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第39話 嵐の夜の代行輸送と、泥だらけのエンブレム

 昭和47年(1972年)、秋。

 大型台風が三浦半島を直撃した夜。

 ついに、京急本線が止まった。

 『全線運転見合わせ』

 土砂崩れのリスクがあるため、指令室は苦渋の決断を下した。

 金沢文庫駅のコンコースは、帰宅困難者で溢れかえっていた。

 タクシー乗り場には長蛇の列ができているが、タクシーも「危険だから」と配車を停止している。

「……どうやって帰ればいいんだ!」

「山の上に家があるんだぞ! 歩いて帰れってのか!」

 能見台のうけんだい釜利谷かまりやといった、京急が開発した「山の手のニュータウン」。

 そこへ帰る住民たちは、電車が止まれば完全に**「陸の孤島」**に取り残される。

 駅長室で、俺(五代)は頭を抱えていた。

「……タクシーもダメか。バスは?」

「無理です、専務」

 駅長が首を振る。

「道路が冠水してます。それに、こんな暴風雨でバスを出したら、横転する危険が……」

 その時だ。

 バスターミナルの方から、野太いエンジンの吹奏音が響いてきた。

 ブォォォォン……!

「……なんだ?」

 俺が窓から覗くと、豪雨の中、一台の京急バスがロータリーに入ってきた。

 運転席から降りてきたのは、ずぶ濡れの制服を着た男。

 京急バス・能見台営業所の所長、**剛田ごうだ**だ。

「……おい、駅長!」

 剛田が駅長室に怒鳴り込んできた。

「客が溢れてるじゃねえか! なんでバスの要請を出さねえ!」

「だ、だって所長! この雨ですよ!? 冠水してる場所もあるし、危険すぎて……」

「バカ野郎!」

 剛田が机を叩いた。

「電車が止まった時こそ、俺たちの出番だろうが!

 電車は『線路』しか走れねえ。だがバスは『道』を選べる!

 冠水してない裏道も、狭い山道も、俺たちは全部知ってるんだ!」

 剛田は、俺の方を睨んだ。

「専務。……許可をください。

 俺の部下たちは、全員ハンドル握って震えてますよ。『早く客を乗せさせろ』ってな」

 俺は、剛田の目を見た。

 恐怖で震えているのではない。武者震いだ。

 彼らは知っている。自分たちが「最後のライフライン」であることを。

「……剛田所長。責任は俺が取る」

 俺は頷いた。

「ただし、絶対に無理はするな。……客を無事に送り届けることだけを考えろ」

「へっ、当たり前ですよ。……京急バスのドラテク、ナメないでくださいよ」

        * * *

 『臨時バス・能見台団地行き』

 アナウンスが流れると、絶望していた乗客たちが歓声を上げてバスに殺到した。

 超満員のバスが、嵐の夜道へ滑り出す。

 ワイパーが激しく動く。視界は最悪だ。

 道路の脇は濁流。

「……しっかり掴まっててくださいよ!」

 ハンドルを握るベテラン運転手は、まるで体の一部のように大型バスを操る。

 冠水した大通りを避け、ギリギリ離合できるかどうかの狭い住宅街の坂道を、ミリ単位の感覚ですり抜けていく。

 **「京急バス走り」**と呼ばれる、あの神業的な車幅感覚だ。

 ガガガッ……!

 タイヤが泥を噛むが、止まらない。

 バスは唸りを上げて坂を登り切った。

「……着きましたよ!」

 団地の入り口でドアが開く。

 乗客たちが、口々に「ありがとう!」「助かった!」と言いながら降りていく。

 中には、運転手に深々と頭を下げるサラリーマンもいた。

「……あんたたち、最高だよ。電車より頼りになるな」

        * * *

 翌朝。

 台風は去り、京急本線も始発から運転を再開した。

 金沢文庫の営業所。

 そこには、泥だらけになったバスたちが並んでいた。

 バンパーは汚れ、タイヤはすり減っているが、誇らしげに見える。

「……よくやったな、みんな」

 俺は、洗車をする剛田たちに缶コーヒーを差し入れた。

「専務。……電車屋さんに負けてられませんからね」

 剛田が、泥のついたバスのエンブレム(KEIKYU)を雑巾で拭いた。

「線路が止まっても、俺たちが繋ぐ。……それが京急グループってもんでしょう?」

「ああ。……頼もしい限りだ」

 鉄道だけが京急ではない。

 この夜、俺は改めて思い知らされた。

 バス、タクシー、そしてそれを支える現場の男たち。

 彼らの「意地」が繋がって、初めて「輸送インフラ」は完成するのだ。

「……よし。バス部門にもボーナスだ」

「マジですか!? やったぜ!」

 歓声が上がる中、俺は営業所を後にした。

 嵐は去った。

 だが、現場の戦いは終わらない。

 次回、日常回ラスト。

 駅のホームを守る**「最強の駅員」と、彼らの胃袋を満たす「駅そば」**の話。

 酔っ払いを制圧する華麗なる合気道と、出汁の匂いが交差する。

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