第30話 勝利の代償と、悲鳴を上げる2本のレール
昭和45年(1970年)、夏。
130km/h運転開始から数ヶ月。
京急本社・指令室は、戦場のような騒ぎになっていた。
「横浜駅、積み残し発生! ホームから人が溢れています!」
「上大岡、停車時間が延びています! ドアが閉まりません!」
「三崎口からの快特、満員すぎてサスペンションが沈みきってます! カント通過時に接触限界ギリギリです!」
『うれしい悲鳴』。
世間はそう呼ぶかもしれない。
だが、現場にとってはただの**『断末魔の悲鳴』**だった。
130km/h化と三崎のドーム効果、そして蒲田要塞の完成により、京急の輸送人員は爆発的に増加した。
国鉄から客を奪い、沿線人口は急増。
朝のラッシュ時には、赤い電車が数分おきにやってくるが、それでも客を飲み込みきれない。
現場視察に来た俺(五代)は、横浜駅のホームで立ち尽くしていた。
「……専務。限界です」
運行部長の大崎が、死んだ魚のような目で言った。
「電車を限界まで増発しましたが、これ以上は無理です。……線路が『2本(複線)』しかありませんから」
複線の限界。
前の電車がつかえれば、後ろの電車は止まるしかない。
130km/hで走れる性能があっても、駅で客扱いに手間取れば、結局はノロノロ運転になる。
* * *
その夜。保線区の詰所。
そこには、栄養ドリンクの空き瓶の山の中で、死体のように眠る作業員たちの姿があった。
「……よお、専務」
保線課長の土門が、奥からよろりと出てきた。顔色は土気色だ。
「聞いたか? 今日のレールの摩耗率。……想定の倍だ」
「……ああ」
「60キロレールもPC枕木も、モノはいい。壊れちゃいねえ。……だがな、走る回数が多すぎるんだよ」
土門が力なく笑った。
「140キロの重戦車が、ひっきりなしに走る。夜中に直しても直しても、翌日の夕方にはまたガタが来る。……俺たちはいつ寝ればいいんだ?」
俺は言葉を失った。
最強の装備を与えたつもりだった。
だが、それを運用するのは人間だ。
みなとみらい、蒲田要塞、130km/h化……。
俺は、現場の尻を叩き続けてきた。彼らの精神力と体力は、もう限界を超えている。
「……すまなかった、土門」
俺は頭を下げた。
「謝るなよ。……俺たちが作った線路だ。意地でも守るさ」
土門はタバコに火をつけた。
「だがな、専務。……これ以上『本線での工事』を増やすのは勘弁してくれよ。現場が死ぬぞ」
* * *
翌日の役員会議。
議題は「さらなる輸送力増強について」だった。
「社長! 線路を増やしましょう!」
営業担当の常務が息巻いている。
「今こそ『複々線化』です! 土地を買収して、高架を拡張して、線路を4本にすれば……」
「却下だ」
俺(五代)が遮った。
「えっ? 五代くん、君らしくないな。いつもなら即決だろう?」
社長が驚いた顔をする。
「物理的には必要です。……ですが、今の現場にそれをやる体力はありません」
俺は、土門たちの顔を思い浮かべた。
「蒲田要塞と130km/h化で、社員は疲弊しきっています。……ここでさらに本線上で巨大工事をブチ上げれば、組織が崩壊します」
俺は、机の上の「複々線化計画書」を閉じた。
「まずは、現場を休ませます。
そして、**『人』**を育てます」
「人を?」
「ええ。今の京急には、130km/hを維持するための精鋭が足りない。運転士も、保線員も、駅員もです。
……国鉄や他社から、優秀な人材を引き抜いてでも、組織を太くします」
そして、俺はもう一枚の地図……**千葉県北部(北総台地)**の地図を広げた。
「それに、本線はもうパンク状態で、新しい技術(160km/hなど)の実験をする余裕がありません」
「……だから、場所を変えます」
「場所を変える?」
「**『北総』です。
千葉のニュータウン開発に一枚噛みます。……あそこなら何もない荒野だ。
あそこに、京急の未来のための『実験線』**を作ります」
社長が呆気に取られた。
「千葉の山奥にか? 京急と繋がってもいないのに?」
「繋がっていなくてもいい。技術と人が育てば、いずれ本線に還元できます。
……あそこでなら、誰にも邪魔されず、騒音も気にせず、好きなだけスピードを出せますからね」
俺はニヤリと笑った。
「本線はしばらく『守り』に徹する。
その代わり、裏で着々と『次世代の牙』を研ぐんです」
こうして、大京急帝国の急拡大は、一時的に本線から離れることになった。
それは停滞ではない。
次なる飛躍へ向けての、必要な「合宿」の始まりだった。
本線で悲鳴を上げている土門たちには、ボーナスと休暇を。
そして俺は、新たな人材と実験場を求めて、泥沼の国鉄闘争と、千葉の荒野へ向かう。




