第61話 地下街の決壊 ~物流という名の暴力~
昭和41年(1966年)、秋。
横浜駅西口の地下は、文字通り「泥沼」だった。
降り続く秋雨が、掘り返された建設現場の土を重く、黒く染めている。剥き出しの鉄骨が雨に濡れて鈍く光るその様は、まるで巨大な怪物の肋骨のようだった。
高見恭平は、泥にまみれた長靴でその「怪物の腹の中」を歩いていた。
ヘルメットの下の髪は汗と雨で張り付き、目は充血している。だが、その瞳に宿る光は、かつての青臭い企画課長のものではなかった。それは、品川の魔王・五代から分け与えられた、獲物を確実に仕留めるための冷徹な捕食者の色だ。
「……三越の搬入口は、ここから三十メートル先か」
高見は、懐から取り出した泥だらけの図面を確認した。
横浜駅西口再開発。その中核をなす『ダイヤモンド地下街』の建設において、最大の障害は地上の交通整理ではない。三越横浜店――銀座に本店を置く、日本百貨店界の絶対王者のプライドだった。
彼らは、相鉄という「砂利屋あがりの鉄道」が、自分たちの聖域である地下階に穴を開け、庶民的な地下街と直結することを、蛇蝎のごとく嫌っていた。
「……高見さん、また来たんですか。何度言えばわかる」
地下二階、三越の納品口付近。高級なスーツを泥で汚さぬよう、つま先立ちで歩く三越の交渉担当・佐藤が、鼻を鳴らした。
「品格ですよ、品格。三越のお客様は、京急や相鉄の騒がしい通勤客と一緒に歩くことを望んでいない。ましてや、地下街の安っぽい飲食店から漂う油の匂いなど……銀座の矜持が許さない。お引き取りを」
かつての高見なら、ここで「横浜をバカにするな!」と机を叩いただろう。
だが、今の高見は、ただ静かに笑った。その笑みは、品川の専務室で五代がよく見せる、相手の逃げ道を塞いだ確信犯のそれと同じだった。
「……品格、ですか。確かに、三越さんの『三越ライオン』に、相鉄の砂利が飛んではいけませんからね。重々承知しております」
高見は、一歩、佐藤に歩み寄った。
泥の匂いが、佐藤の高級なコロンを侵食する。
「ですが、佐藤さん。お客様の品格を守る前に、まずは『商品』を守るべきではありませんか?」
「何の話だ」
「明日からです。相鉄は、この地下街建設に伴う『地盤沈下防止および道路補強工事』として、三越さんの専用搬入口に続く地上道路の完全封鎖を開始します」
佐藤の顔が、一瞬で強張った。
「……封鎖? 何を言っている。あそこは公道だぞ! そんな勝手なことが……」
「勝手ではありませんよ。五代専務が昨日、神奈川県警と道路管理者と話をつけました。工期は三ヶ月。その間、三越さんの地下へ荷物を運ぶトラックは、一台も入れません。もちろん、品格ある商品の納品も、です」
高見は、五代から渡された「道路占用許可証」の写しを、佐藤の胸元に叩きつけた。
「……三ヶ月間、三越の棚を空にする覚悟はできていますか? それとも、配送センターから人力で数キロ歩いて運びますか? ああ、それも通行制限で難しいでしょうが」
「貴様……! これが五代の、京急のやり方か!」
「いいえ。これは、相鉄のやり方ですよ」
高見は、低い声で囁いた。その声には、五代の冷徹さに加え、虐げられてきた「砂利屋」の怨念が混じっていた。
「俺たちは砂利屋だ。泥を啜り、地面を這いずり、この街を作ってきた。銀座の品格なんて、俺たちが掘った穴の上に乗っかっているだけの飾りだろうが。……そんな飾りのために、俺たちの街作りを邪魔させてたまるか」
佐藤の喉が、引き攣ったように動いた。
目の前の男は、もはや五代の操り人形ではない。五代という魔王に魂を売り、その対価として「暴力的な知略」を手に入れた、独立した狼だ。
「……繋ぐか、沈むか。選ぶのはあんたたちだ、三越さん」
高見は、返事も待たずに踵を返した。
背後で、佐藤が崩れ落ちる気配がした。
現場の詰所に戻ると、一人の男が待っていた。
雨に濡れたコートも脱がず、簡易椅子に座り、粗末な紙コップで熱い茶を飲んでいる男。
「……終わったか、高見」
五代だった。
「……ああ。……三越はもう、明日には判を押しに来る」
「フン。物流の動脈を止める。……鉄道屋らしい、残酷で効率的な一手だ」
五代は立ち上がり、高見の泥だらけの肩に手を置いた。
その手の重みが、高見には何よりも心地よかった。
「五代さん……。あんたが金沢文庫で見せたあの『産業要塞』に比べれば、地下街の道路一本止めるなんて……子供の遊びだ」
高見の声は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。
表面上は反発し、屈辱を感じているフリをしているが、その実、五代という巨人が描く「世界を支配する理」の一端を担っている事実に、五感のすべてが疼いている。
(……ああ。悔しい。腹が立つ。
だが……この人のためなら、俺はもっと汚い泥を啜れる。もっと残酷になれる……!)
「……次は高島屋だ。三越が沈めば、女王様(高島屋)も焦り出す。……高見、お前がその女王を誘惑してこい」
五代の指先が、高見の耳元をかすめる。
その瞬間、高見の脳裏には、相鉄のネイビーブルーと京急の赤が混ざり合い、横浜を真っ黒に塗りつぶしていく光景が見えた。
「……ああ。高島屋は俺が落とす。……西口を、あんたの、いや俺たちの色に染めてやるよ」
雨音にかき消されるような微かな声。
だが、そこには確かな忠誠と、狂気にも似た渇望が宿っていた。
横浜駅西口、地下帝国建設。
それは、高見恭平という男が、五代という「王」への愛憎をエネルギーに変えて焼き尽くす、壮絶な侵略の序章だった。




