第66話 海老名の霧 ~小田急の本陣、利光の逆襲~
昭和45年(1970年)、春。
二俣川の山々を力ずくで切り拓いた高見恭平の視界の先には、どこまでも平坦で、どこまでも重苦しい湿気を帯びた海老名耕地が広がっていた。
相鉄本線の終着、海老名。
当時のこの場所は、小田急、国鉄相模線、そして相鉄の三線が入り乱れるカオスな結節点でありながら、駅前には広大な水田が広がる「忘れられた土地」だった。だが、高見は知っている。こここそが、神奈川の「へそ」であり、小田急という巨人の脇腹であることを。
「……霧が深いな」
高見は、相鉄海老名駅の粗末なホームの端に立ち、立ち込める朝霧の向こう側を睨んでいた。
数百メートル先には、小田急の豪華なロマンスカーが通過する本線が見える。向こうは新宿へと続く、光り輝く大動脈だ。対する相鉄は、ここで線路が途切れている。
「課長、小田急の利光が動きました。……海老名駅周辺の主要な地主たちを集めて、『海老名開発協力会』を設立したそうです。……完全に、ウチを締め出す構えです」
部下の報告に、高見は吐き捨てた。
「……協力会だと? 笑わせる。……自分たちの既得権益を守るための『談合組織』だろうが」
利光――小田急の「エリート」であり、二俣川で高見に煮え湯を飲まされた男が、今度は本陣の海老名で牙を剥いてきたのだ。小田急は、海老名駅の橋上化や駅前広場の整備を「小田急主導」で行うことを条件に、地主たちをガチガチに固めていた。
「……相鉄さん、お疲れ様です。ここから先は、我々『新宿の鉄道』の領分ですよ」
霧の中から、利光が姿を現した。背後には、海老名の名士と呼ばれる地主たちが、壁のように立ち並んでいる。
「二俣川では少しばかり派手に動かれたようだが、ここは海老名だ。小田急の看板がなければ、一坪の土地も動かない。……砂利屋の線路は、ここで終わり。……ここから先、厚木や伊勢原へ行きたければ、おとなしく小田急の切符を買いなさい」
利光の言葉は、冷たく、そして勝ち誇っていた。
実際、海老名の地主たちにとって、相鉄は「横浜の場末へ連れて行く二流電車」であり、小田急こそが「都心への切符」だった。
「……利光。あんたは一つ、勘違いをしている」
高見は、ゆっくりと利光へ歩み寄った。
泥だらけの長靴が、ぬかるんだ土を踏みしめる音が響く。
「……小田急が新宿を見て走っている間、俺たちはこの『足元の土』だけを見て走ってきた。……あんたらにとって海老名はただの通過点かもしれないが、俺たちにとっては、ここが**『世界の中心』**なんだよ」
「……負け惜しみを。地主の皆さんも、あなたの空言には耳を貸さない」
高見は、利光を無視して、地主たちのリーダー格である老人に目を向けた。
「……大山さん。小田急さんが言っているのは、『駅前を綺麗にする』という話だけだ。……だが、俺たちが言っているのは、**『海老名に新しい街(OS)を作る』**という話だ。……五代専務が、相鉄を通じて投入する資金の額を知っているか?」
「五代」の名が出た瞬間、地主たちの空気が変わった。
横浜駅西口を一夜にして変え、金沢文庫に巨大な産業要塞を築いた魔王の名。その破壊的で創造的な力は、今や神奈川中の地主たちの間で、畏怖とともに語られている。
「……五代専務は、この海老名に、横浜駅西口を超える**『地上100メートルの高層都市』**を建てるつもりだ。……小田急のロマンスカーがただ通り過ぎるのを眺めるだけの駅にするか、それとも、京急と相鉄が総力を挙げて作る『神奈川の心臓』にするか。……大山さん、あんたの孫の代まで、どっちの景色を見せたい?」
「……100メートルの、都市……?」
大山の目が、揺れた。
高見は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
嘘ではない。だが、まだ五代から正式な許可を得たわけでもない。
(……勝手に口走っちまった。……だが、あの人なら、俺がこう言えば、必ずそれを『現実』にしやがる……!)
高見は、自分の中に宿る「五代への狂信的な信頼」に、全身が痺れるのを感じた。
「ハアハア」という荒い呼気が、海老名の霧に混じる。
屈辱的な「京急の傘下」という立場を逆手に取り、その圧倒的な力を自分の武器として振るう快感。
「……利光。あんたの言う『品格』なんて、五代さんの描く『欲望の設計図』の前じゃ、ただの紙屑だ。……覚悟しておけよ。海老名の霧が晴れる頃には、ここには相鉄の青い旗が立っている」
高見は、呆然とする利光を置き去りにし、ぬかるんだ農道を一人で突き進んだ。
その夜。高見は、品川の五代に電話を入れた。
報告ではない。……挑発だ。
「……五代さん。海老名で、あんたの名前を売ってきちゃいましたよ。……『100メートルの都市を作る』って。……あんた、まさか俺に恥をかかせたりしませんよね?」
受話器の向こうで、五代が低く笑うのが分かった。
「……ほう。随分と高く売ったな、高見。……いいだろう。お前が海老名の土地をすべて掌握するなら……俺が、その『100メートルの墓標』を、小田急のために建ててやる」
五代の言葉に、高見は受話器を握りしめたまま、深く、深く、悶えた。
(……ああ、やっぱりこの人だ。……俺がどんなに無茶を言っても、それを上回る『絶望的な希望』で返してくる……!)
海老名激突編。
霧に包まれた水田地帯で、相鉄の「青い執念」と小田急の「白いプライド」が、正面からぶつかり合う。




