第35話 泥の孤島と、1435ミリの実験場
昭和46年(1971年)。
千葉県北部、印旛地域。
国家プロジェクト**「千葉ニュータウン」**の造成地は、連日の雨で泥の海と化していた。
プレハブの事務所で、開発公団の担当者が頭を抱えていた。
「……キャンセルまた出ました。10件目です」
「当たり前だ! 誰がこんな『陸の孤島』に住むんだよ!」
入居は始まっていたが、肝心の**「鉄道」**が来ていない。
都心へ出るには、バスで1時間以上揺られて国鉄の駅まで行かねばならない。
道路は渋滞、バスは遅れる。
住民たちは泥だらけの靴で叫んでいた。
「遅えよ、開通……!」
「いつになったら電車が来るんだ! 騙された!」
そこへ、一台の黒塗りの車が、泥を跳ね上げてやってきた。
降りてきたのは、京急専務の俺(五代)だ。
「……酷い有様だな」
俺は、どこまでも続く泥濘と、ススキ野原を見た。
だが、俺の目には「宝の山」に見えていた。
『高規格・高架複線・踏切なし・直線主体』
鉄道を敷くには、日本最高レベルの条件が揃っている。
「……あんた、京急の五代さんか?」
公団の理事が、縋るような目で見上げた。
「話は聞いてます。……鉄道を敷いてくれるってのは本当ですか? 京成さんは『金がない』って逃げ腰で……」
「ええ。条件次第ですが」
俺は、泥だらけの長靴で地図を踏みしめた。
「我々が、**北総線(仮称)**の建設を全面的にバックアップします。
車両も、技術者も、資金も出しましょう」
「ほ、本当ですか!?」
理事が泣き崩れそうになる。
「ただし、条件が二つある」
俺は指を立てた。
1.線路の幅は『1435mm(標準軌)』にすること
「京成の一部や国鉄と同じ『1067mm』や『1372mm』じゃダメだ。
世界標準の1435mmで作れ。……将来、ウチ(京急)や都営地下鉄と直通させるためだ」
2.設計速度は『160km/h』に対応させること
「通勤電車を走らせるだけじゃない。
カーブは極力なくし、カント(傾き)は深く、トンネル断面積も大きく取る。
……新幹線並みの規格で作ってもらう」
理事はポカンとした。
「ひゃ、160キロ? ニュータウンの通勤電車にそんなスペックが要るんですか?」
「要る」
俺は即答した。
「住民のため……というのは建前だ。
本音を言えば、俺たちが**『実験』**したいからだ」
俺は、荒野の彼方を指差した。
「ここは人がいない。騒音を気にする必要もない。
京急本線じゃ試せない、次世代のモーターや台車を、限界までテストできる。
……俺たちにとって、ここは最高の**『テストコース(サーキット)』**なんだよ」
理事が絶句した。
「じ、じゃあ……住民の足というのは、ついでですか?」
「人聞きが悪いな。ウィンウィンですよ」
俺はニヤリと笑った。
「あんたたちは『足』が手に入る。
俺たちは『実験場』が手に入る。
……住民にとっても悪い話じゃない。実験の副産物として、**『都心まであっという間に着く爆速電車』**が走るようになるんだからな」
* * *
交渉成立。
京急の資本と技術が、泥沼の千葉ニュータウンに注入された。
工事は急ピッチで進んだ。
住民の「遅えよ!」という怒りが、現場の尻を叩いた。
そして数年後。
北総台地に、万里の長城のような高架橋が出現した。
定規で引いたような、美しい直線。
踏切は一つもない。
その線路の上に、銀色に輝く奇妙な車両が搬入された。
赤いラインが入っているが、京急のどの車両とも違う。
流線型のマスク。
床下には、見たこともない巨大なモーターと、ディスクブレーキが装備されている。
『試作車・デト9000形(通称:北総の怪物)』
「……来たな」
俺は、高架の上でその車両を見上げた。
隣には、休養を終えて復帰した保線課長の土門がいる。
「専務。……こいつ、本線じゃ走れませんよ」
土門が呆れている。
「出力がデカすぎて、変電所が飛びます。それに、この台車……新幹線の技術をパクり……いや、応用してますね?」
「ああ。160キロ出すためのスペシャルマシンだ」
俺は、運転席に乗り込んだ。
「ここなら警察もいない。苦情も来ない。
……さあ、始めようか。
京急の未来のための、限界走行試験だ」
住民が待ち望んだ開通の前日。
誰もいない高架線路を、銀色の怪物が疾走した。
その速度は、当時の私鉄最速記録を軽々と更新していった。
時速150km/h……160km/h……!
「遅えよ!」と叫んでいた住民たちは、翌日から走る電車が、あまりに速すぎて度肝を抜かれることになる。




