第3話 油まみれの天才と、歌う電車の設計図
役員会で老人たちを黙らせたその足で、俺は本社を出た。
向かった先は、神奈川新町にある検車区だ。
ここは京急の車両基地であり、心臓部でもある。
昼下がりの検車区は、鉄と油の匂いが立ち込めていた。
線路には、点検中の旧型車両が並んでいる。
作業員たちがハンマーで台車を叩く音が、カンカンと響く。
活気はある。だが、俺にはそれが「古臭い職人の意地」にしか見えなかった。
「……専務、こんな汚いところに何のご用で?」
秘書の佐山がハンカチで鼻を押さえながらついてくる。
「宝探しだ」
俺は迷わず奥へと進んだ。
目指すは、検修庫の片隅にある小さなプレハブ小屋。「技術開発課」という看板が傾いて掛かっている。
ドアを開けると、そこは書類と図面の山だった。
その中心に、一人の男がいた。
油で汚れた作業着。ボサボサの髪。丸めた図面を枕に、机で居眠りをしている。
「……おい、起きろ」
俺は机を蹴飛ばした。
「んあ……?」
男がのそりと顔を上げた。
眠そうな目だが、その奥には鋭い光が宿っている。
加賀谷匠。28歳。
京大工学部出身ながら、「現場で機械を弄っていたい」という理由で、出世コースを蹴ってここに居座っている変人だ。
前世の歴史では、彼は冷遇され、その才能を発揮できないまま定年を迎えるはずだった。
だが、俺は知っている。こいつこそが、世界レベルの「鉄道狂い」であることを。
「……なんだ、五代専務か。また視察ごっこですか?」
加賀谷はあくびを噛み殺しながら言った。敬語を使っているが、態度は不遜そのものだ。
「仕事の話だ。加賀谷、今の京急の車両についてどう思う?」
「どうって……。走る骨董品ですね」
加賀谷は即答した。
「吊り掛け駆動はうるさいし、乗り心地は最悪。抵抗制御は電気を熱として捨てているだけ。……資源の無駄遣いです」
「なら、どうすればいい?」
「モーターを変えるしかありません。カルダン駆動にして、高回転型のモーターを積む。……まあ、上が予算を出さないでしょうけど」
加賀谷はまた机に突っ伏そうとした。
俺は、懐から一枚の紙を取り出し、彼の目の前に叩きつけた。
「……なんだこれ?」
加賀谷が片目を開ける。
そこには、前世の俺が記憶を頼りに描いた、ある電気回路の図面があった。
「これは……三相交流誘導電動機?」
加賀谷の目が開いた。
「待ってください。電車は直流モーターで動くのが常識だ。交流モーターなんて、制御が難しすぎて使い物になりませんよ」
「制御できるとしたら?」
俺は図面の横に、もう一つの回路図を書き足した。
「スイッチング素子を使って、直流を交流に変換する。その際、電圧と周波数を自在に変えることで、モーターの回転数を制御する」
俺はスラスラと数式を書いた。
VVVFインバータ制御(Variable Voltage Variable Frequency)。
20年後に実用化されるはずの技術だ。
「……電圧と、周波数を、可変させる……?」
加賀谷が図面を食い入るように見つめた。
彼の脳内で、電流が走っているのが分かる。
「……理論上は可能です。コンバータで整流して、インバータで……。いや、でもスイッチングのタイミングはどうする? パルス幅変調(PWM)か?」
「正解だ」
俺はニヤリと笑った。
「こいつを使えば、抵抗器はいらない。熱も出ない。電気代は半分になる。そして何より……」
俺は加賀谷の顔に顔を近づけた。
「空転しない」
加賀谷が息を呑んだ。
鉄道技術者にとって、「空転」は最大の敵だ。特に雨の日や急勾配では、車輪が空回りして前に進まない。
だが、誘導モーターとインバータ制御なら、マイクロ秒単位でトルクを制御できる。
どんな急坂でも、どんな悪天候でも、地面に吸い付くように加速できる。
「……専務。あんた、何者だ?」
加賀谷が震える声で聞いた。
「ただの創業家のボンボンじゃないな。……この回路図、今の日本の技術じゃ作れませんよ。半導体が追いついていない」
「作れるさ」
俺は断言した。
「ドイツのシーメンス社が、パワートランジスタの実験に成功したという情報がある。……俺たちはそこへ行く」
「ドイツへ?」
「ああ。技術提携だ。向こうの素子を輸入し、お前の設計で車両に載せる。……世界初のインバータ電車を作るんだ」
加賀谷の顔から、眠気が完全に消え失せていた。
代わりに浮かんでいるのは、マッドサイエンティストのような狂喜の笑みだ。
「世界初……。いい響きだ」
加賀谷は立ち上がり、汚れた手で図面を握りしめた。
「やらせてください。……いや、やります。俺なら、こいつを走らせてみせる」
「頼もしいな。だが、一つ条件がある」
「条件?」
「音だ」
俺は人差し指を立てた。
「このインバータは、スイッチング周波数が可聴域(人間の耳に聞こえる範囲)に入る。……ただのノイズじゃ面白くない」
前世の記憶にある、あの美しい旋律。
京急を象徴する、あの「ドレミファ」の音階。
あれは、ドイツの技術者の遊び心と、偶然が生んだ産物だ。だが、今回は意図的に再現する。
「磁励音を、音階にしろ」
「はあ? 電車に歌わせろって言うんですか?」
「そうだ。発車する時、**『ファソラシドレミファ……』**と音階を奏でるようにパルスを設定しろ。……それが、新生・京急の産声になる」
加賀谷は呆れたように笑った。
「……アンタ、とんでもないロマンチストか、大馬鹿野郎のどっちかですね」
「両方さ。……で、乗るか?」
俺が手を差し出すと、加賀谷は油まみれの手でそれを強く握り返した。
「乗りますよ。その泥舟……いや、宇宙船に」
こうして、俺と加賀谷の「悪魔の契約」は成立した。
俺がカネと知識を持ってくる。こいつが形にする。
最強のタッグの誕生だ。
帰り際、佐山が恐る恐る聞いてきた。
「専務……あんな変人に任せて大丈夫なんですか? 予算は……」
「予算なら、さっき役員会でもぎ取ってきた。……佐山、お前もパスポートを取っておけ。来週にはドイツへ飛ぶぞ」
俺は空を見上げた。
待っていろ、シーメンス。
そして震えて眠れ、国鉄。
歌う電車が、お前らの常識をすべて過去のものにしてやる。
用語解説
吊り掛け駆動: 昔の電車の駆動方式。モーターが車軸にぶら下がっており、「グオオオオン!」という重低音と振動がすごい。
VVVFインバータ: 電圧と周波数を変えてモーターを制御する技術。
省エネで高出力。現代の電車の主流。
ドレミファインバータ: 起動時の磁励音を、あえて音階に聞こえるように調整したシーメンス製のインバータ。




