番外編・第53話 犬と猿の閉塞区間 ~指令室 vs 品川ホーム~
昭和64年(1989年)、1月某日。
この日、京急線は朝からの人身事故により、ダイヤが壊滅していた。
【京急本社・運輸指令室】
巨大な運行表示板(CTC)の前で、**「運輸司令」の男・氷室**は、受話器を握り潰さんばかりに青筋を立てていた。
「おい、品川! 何を勝手なことをしている!
その快特は『待機』だと言ったはずだ!
後続の普通車との接続が取れなくなるだろうが!」
彼は東京大学卒のエリート。
五代専務が導入した「140km/h対応ダイヤ」を論理的に管理する、指令室の若きリーダーだ。
彼にとって、ダイヤとは数式であり、乱れは計算によって修正されるべきものだった。
だが、無線機から返ってきたのは、怒声だった。
【京急品川駅・下りホーム】
寒風吹きすさぶホームの最前線。
赤旗とマイクを握りしめた**「運転主任」の男・権田**が、監視塔(通称:お立ち台)から叫んでいた。
『うるせえ! 事務屋は黙ってろ!
ホームを見てみろ! 客が溢れかえって黄色い線の外まで出てるんだぞ!
接続なんか待ってたら、将棋倒しで死人が出るわ!』
権田は、現場からの叩き上げ。
五代専務の「現場判断を優先せよ」という教えを骨の髄まで染み込ませた、品川の猛獣だ。
『いいか司令!
この快特はもう満員だ。ドアが閉まらねえんだよ!
接続なんぞ知るか! とっとと発車させて、次の空車を入れなきゃパンクするんだよ!』
【指令室】
氷室が机を叩く。
「バカか貴様!
それを行かせたら、蒲田で優等列車が詰まってダンゴ状態になる!
全体最適を考えろ! 君の視界は狭すぎるんだよ!」
『ハッ! 全体最適?
画面上の「点」しか見てねえ奴が偉そうな口を叩くな!
俺が見てるのは「人間」だ!
……おい車掌! ドア閉めろ! 無理やり押し込め!』
【品川ホーム】
権田は司令の制止を無視し、大声で業務放送を入れた。
「閉まるドアにご注意くださーい! 閉めます!」
プシューッ!
満員の快特が、ダイヤを無視して品川駅を飛び出していく。
【指令室】
「……あいつ、やりやがった!」
氷室は頭を抱えた。
これでダイヤは完全に崩壊した。本来の順序は滅茶苦茶だ。
普通、快特、特急が、順序も行き先もバラバラに走り出した。
「……クソッ! 現場が勝手に動くなら、こっちも意地を見せてやる!」
氷室は眼鏡を押し上げた。
「全列車に通達!
これより所定ダイヤを破棄する!
**『行先変更』だ!
詰まっている優等列車は、手前の駅で折り返させろ!
行き先表示は『未定』**でも構わん! とにかく動かせ!」
それは、司令としてのプライドを捨て、現場の暴走に計算を合わせる屈辱の決断。
だが、それこそが伝説の始まりだった。
【品川ホーム】
次々と到着する電車。
権田はマイクで叫び続ける。
「えー、この電車は『快特・三崎口行き』ですが、都合により『特急・金沢文庫行き』に変更します!
文庫から先へお急ぎの方は、とりあえず乗ってください!
後から来る電車が抜かすかもしれませんし、抜かさないかもしれません!
……とりあえず、行けるところまで行っとけぇ!!」
【数時間後】
奇跡的に、客の滞留は解消された。
ダイヤはズタズタだが、電車は止まらなかった。客は運ばれた。
夜。指令室。
疲れ果てた氷室の元へ、現場仕事を終えた権田がドカドカと入ってきた。
制服はヨレヨレ、声は枯れている。
「……よう、エリート様。
今日の采配、まあまあだったじゃねえか。
とっさに『川崎折り返し』を指示したおかげで助かったぜ」
権田が、缶コーヒーを氷室の机に置く。
氷室は、それを横目で見ながらフンと鼻を鳴らした。
「……君こそ。
私の静止を振り切って発車させたあの快特……あれが一本遅れていたら、全線で20分の遅延拡大だった。
計算してみたら、君の判断の方が『数理的に』正しかったよ。……今回だけはな」
二人は視線を合わせない。
だが、そこには奇妙な連帯感があった。
現場の直感(野性)と、指令の計算(理性)。
水と油。犬と猿。
決して交わらない二人が、**「電車を止めるな」**という一点でのみ共鳴する。
権田がニヤリと笑う。
「ま、五代専務が言ってた通りだ。
『喧嘩してでも電車は動かせ』ってな」
「……ああ。全くだ。
次は言うことを聞いてもらうからな、野猿」
「へっ、お前こそ現場を見に来いよ、飼い犬」
昭和の終わり。
京急の**「行っとけダイヤ」**は、この犬猿の喧嘩の中から産声を上げた。
彼らは互いに罵り合いながら、世界一複雑で、世界一柔軟な鉄道システムを構築していくことになる。
そして、その様子をホームで見ていた乗客たちもまた、鍛え上げられていく。
次回、第54話。
「番外編・第3弾 プロ客たちの流儀」。
「行き先未定? 上等だ!」
アナウンスを聞いた瞬間に最適解を導き出し、走り出す電車に飛び乗る、訓練された乗客たちの生態。
これで京急の「文化」は完成する。




