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第67話 水田の謀略 ~地主会の分断と、高見の泥まみれの説得~

 昭和45年(1970年)、初夏。

 海老名の水田は、植えられたばかりの苗が青々と揺れ、一見すればのどかな田園風景そのものだった。だが、その足元のぬかるみには、相鉄と小田急が撒き散らした「欲」という名の毒が、じわりと染み出していた。

「高見さん、もう来ないでくれ。小田急の利光さんが、相鉄と口をきく奴には『海老名駅の利用を制限する』なんて物騒なことを言ってるんだ」

 高見恭平は、膝まで泥に浸かりながら、地主の一人・佐藤の田んぼの真ん中に立っていた。

 佐藤は腰を曲げ、高見と目を合わせようともしない。

「利用制限? ……利光の野郎、相変わらずお上品な顔してえげつない脅しをかけやがる」

 高見は、泥まみれの手で額の汗を拭った。作業着はすでに茶色く染まり、洗っても落ちない土の匂いが染み付いている。

「佐藤さん。小田急が守ろうとしているのは、海老名の『今まで』だ。だが、俺が作ろうとしているのは、海老名の『これから』なんだよ。……あんたの息子さん、今は厚木の工場まで砂利道を自転車で通ってるだろ? もし、この駅前に高層ビルが建って、冷暖房完備のオフィスができたら……息子さんは、泥にまみれなくて済むんだぞ」

「……そんな夢物語、誰が信じる。相鉄なんて、京急にいつ食われるか分からんって言われてるんだ」

 その言葉に、高見の胸がズキリと疼いた。

 世間の評価は冷酷だ。「自立した鉄道」としての相鉄を信じているのは、もしかしたら自分だけなのではないか。五代の影に怯え、その力に依存している今の自分に、地主を説得する資格があるのか。

 だが、その時。高見の脳裏に、品川のあの部屋で五代が放った言葉が蘇った。

『……高見。お前がその泥の中で見つけたものだけが、俺の設計図を完成させるんだ』

(……ああ、そうだ。俺が泥にまみれるのは、あの人のためじゃない。……この街を、相鉄を、誰にもバカにされない『帝国』にするためだ!)

「……佐藤さん。あんたが小田急に付くなら、俺は何も言わない。だが、一つだけ約束してくれ。……今夜、海老名の地主たちが集まる『協力会』の会合。……俺に、五分だけ時間をくれ。……そこで納得しなけりゃ、俺は二度と海老名の土は踏まない」

 高見の目は、泥に汚れながらも、獲物を射抜くような鋭さを失っていなかった。

 佐藤はその気迫に押され、小さく頷いた。

        * * *

 その夜。海老名の公民館。

 広間には、数十人の地主たちが車座になり、上座には小田急の利光が、高級な夏用スーツを完璧に着こなして座っていた。

「……皆様。海老名の秩序は、小田急が守ります。相鉄のような、根無し草の鉄道に未来を預けてはいけません」

 利光の演説がピークに達した時、広間の扉が乱暴に開いた。

 現れたのは、全身泥だらけで、異臭すら漂わせる高見だった。

「……誰だ! 汚らわしい、つまみ出せ!」

 利光が叫ぶ。だが、地主のリーダー・大山がそれを制した。

「……待て。……高見、五分だけだ。話してみろ」

 高見は、広間の中央まで歩を進めた。

 畳の上に泥が滴る。地主たちが眉を顰める中、高見は懐から一通の封筒を取り出した。

「……これは、京急・五代専務からの『親書』だ」

 その名が出た瞬間、広間が凍りついた。

 高見は、震える手で封筒を開け、中身を読み上げた。

『……海老名の地主諸君。我々は、相鉄を単なる子会社とは思っていない。……相鉄は、我々の「西の矛」だ。……もし、諸君が相鉄を拒絶するというなら、我々は海老名を通るすべての京急バス、および神奈中バスとの連携を即刻停止し、海老名を「陸の孤島」にする用意がある』

「……っ!!」

 利光の顔が真っ青になった。

「……だが、もし。……相鉄と共に歩むというなら。……我々は海老名に、横浜駅西口を凌ぐ『空の街』を作る。……これは脅しではない。……相鉄の高見が、その足で稼いだ『信頼』への、私からの回答だ」

 高見は、読み終えた後、深く頭を下げた。

 畳の匂いと、自分の体から発する泥の匂いが混ざり合う。

(……五代さん。あんた、こんな手紙……いつの間に……。……いや、これは俺が昼間、佐藤さんの田んぼで泥にまみれていたのを見て、あんたが『書かせてくれた』ものなのか……?)

 五代という男の、恐ろしいまでの洞察力。

 高見は、自分を「道具」として完璧に使いこなしながら、同時に「相鉄のプライド」をギリギリのところで守ってくれる五代のやり方に、激しい眩暈と、抗いがたいハアハアするような心酔を覚えた。

「……地主さん。小田急さんは、あんたたちを『守る』と言った。……だが、俺たちは、あんたたちを『連れて行く』と言っているんだ。……どっちが、男の仕事だ?」

 沈黙。

 やがて、佐藤が立ち上がった。

「……高見さん。その泥……あんた、今日一日、ずっと俺の田んぼにいたな。……小田急さんは一度も、田んぼの中までは入ってこなかった」

 佐藤の言葉を皮切りに、地主たちの間に波紋が広がっていく。

 利光は、地主たちの心が自分から離れていくのを感じ、拳を握りしめて高見を睨みつけた。

「……高見。……ただでは済まさんぞ。……小田急の本当の力を見せてやる」

「……ああ、受けて立つよ。……海老名の水は、泥臭い方が美味いんだ」

 高見は、利光の横を通り過ぎ、闇夜の中へ消えていった。

 その足取りは重いが、心には五代から授かった「毒」と、自ら掴み取った「土」の確かな感触が残っていた。

 海老名激突編、第2幕。

 地主会の分断に成功した高見。だが、追い詰められた小田急は、次なる刺客として、かつてない「物理的な壁」を用意していた。

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