第43話 川底の決死圏(デッドゾーン)
昭和58年(1983年)。
羽田空港の沖合展開事業が動き出す中、京急は空港島の手前、海老取川の地下30メートルで、孤独な戦いを続けていた。
『空港線延伸・シールドトンネル工事』。
名目は「空港従業員の通勤輸送」。
だが実態は、運輸省とモノレール派の鼻を明かすための、意地と執念の「殴り込み」だった。
地下30メートル。
湿気と熱気が充満する切羽。
俺(五代)は、ヘルメットと作業着姿で、巨大なシールドマシンの前に立っていた。
「……どうした! 止まってるぞ!」
俺が怒鳴ると、現場監督が泥だらけの顔で駆け寄ってきた。
「専務! ……刃が食い込みません!
川底の地盤が予想以上に硬いんです。昔の護岸の松杭か、戦時中の瓦礫が埋まってるみたいで……」
ガガガガガッ!!
マシンが悲鳴を上げる。油圧計の針が危険水域に振れる。
このまま無理に進めば、シールドマシンの刃が欠ける。そうなれば工事は中止、京急は二度と空港島へ渡れなくなる。
そこへ、視察と称して「邪魔」をしに来た、運輸省の根津課長がエレベーターから降りてきた。
彼はピカピカのヘルメットに、革靴という場違いな格好で、ハンカチで鼻を押さえている。
「オエッ……臭いねえ、ここは。泥と油の臭いだ。
おい五代くん。進んでないじゃないか」
根津課長は、止まったマシンを見て嘲笑った。
「言っただろう? 『三流電車』に海底トンネルなんて掘れるわけがないと。
……まあいい。工期が遅れたら、許可は取り消しだ。
大人しく埋め戻して帰りたまえ。空港への客は、綺麗なモノレール様が運んでやるから」
現場の空気が凍りついた。
作業員たちが、悔しそうに下を向く。
彼らもまた、京急沿線の下町で育った男たちだ。「三流」「泥臭い」という言葉に、一番腹を立てているのは彼らだった。
「……帰れだと?」
俺は、泥水に足を突っ込んだまま、根津を睨みつけた。
「おい、お前ら! 聞いたか!」
俺は作業員たちに向かって叫んだ。
「お上(運輸省)のエリート様が仰ってるぞ!
『お前らみたいな泥臭い連中に、空港への道は作れない』とな!
『どうせ三流なんだから、川の手前で諦めろ』だとよ!」
作業員たちの目に、怒りの炎が宿る。
一人のベテラン職人が、巨大なレンチを床に叩きつけた。
「……ふざけんな! 俺たちゃあ、京急に乗って現場に通ってんだ!」
「モノレールなんぞに、俺たちの電車が負けてたまるかよ!」
俺はシールドマシンの装甲を叩いた。
「なら見せてやれ!
機械がダメなら、手で掘ってでも障害物をどかせ!
……この川の向こうには、俺たちの未来(空港島)があるんだ!
ここを通さなきゃ、京急はずっと『川崎の路面電車』のままだぞ!」
「うおおおおおおっ!!」
男たちの咆哮が地下道に響き渡った。
現場監督が指示を飛ばす。
「気圧上げろ! 水を止めるぞ!」
「カッターフェイスを開け! 人力で杭を切る!」
それは狂気じみた光景だった。
職人たちが、マシンの前面にある狭い点検口から身を乗り出し、ガスバーナーと削岩機で、手作業で地中の障害物(古い松杭)を破壊し始めたのだ。
泥水が顔にかかる。酸欠の危険もある。
根津課長は顔面蒼白になって後ずさった。
「き、狂ってる……! 貴様ら、命が惜しくないのか!?」
「うるせえ! 汚れるのが嫌なら帰んな!」
監督が怒鳴り返す。
俺もまた、スコップを握って最前線に立った。
今の京急に必要なのは、スマートな戦略じゃない。泥臭い**「突破力」だ。
このトンネルの先に、将来の「140km/h運転」**がある。
ここを抜けなきゃ、あの赤い彗星(快特)は空を飛べないんだ!
* * *
数時間後。
ズズズ……ン!!
地響きと共に、シールドマシンが再び前進を始めた。
障害物は突破された。
それから数ヶ月後。
空港島の端っこ、整備場地区の立坑に、シールドマシンの顔が突き破って出てきた。
貫通。
京急の線路が、ついに「海老取川」を越え、空港島の土を踏んだ瞬間だった。
貫通式の日。
俺は、泥だらけの作業員たちと肩を組み、貫通点から見える空を見上げた。
すぐ近くを、飛行機が轟音を立てて離陸していく。
「……見たか、お役人様」
俺は呟いた。
「三流電車が、島に上陸したぞ。
……ここはまだ端っこだが、確かに『空港』だ」
これで、京急は「島内」に橋頭堡を築いた。
だが、ここはまだゴールではない。
ここからターミナル直下へ進むためには、さらなる試練――**「スピードの壁」と「国からの圧力」**が待っている。
次回、第44話。
「伝説の2000形、発進」。
空港線だけじゃない。本線でも革命が起きる。
来るべき高速時代に備え、五代が投入した「京急の貴公子」。
その優雅な走りが、120km/h時代の扉を開く。




