第26話 頭上の綱渡りと、走る電車への外科手術
昭和44年(1969年)、夏。
京急蒲田駅周辺は、異様な緊張感に包まれていた。
住民の合意は取れた。しかし、現場には**「土地」**がなかった。
線路の両脇は商店街と住宅がびっしりと張り付き、工事用車両が入るスペースすらない。
しかも、線路には数分おきに満員電車が走っている。
「……正気の沙汰じゃありませんよ」
現場監督が、図面を握りしめて震えていた。
「電車の真上に橋桁を架けるなんて……。もしボルト一本でも落としたら、下の電車の屋根を突き破って大惨事です」
『直上高架方式』。
現在走っている線路の真上に、そのまま高架橋を建設する工法だ。
通常なら、まず横に「仮線(仮の線路)」を敷いて電車を移してから工事をする。だが、蒲田にはその「横の土地」がない。
だから、電車を走らせたまま、その頭上で工事をするしかないのだ。
俺(五代)は、ヘルメットを被って現場に立っていた。
轟音と共に、赤い電車が走り抜けていく。そのわずか数メートル上空に、鉄骨の足場が組まれている。
「監督。……ビビってる暇はないぞ」
俺は空を見上げた。
「普通のクレーンじゃ無理だ。アームを旋回させる場所がない。……だから、アレを使う」
俺が指差した先。
そこに鎮座していたのは、巨大な**「門型クレーン(ガントリークレーン)」**のような特注の重機だった。
「名付けて、**『移動式架設機』**だ」
五代が未来の知識(つくばエクスプレスや後の京急蒲田工事)から引っ張り出した技術だ。
線路をまたぐように巨大な「門」を組み、その上をクレーンが移動しながら、橋桁を釣り上げて設置する。
これなら、線路の外側にクレーンを置く必要がない。線路の真上だけで作業が完結する。
「……夜間作業だ。終電から始発までの3時間半。その間に、橋桁を一本ずつ架けていく」
* * *
深夜1時。
終電が通り過ぎ、線路閉鎖の合図が出た瞬間、蒲田の空がライトで照らし出された。
「急げ! 時間がないぞ!」
「架線(電線)の電気は切ったか!?」
「接地よし! 作業開始!」
数百人の鳶職たちが、蜘蛛のように足場を駆け上がる。
俺が導入した「移動式架設機」が唸りを上げる。
数十トンのコンクリート橋桁(PC桁)が、ゆっくりと空中に持ち上げられる。
下には、始発を待つ線路と、民家の屋根がある。
もしワイヤーが切れたら終わりだ。
現場は、針の穴を通すような緊張感に包まれていた。
「……右、オーライ! 下げろ!」
「ゆっくりだ! 既設の架線柱にぶつけるなよ!」
加賀谷技術部長が、無線機を握りしめて叫んでいる。
彼の背中は汗でびっしょりだ。
俺も、固唾を呑んで見守っていた。
ガチンッ!
重厚な金属音が響き、橋桁が所定の位置に収まった。
「……固定完了! 次の桁、行け!」
時間との戦いだ。始発列車が来る朝5時には、絶対に線路上の障害物を撤去し、安全確認を終えなければならない。
もし1分でも遅れれば、通勤ラッシュが大混乱に陥る。
* * *
朝4時30分。
空が白み始めた頃、作業終了のブザーが鳴った。
「退避! 全員、線路から離れろ!」
「点検急げ! ボルトの落下はないか!?」
始発の警笛が聞こえる。
現場監督が青ざめた顔で最終チェックを終え、緑色の旗を振った。
ゴオォォォ……!
一番列車が、真新しい橋桁の下を、何事もなかったかのように通過していく。
乗客たちは気づいていないだろう。
自分たちの頭上に、一夜にして巨大な「天井」が出現したことを。
「……ふぅ」
加賀谷が、その場にへたり込んだ。
「寿命が縮みますよ、専務。……これをあと何百回繰り返すんですか?」
「蒲田要塞が完成するまでだ。……あと2年は続くぞ」
俺は缶コーヒーを加賀谷に渡した。
「だが、見ろ。……第一京浜の上に、道ができた」
俺たちが架けた橋桁は、国道15号を跨いでいた。
これで、まずは「下り線」の高架化への足掛かりができた。
しかし、蒲田要塞の本当の難関は、直上高架だけではない。
俺は、図面の端に描かれた**「空港線」**の分岐を見た。
現在の空港線は、蒲田駅から急カーブで分岐する単線だ。
しかも、本線と平面交差しているため、空港行きが出ると本線の電車が止まる。
これをどうやって高架化し、スムーズに分岐させるか?
普通の高架駅(1層構造)では、どうやっても平面交差が残ってしまう。
ダイヤの癌だ。
「……加賀谷。そろそろアレの話をするか」
「アレ?」
「蒲田駅を**『二階建て』**にする話だ」
「はあ!? 駅の上に駅を作るんですか!?」
次回、伝説の「二層式高架駅」の設計図が明かされる。
本線と空港線を、立体的にさばくための究極の解。
それは、駅というより、巨大なジャンクション(要塞)だった。




