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第7話 横浜・西口の黒い霧と、相鉄への私刑宣告

 昭和39年(1964年)。

 東京オリンピックの狂乱の裏で、神奈川県の鉄道地図を塗り替える、静かで冷酷な戦争が始まっていた。

 舞台は、赤坂の料亭『松川』。

 政財界の黒幕たちが集うこの密室に、俺はいた。

「……ほう。相鉄さんの国鉄乗り入れを、阻止してほしいと?」

 目の前で酒をあおるのは、運輸省に強い影響力を持つ大物代議士、**大野おおの**だ。

 俺は、菓子折りの下に忍ばせた「分厚い封筒」を、畳の上で滑らせた。

 中身は、港北の土地転がしで得た利益の一部。今の貨幣価値なら家が数軒建つ額だ。

「阻止ではありません、先生。『適正な審査』をお願いしたいだけです」

 俺は頭を下げず、不敵に笑って見せた。

「相鉄は、横浜駅から国鉄東海道線に乗り入れ、東京駅を目指そうとしています。……ですが、過密ダイヤの東海道線に、私鉄が割り込む余裕なんてありますか?」

「ふむ……。国鉄側も、これ以上の増発は嫌がっておるな」

 大野代議士が封筒の厚みを確認し、満足げに頷いた。

「それに、相鉄のバックには砂利利権があります。彼らが増長すれば、先生の地盤である神奈川の建設業界のバランスも崩れるのでは?」

「……よく勉強しているな、五代くん」

 大野の目が、政治家のそれになった。

「よかろう。国鉄総裁には、私から『懸念』を伝えておく。……相鉄の悲願である東京直通は、まあ、夢のまた夢になるだろうな」

「感謝いたします」

 俺は料亭を出た。

 夜風が心地よい。

 これで相鉄の逃げ道は塞がれた。

 彼らは「横浜駅」という袋小路に閉じ込められたのだ。

        * * *

 数日後。横浜駅西口、相模鉄道本社。

 社長室の空気は、お通夜のように重苦しかった。

「……却下、だと?」

 相鉄社長の**川又かわまた**が、受話器を握りしめたまま呆然としていた。

「はい。運輸省からの通達です。『東海道線の線路容量不足により、相鉄線の乗り入れは認められない』と……」

 専務が青ざめた顔で報告する。

「馬鹿な! 準備に何年かけたと思っているんだ! 3000系車両も新造したんだぞ!」

 川又は机を叩いた。

 相鉄は、横浜駅西口の開発に成功し、沿線の住宅地も急成長している。

 だが、致命的な弱点があった。

 **「都心に行けない」**のだ。

 横浜駅で国鉄や京急に乗り換えなければ、東京へ行けない。これでは、いつまで経っても「神奈川のローカル私鉄」で終わってしまう。

「社長! 京急の五代専務がお見えです!」

 秘書が飛び込んできた。

「京急だと? ……あんな路面電車屋に何の用だ!」

「それが……『都心への切符をお持ちしました』と……」

 川又の顔色が変わった。

 ドアが開く。俺は悠然と社長室に入り込んだ。

「ご機嫌いかがですか、川又社長。……いや、顔色が悪いですね」

「五代くん……。君か。運輸省に手を回したのは」

 川又は鋭い視線を向けてきた。さすがに勘がいい。

「人聞きの悪い。私はただ、神奈川の交通網を憂いているだけですよ」

 俺はソファに勝手に座り、一枚の地図を広げた。

「単刀直入に言います。相鉄さん、ウチと組みませんか?」

「組む? 京急と?」

 川又は鼻で笑った。

「君のところは標準軌(1435mm)、ウチは狭軌(1067mm)。線路が繋がらないじゃないか」

「**改軌かいき**すればいい」

 俺は涼しい顔で言った。

「はあ!? 全線を標準軌に変えろと言うのか! 数百億かかるぞ!」

「金なら私が出します」

 俺はアタッシュケースを開けた。

 札束……ではない。銀行の融資証明書と、京急の株券だ。

「相鉄の発行済み株式の34%。……私が市場で買い集めました」

 川又が絶句した。

「い、いつの間に……!?」

「港北ニュータウンの利益を突っ込みました。……社長、これは『提案』ではありません。『通告』です」

 俺は身を乗り出した。

「国鉄はあなた方を拒絶した。このままでは相鉄は、横浜で窒息死するだけだ。……だが、京急と組めば違う」

 俺は地図の上に赤ペンを走らせた。

 横浜駅で、京急と相鉄の線路を結ぶ。

 そして、海老名から来た相鉄の電車が、そのまま品川へ、日本橋へ、浅草へと直通する。

「都心直通。……あなた方の悲願でしょう?」

「……ぐぬぅ」

「条件は一つ。全線改軌し、京急グループの傘下に入ること。その代わり、西口の開発利権は相鉄に残しましょう。……悪い話じゃないはずだ」

 川又は沈黙した。

 プライドと実利が天秤にかけて揺れている。

 だが、彼も経営者だ。国鉄に振られた今、他に選択肢がないことは理解しているはずだ。

「……一つ聞こう」

 川又が絞り出すように言った。

「なぜそこまでする? 京急単独でも十分やっていけるだろう」

「**『大京急』**を作るためです」

 俺は即答した。

「東急に対抗するには、神奈川を一つにまとめる必要がある。……あなたの力が必要なんです、川又社長」

 長い沈黙の後。

 川又は深く溜息をつき、そして力なく笑った。

「……負けたよ。五代くん、君は悪魔だ」

「よく言われます。……赤い悪魔だと」

        * * *

 翌日の新聞朝刊。

 一面トップに、衝撃的な見出しが躍った。

『京急・相鉄、業務提携へ』

『相鉄全線を標準軌化、都心直通を目指す』

 それは、神奈川の鉄道史が変わった瞬間だった。

 横浜駅西口。

 雑踏を見下ろすビルの屋上で、俺と加賀谷は並んで立っていた。

「やりましたね、専務」

 加賀谷が缶コーヒーを飲みながら言った。

「でも、相鉄の改軌工事なんて、地獄ですよ? 終電後にレールを一本ずつ広げるなんて……」

「ああ、地獄だ」

 俺は笑った。

「だから、お前に任せるんだ。……加賀谷、来月から相鉄へ出向しろ。現場の連中を叩き直して、**『一夜で』**線路を広げてこい」

「一夜!? 正気ですか!」

「阪急だってやったことだ。俺たちにできないはずがない。……さあ、忙しくなるぞ」

 俺は横浜駅を見下ろした。

 眼下には、相鉄の線路と京急の線路が、今はまだ分断されている。

 だが、俺の目には見えていた。

 二つの赤いラインが繋がり、巨大な奔流となって東京へ流れ込む未来が。

 第一の獲物、相鉄。捕食完了。

用語解説

改軌かいき: 線路の幅を変える大工事。通常は数ヶ月運休して行うが、過去に阪急や京成などは、準備を重ねて「一夜」で切り替えた伝説がある。


横浜駅西口: 昔は砂利置き場だったが、相鉄が開発して大繁華街になった。京急がここを手に入れるのは、歴史的快挙(暴挙)。

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