番外編・第54話 プロ客(訓練された民)たちの流儀
お前はもう訓練されてる。
平成元年(1989年)、春。
京急・日ノ出町駅、下りホーム。
この日も朝からのダイヤ乱れで、ホームは殺気立った乗客で溢れかえっていた。
4月に上大岡の営業所へ配属されたばかりの新人サラリーマン・**田中(22歳)**は、絶望していた。
「……うそだろ。電車が来ない」
田中はパニックになっていた。
狭いホームは人で埋まり、カーブした線路の先にあるトンネルは暗いままだ。
(もうだめだ。上大岡での朝礼に間に合わない……。駅員に文句を言って遅延証明書をもらおう)
そう思って改札へ戻ろうとした時、隣に立っていた作業着姿の初老の男が、ガシッと田中の腕を掴んだ。
「……おい、若いの。どこへ行く」
「え? 駅員室へ……」
「やめておけ。時間の無駄だ」
男は、鋭い眼光で横浜側のトンネル(野毛山トンネル)の闇を睨んでいた。
その目は、獲物を待つ狩人のようだった。
「いいか。……風を感じろ」
ゴォォォォォ……!
トンネルの奥から、空気が押し出されるような重低音が響いてくる。
駅の放送なんて待っている暇はない。この「地響き」こそが、京急ユーザーにとってのダイヤグラムだ。
「……来るぞ。**『快特』**だ」
「えっ? 快特? 日ノ出町には止まらないはずじゃ……」
その瞬間、駅のスピーカーが割れんばかりの音量で叫んだ。
『えー、お待たせいたしました!
ただいま接近中の快特ですが、臨時停車いたします!
行き先は**『未定』**です!
とりあえず、行けるところまで参ります!』
「はあ!? 未定!?」
田中が叫ぶ。
「行き先が決まってない電車に乗れるわけないだろ!」
だが、周囲の反応は違った。
ホームにいた数百人の乗客たちが、一斉に**「戦闘態勢」**に入ったのだ。
おばちゃんが買い物袋を握りしめ、足を踏ん張る。
サラリーマンが新聞を畳み、重心を低くする。
「……若いの。
京急が『行けるところまで行く』と言ったら、それは**『上大岡までは確実に連れて行く』**という合図だ」
初老の男がニヤリと笑う。
「お前の行き先は上大岡だろう?
なら、四の五の言わず乗れ。
……あいつに乗れば、どんなに遅れていようが、死ぬ気で取り戻してくれる」
キキキキッ!!
トンネルから赤い怪物が飛び出してくる。
本来なら通過するはずの12両編成の快特が、日ノ出町の急カーブに合わせて強引にブレーキをかけ、カント(傾き)のついたホームに滑り込む。
プシューッ!
ドアが開いた瞬間、そこは戦場だった。
だが、怒号はない。
あるのは、洗練された**「無駄のない動き」だけだ。
降りる客が割れるように道を開け、乗る客が流れるように車内へ吸い込まれていく。
日ノ出町の狭いホームで将棋倒しにならないよう、全員が阿吽の呼吸で動いている。
それは、五代専務が作った過密ダイヤによって鍛え上げられた、「プロ客(訓練された民)」**たちの集団行動だった。
田中も、男に背中を押されて車内に転がり込んだ。
『閉まるドアにご注意ください!
……発車ァ!』
ガクンッ!!
間髪入れずに急加速。
田中はのけぞりそうになったが、周りの客は傾いた車内で涼しい顔をして踏ん張っている。
窓の外。
黄金町、南太田……通過駅が飛ぶように後ろへ流れていく。
カーブの多い区間だが、運転士は減速するどころか、制限速度ギリギリで攻めている。
車内に、奇妙な連帯感が生まれた。
誰も口には出さない。だが、全員の心が一つになっていた。
(行け! 遅れを取り戻せ!)
(俺たちを会社に届けろ!)
初老の男が、田中にウインクした。
「……見たか。これが京急だ。
行き先表示が『未定』でも、『貸切』でも関係ねえ。
ドアが開いたら乗る。
そうすりゃ、こいつは**『最強に速く』**俺たちを目的地へ運んでくれる」
田中は、震える手で吊革を握り直した。
怖い。でも……頼もしい。
いつの間にか、彼の中にも熱いものが込み上げていた。
(……すごい。なんて鉄道だ)
この日、田中は上大岡の朝礼に間に合った。
そして翌日から、彼は日ノ出町のホームで、トンネルからの風を読み、遅れてくる電車をニヤリと待ち受ける**「プロ客」**の一員へと変貌していくのだった。
五代が作った「野生の王国」。
そこでは、社員も、車両も、そして客までもが、一丸となって「速さ」という神を信仰していた。
そして――。
そんな熱狂の時代の裏側、もう一つの場所で。
静かに、だが確実に動き出そうとしている「青い伝説」があった。
次回、第55話。
「新章・相鉄攻略編 青い狼の目覚め」。
お待たせいたしました。
カメラは昭和39年の横浜駅西口へ。
京急とは全く違う、ドロドロとした内部抗争と、乾いた砂利の匂い。
若き日の高見恭平が登場します。
高見恭平?いえ、知らない子です。(^q^)
約束守らないとダメだ\(^o^)/
今日の投稿はこれで終わりだ(多分
今度こそは土曜日に投稿します。(ウソつき




