第31話 北総の荒野と、血走った目の助役
( ᐛ )パァ
昭和45年(1970年)、秋。
千葉県北部、印旛の荒野。
一面のススキ野原が広がるこの地に、俺(五代)は立っていた。
まだ線路もない。道路もない。
だが、ここには「しがらみ」がない。
騒音も、カーブも、過密ダイヤもない。
「……ここなら、160キロの実験ができる」
本線がパンクしている今、次世代の技術(高速台車やモーター)を試すには、この「北総」の未開の地を使うしかない。
俺が地図を広げて未来の構想に浸っていると、背後から砂利を噛む激しいブレーキ音が響いた。
キキキキーッ!!
京急の社用車が、バンパーを擦りながら突っ込んできた。
ドアが乱暴に開く。降りてきたのは、横浜駅の助役、佐藤だ。
「……五代専務ぅぅぅ!!」
佐藤の顔を見て、俺は息を呑んだ。
制帽は歪み、制服のボタンは飛び、目は充血して真っ赤だ。
まるで戦場から脱走してきた兵士のような形相だった。
「ここにいたんですか! 本社中が探しましたよ!」
佐藤が、俺の襟首を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「今、現場がどうなってるか分かってるんですか!?
保線屋の話じゃありませんよ! **『運転士』と『駅員』**が死にかけてるんです!」
「……落ち着け。何があった」
「落ち着いてなんかいられませんよ!」
佐藤が叫んだ。
「130キロ運転……あれは人間のやる仕事じゃありません!
品川から横浜まで15分。その間、運転士は瞬き一つできないんです!
C-ATSの信号を読み取り、数秒単位でブレーキを制御する……。
神経がすり減って、ベテランの運転士が次々と『目が霞む』『吐き気がする』って医務室に担ぎ込まれてるんです!」
さらに佐藤は続けた。
「駅員だってそうです!
ラッシュの客は殺気立ってる。積み残しが出るたびに、ホームで怒号が飛び交う。
駅員は毎日、客に殴られ、蹴られ、それでもドアを閉めるために身体を張ってる。
……もう限界です。昨日、ついに若手駅員が3人、『もう無理です』って制服を置いて逃げました」
佐藤は、荒野の土を蹴り上げた。
「なのに、あんたはこんな何もない場所で、夢を見てるんですか!?
今すぐ本線に戻って、俺たちを助けてくださいよ!
人を入れてくれるか、ダイヤを緩めるか……何とかしないと、明日には電車が止まります!」
俺は、佐藤の悲痛な叫びを真正面から受け止めた。
……慢心があった。
「速くすれば客は喜ぶ」。それは正解だった。
だが、その速度を維持する「人間」のスペックを、俺は考慮していなかった。
F1マシンを作ったはいいが、それに乗るドライバーと、ピットクルーが悲鳴を上げている。
ここで人を雇おうにも、教育には時間がかかる。即戦力などそうそういない。
「……すまなかった、佐藤」
俺は地図を閉じた。
「北総は後回しだ。……今すぐ横浜へ戻る」
「戻ってどうするんです? 新しい人は連れてきてくれるんですか?」
「いや、採用は時間がかかる。すぐには無理だ」
「じゃあどうするんですか! 精神論なら聞き飽きましたよ!」
「……**『劇薬』**を使う」
俺は、社用車の後部座席に乗り込んだ。
「金と、ルール変更だ。
……運転士と駅員の負担を、物理的かつ金銭的に減らす。
多少、荒っぽい手になるが……文句は言わせん」
「荒っぽい手?」
「ああ。……今から本社に戻り、3つの命令書にサインする。
佐藤、お前も覚悟しておけ。……明日の朝から、京急の常識が変わるぞ」
俺たちは、砂煙を上げて北総の荒野を後にした。
目指すは修羅の巷、横浜駅。
崩壊寸前の現場を立て直すための、五代流「トリアージ(緊急処置)」が始まる。




