新規架橋』を拒むなら、それを**『国家プロジェクト』**にすり替えればいい」

 五代は立ち上がり、一枚の巨大な地図を広げた。

 そこには、相鉄の延伸線だけではなく、京急本線から羽田を経由し、川崎、横浜、そして海老名を通って**「伊勢原・秦野」**まで続く、壮大な新線構想が描かれていた。

「……これは?」

「**『神奈川縦貫・高速鉄道構想』**だ。……京急と相鉄、そして都営地下鉄をも巻き込んだ、第三の広域ネットワーク。……この計画に相模川の橋を組み込めば、それは私鉄の利権争いではなく、『首都圏の交通インフラ整備』という国策になる」

 五代は、高見の震える肩に手を置いた。

 

「……高見。明日、運輸省の大臣に会いに行く。……小田急が動かした代議士など、俺が三菱の会長を通じて、その資金源から締め上げて黙らせる。……お前は、その橋が『いかに早く、いかに頑丈に、標準軌の高速列車を厚木へ運べるか』という技術的根拠だけを用意しろ」

「……は、ハアハア……っ」

 高見の喉が、熱く鳴った。

 自分たちが海老名の水田で泥を啜っている間に、五代はすでに「国家」を盤面に引きずり出す準備を終えていたのだ。その圧倒的なスケールの違い。

 屈辱的なまでの実力差に打ちのめされながら、高見の心臓は、五代という王の指先が触れるたびに、狂おしいほど激しく鼓動していた。

「……五代さん。……あんた、本気で小田急を『国』ごと踏み潰すつもりか……」

「……当たり前だ。……俺が言っただろ。神奈川の陸(中身)は、お前らの島だ。……その島に『橋』を架ける権利を、新宿の連中に決めさせてたまるか」

 五代の指が、高見の顎を強く持ち上げる。

「……行け、高見。……行政の言い訳を、すべて技術の正論で論破してこい。……政治の泥仕事は、俺がすべて引き受けてやる」

「……ああ。……分かったよ。……あんたがそこまで用意してくれたなら、俺は、世界一頑丈な橋を……小田急が二度と壊せない橋を、相模川に架けてやるよ!!」

        * * *

 翌週。運輸省の審議会。

 小田急の利光は、勝利を確信して優雅に茶を飲んでいた。だが、そこへ飛び込んできた「修正議題」に、彼は椅子から転げ落ちそうになった。

『案件名:神奈川縦貫高速鉄道計画における、相模川架橋工事の特認について』

 そこには、運輸大臣の直筆のサインと、京急・相鉄連合が提案した「最新鋭の耐震トラス橋」の図面が添えられていた。

「……ば、馬鹿な! こんな短期間で大臣の認可が……!? 誰がこんな……!」

 会議室の隅で、高見がニヤリと笑った。

 その目は、以前の「地元の地主を説得する男」の目ではない。

 五代という魔王の後ろ盾を得て、国家という権力すらも自分の牙とした、真の**「侵略者」**の目だった。

「……利光。あんたの永田町のボス、昨日の夜から急に『連絡が取れなくなった』だろ? ……悪いが、あの人は今ごろ、五代専務に借りた豪華客船で、三浦半島の沖合で『接待』されてる最中だよ」

「……五代……ッ! 汚い、汚すぎるぞ!!」

「……綺麗ごとで橋が架かるかよ。……次は厚木だ。……あんたの城、正面から踏み抜いてやる」

 相模川の「壁」は、五代の暴力的な政治力と、高見の執念によって、音を立てて崩れ去った。

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