表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

66/241

第66話 海老名の霧 ~小田急の本陣、利光の逆襲~

 昭和45年(1970年)、春。

 二俣川の山々を力ずくで切り拓いた高見恭平の視界の先には、どこまでも平坦で、どこまでも重苦しい湿気を帯びた海老名耕地が広がっていた。

 相鉄本線の終着、海老名。

 当時のこの場所は、小田急、国鉄相模線、そして相鉄の三線が入り乱れるカオスな結節点でありながら、駅前には広大な水田が広がる「忘れられた土地」だった。だが、高見は知っている。こここそが、神奈川の「へそ」であり、小田急という巨人の脇腹であることを。

「……霧が深いな」

 高見は、相鉄海老名駅の粗末なホームの端に立ち、立ち込める朝霧の向こう側を睨んでいた。

 数百メートル先には、小田急の豪華なロマンスカーが通過する本線が見える。向こうは新宿へと続く、光り輝く大動脈だ。対する相鉄は、ここで線路が途切れている。

「課長、小田急の利光が動きました。……海老名駅周辺の主要な地主たちを集めて、『海老名開発協力会』を設立したそうです。……完全に、ウチを締め出す構えです」

 部下の報告に、高見は吐き捨てた。

「……協力会だと? 笑わせる。……自分たちの既得権益を守るための『談合組織』だろうが」

 利光――小田急の「エリート」であり、二俣川で高見に煮え湯を飲まされた男が、今度は本陣の海老名で牙を剥いてきたのだ。小田急は、海老名駅の橋上化や駅前広場の整備を「小田急主導」で行うことを条件に、地主たちをガチガチに固めていた。

「……相鉄さん、お疲れ様です。ここから先は、我々『新宿の鉄道』の領分ですよ」

 霧の中から、利光が姿を現した。背後には、海老名の名士と呼ばれる地主たちが、壁のように立ち並んでいる。

「二俣川では少しばかり派手に動かれたようだが、ここは海老名だ。小田急の看板がなければ、一坪の土地も動かない。……砂利屋の線路は、ここで終わり。……ここから先、厚木や伊勢原へ行きたければ、おとなしく小田急の切符を買いなさい」

 利光の言葉は、冷たく、そして勝ち誇っていた。

 実際、海老名の地主たちにとって、相鉄は「横浜の場末へ連れて行く二流電車」であり、小田急こそが「都心への切符」だった。

「……利光。あんたは一つ、勘違いをしている」

 高見は、ゆっくりと利光へ歩み寄った。

 泥だらけの長靴が、ぬかるんだ土を踏みしめる音が響く。

「……小田急が新宿を見て走っている間、俺たちはこの『足元の土』だけを見て走ってきた。……あんたらにとって海老名はただの通過点かもしれないが、俺たちにとっては、ここが**『世界の中心』**なんだよ」

「……負け惜しみを。地主の皆さんも、あなたの空言には耳を貸さない」

 高見は、利光を無視して、地主たちのリーダー格である老人に目を向けた。

「……大山さん。小田急さんが言っているのは、『駅前を綺麗にする』という話だけだ。……だが、俺たちが言っているのは、**『海老名に新しい街(OS)を作る』**という話だ。……五代専務が、相鉄を通じて投入する資金の額を知っているか?」

 「五代」の名が出た瞬間、地主たちの空気が変わった。

 横浜駅西口を一夜にして変え、金沢文庫に巨大な産業要塞を築いた魔王の名。その破壊的で創造的な力は、今や神奈川中の地主たちの間で、畏怖とともに語られている。

「……五代専務は、この海老名に、横浜駅西口を超える**『地上100メートルの高層都市』**を建てるつもりだ。……小田急のロマンスカーがただ通り過ぎるのを眺めるだけの駅にするか、それとも、京急と相鉄が総力を挙げて作る『神奈川の心臓』にするか。……大山さん、あんたの孫の代まで、どっちの景色を見せたい?」

「……100メートルの、都市……?」

 大山の目が、揺れた。

 高見は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。

 嘘ではない。だが、まだ五代から正式な許可を得たわけでもない。

 (……勝手に口走っちまった。……だが、あの人なら、俺がこう言えば、必ずそれを『現実』にしやがる……!)

 高見は、自分の中に宿る「五代への狂信的な信頼」に、全身が痺れるのを感じた。

 「ハアハア」という荒い呼気が、海老名の霧に混じる。

 屈辱的な「京急の傘下」という立場を逆手に取り、その圧倒的な力を自分の武器として振るう快感。

「……利光。あんたの言う『品格』なんて、五代さんの描く『欲望の設計図』の前じゃ、ただの紙屑だ。……覚悟しておけよ。海老名の霧が晴れる頃には、ここには相鉄の青い旗が立っている」

 高見は、呆然とする利光を置き去りにし、ぬかるんだ農道を一人で突き進んだ。

 その夜。高見は、品川の五代に電話を入れた。

 報告ではない。……挑発だ。

「……五代さん。海老名で、あんたの名前を売ってきちゃいましたよ。……『100メートルの都市を作る』って。……あんた、まさか俺に恥をかかせたりしませんよね?」

 受話器の向こうで、五代が低く笑うのが分かった。

「……ほう。随分と高く売ったな、高見。……いいだろう。お前が海老名の土地をすべて掌握するなら……俺が、その『100メートルの墓標』を、小田急のために建ててやる」

 五代の言葉に、高見は受話器を握りしめたまま、深く、深く、悶えた。

 (……ああ、やっぱりこの人だ。……俺がどんなに無茶を言っても、それを上回る『絶望的な希望』で返してくる……!)

 海老名激突編。

 霧に包まれた水田地帯で、相鉄の「青い執念」と小田急の「白いプライド」が、正面からぶつかり合う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ